コメント
やはり凄い。甲子園初登板を完封の山口哲治~!
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-24 00:03:18
こーじ さん
札幌商(現・北海学園札幌)という校名が時代を感じます。この頃は同校とか北海道日大、函館有斗、旭川龍谷などが北海道の中心で、古豪の北海高校は鳴りを潜めていました。80年夏が札幌商の最後の出場でしたが、旭川大高校ともに2勝を挙げて3回戦進出。北海道旋風などと言われましたよね。
智弁の高嶋監督は当時まだ30才の若さでしたが、今以上に怖い監督やなぁと子供心に思いました。翌夏の二回戦の川口工戦は12‐0と圧勝したにも関わらず、試合中すごい剣幕で選手を叱責していましたからね。それで選手が萎縮してしまい、次の今治西に完敗したのでは。。と思えてならないです。いくら三谷がよかったとはいえ、智弁も春ベスト4の実力校でしたからね(同ベスト8の天理、同優勝の箕島も存在した紀和大会を勝ち抜いたことも凄いレベルです)。
札幌商は好チームで毎回出ていた印象ですが、ややパワー不足の感とクジ運もやや悪いですね。79年夏はあの箕島といきなり当たりましたし‥。青いユニ「SASSHO」が懐かしいです☆
訂正です。。早トチりしました
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-24 23:24:16
こーじ さん
この試合は書かれてますように智弁は阪本が完封勝利でした。彼が毎回奪三振できる実力者だったことから、まだ山口がエースでなかったんですね。75年~81年までは天理・智弁のみしか出場のない奈良県。その2強と郡山以外で夏に出場したとなると69年の御所工まで遡らないといけない御三家のカベ。斑鳩、高田商、高田、橿原、広陵、一条など春はいろいろな高校が出ていますがね‥☆
この頃の札幌商は
(
こーじ
)
2008-12-25 00:16:54
>なにわのヒバゴン様
この頃の札幌商は、ユニフォームはまだ白でした。
青になったのは79年からで80年にベスト16で早実に
0-2で完封負けしていらいご無沙汰でしたが、校名が変わっていたというのを最近知りました。
高嶋監督は写真でみても当時から怖い感じでしたね、とても30代には見えませんでした。
昭和の甲子園
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-25 19:19:00
こーじ さん
高嶋監督の奈良智弁の頃は試合前に数珠を手に座禅を組んでました。高松商も守備に着く際に儀式っぽいことを行ってましたね。その両校が出ていた76年春‥
甲子園球場の場外ではかつて露店がいろいろとあり、イカ焼き、リンゴ飴、フランクフルト、飲み物など父親に買ってもらったものです。最初ラ行がうまく言えず、習志野高校を「ながしのこうこう」って言ってました。カチワリは80年頃、場内は150円でしたが、少し歩いた露店は氷の量も倍くらいで120円という破格で売られていました。麦わら帽(日立のマーク入り)にチューリップハット‥江川やバンビ、ドカベンの時代ですね☆
甲子園最多勝の中村監督は福岡県、高嶋監督は長崎県出身でともに昭和21年生まれの九州人。イメージとして高嶋氏は関西ですよね。選手としても甲子園経験がありますし、凄い野球人です。初采配から甲子園20連勝の中村氏と和歌山転任後初戦5連敗の高嶋氏。対照的なスタートでしたが、94年春に両雄が対決してその結果が歴史を変えましたよね。甲子園の実績もさることながら、夏の県大会決勝では16連勝?の智弁和歌山。最多勝まであと3勝と迫り、高嶋監督は自身、チームをまた締め直してくることでしょうね‥☆
九州出身監督は
(
こーじ
)
2008-12-26 00:29:53
>なにわのヒバゴン様
あと有名な九州出身監督は佐賀商OBで駒大苫小牧を強くした香田監督がいますよ。
智弁和歌山は当初勝てないので有名で、初勝利を挙げるまで8年かかりましたね。
高松商の儀式は志摩供養というもので、3塁手だった
志摩の墓標という事で守備位置に着く前に選手全員で円陣を組み、キャプテンが口に含んだ水を3塁ベースにかけてました。
思い出す仙台育英×高松商
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-26 05:48:30
こーじ さん
そう志摩供養と言われました。ただ78年頃はもうやらなくなりましたよね。春の浪商戦や夏の仙台育英戦は試合開始から終了までテレビに釘付けでした。春の河地もよかったですよ。ドカベン香川が甲子園練習で特大の一発を叩き込み、恐れをなした高松商は香川を2敬遠などして作戦勝ち。牛島の初球はホームベース前に叩き付けたらしいですが、記憶にないですね(ナイターだったのは覚えてます)
夏の仙台育英戦は第一試合。ラジオ体操から戻ってテレビに見入ってました。河地は快速球で、大久保は剛球のイメージでしたね。太陽がギラつくなか両軍ゼロ行進が続く‥。そして運命の17回の裏、サヨナラ死球というあまりに残酷な結末で仙台が勝利。ガックリとうなだれた河地投手の涙は忘れられないですね
ユニフォーム、高松商は一時期「TAKASHO」になってましたね。90年春、三好投手の頃でしょうか
仙台育英もまだ金沢監督の時代だったこともあり「IKUEIGHS」でした。育英学園ハイスクールの略なんでしょうね。竹田監督以降のユニの方が力強いイメージ(袖にライオンのエンブレム)です☆
高野連の横車で
(
こーじ
)
2008-12-27 00:02:57
>なにわのヒバゴン様
志摩供養は高野連が‘試合進行の妨げになる’と言って78年からは試合前のノックでやっていたようですよ。
高松商ー浪商は最終回2アウト満塁でレフトのファインプレーで終わってます。
もともと仙台育英は育英学園という名前だったようで、金沢監督時代は白にIKUEI GHSと入れてました。
今のグレーにライオンエンブレムは竹田監督になった86年からですね。
そう言われれば
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-27 05:16:40
こーじ さん
78年春、浪商は9回反撃を見せたようにも思います。最後はレフトのファインプレーでしたか‥。翌日の新聞に河地がガッツポーズした写真と「ドカベン斬った~!」の文字が踊っていました。もし浪商が勝っていたら次は東北、さらに浜松商‥と想像が膨らみますね。樽井、あるいは木暮×ドカベン、牛島×阿久沢なんかも実現すれば面白かったでしょうね
79年春に浪商×愛知がありましたが、愛知でなく東邦だったらバンビ×ドカベンの対決が見られたのに‥。本当に個性派がいろいろといた時代だったんですね
高松商も96年春夏が最後ですか。最近は尽誠、香川西の私立校が優勢ですね。丸亀城西、志度、観音寺中央、坂出商ほか公立勢も復活を期待したいです☆
2打数1安打でした
(
こーじ
)
2008-12-27 23:23:12
>なにわのヒバゴン様
河地ー香川の対決は2打数1安打の1三振でした。
1安打は強襲ヒットで、打球の鋭さに驚きましたよ。
バンビードカベンという対決は見たかったですね。
観音寺中央のバントなし野球をまた甲子園で見たいものですよ。
衝撃のアーチ~
(
なにわのヒバゴン
)
2008-12-28 07:49:28
こーじ さん
香川の愛知戦で放ったホームランは衝撃でしたよね。アンダースローの森投手でしたが、香川の打球は低い弾道でセンターへ一直線。そしてグーンと伸びてセンターがジャンプしてスタンドへ‥。恐ろしい打球の速さでした。
東洋大姫路の萩原からも一発を放ちましたし、決勝の箕島・石井からはライト戦へタイムリー二塁打。香川は一発だけでなく、テクニックも意外に持ち合わせてましたよね
震災復興センバツは観音寺中央が強かったですね。橋野監督は丸亀商時代はどちらかといえば手堅い野球を目指していた印象なのですが(ただし80年の滝川戦は例外)、観音寺では現在の常葉菊川のような攻撃野球に方向転換していました。久保投手、土井捕手、室岡、大森など懐かしいですね。夏の5人内野シフトにもセンバツ優勝校の意地をみました
80年春、丸亀商は帝京・伊東にサヨナラ弾を浴びて決勝進出ならず。勝っていれば高知商との四国対決でした。そして95年春は観音寺中央は決勝進出したものの、今治西は準決勝で敗退。橋野監督にすれば丸亀商時代を思い出されたかもしれませんね
観音寺中央は優勝投手の久保が現在監督なのでしょうか。全国制覇した高校でもなかなか出られない甲子園って やはり遠い道のりなんですね☆
Unknown
(
智弁OB
)
2016-04-27 11:50:01
なつかしいです。あの日の阪本のカーブはワンバウンド気味の球も振らせていましたね。キャッチの大石もよかった。
米田選手
(
ミック
)
2016-04-27 20:19:16
はじめまして。私も今大会が高校野球観戦40年です。開幕試合が智弁学園-福井工大福井(福井) 決勝戦も智弁学園-高松商と 40年前に出場していた学校同士に始まり、終わった大会、感慨深いです。
さて S52智弁の米田選手、読みは ヨネダではなかったと思うのですが…コメダ??でしたっけ? ウルオボエですみません。ヨネダ、でしたら尚更すみません。
そうですね
(
こーじ
)
2016-04-27 21:05:46
>智弁OB様
たしかにワンバウンド気味のボールを投げる事ができてもキャッチャーがしっかり捕れなければ振り逃げになりますし、当時はああいうカーブを投げる投手は稀でしたから大石捕手の力量は素晴らしかったと思います。
それが
(
こーじ
)
2016-04-27 21:10:31
>ミック様
という事は同世代ですね。
私もこの大会は新聞を切り抜いて保存してましたので。
この時の1番サード・米田は2年生でアナが‘ヨネダではなくコメダです’と語ってましたが、翌年は3番で‘ヨネダ’と呼ばれてましたから私も‘どっちやねん’と混乱したのを覚えてます。
ちなみに米田と同学年の熊工・後生川は甲子園では
‘ゴショウガワ’でしたけど後に‘ゴセガワさん’と
言われてまして、あの頃の選手呼称は意外にいい加減だったというのがわかります。
早速のお返事ありがとうございます☆ミ
(
ミック
)
2016-04-27 23:36:33
まあ!なんと言う事でしょう。
同じ選手を年度によって 言い間違えていたとは…
また熊本工業 先頭バッターの後生川選手も 実は ゴセガワ だったとはビックリポンです。
場内アナウンスも ゴショウガワ君とコールしていたような‥
実は私はある市民球場で 社会人軟式野球などの場内アナウンスをしていた事がありまして
選手のお名前には神経を使ったものです。
あの頃は おおらかだったのでしょうか…
素晴らしい記事の数々 またお邪魔させて頂きますね♪
連投失礼します
(
ミック
)
2016-04-27 23:48:53
札幌商業のユニフォームの色が話題に出ていましたが 取手二も 水色→白→水色 と変わりましたよね。
豊見城も TOMISHIROから左胸に豊と変わったり‥懐かしいです☆ミ
おおらかというより
(
こーじ
)
2016-04-28 22:37:51
>ミック様
おおらかというより、いい加減な時代かもしれませんよ。
それが判明したのは80年に我々のライバル・田川が甲子園に出場した時に選手の呼び名を間違えるは、控え投手をはじめとした控え選手の序列すらグチャグチャに言ってましたからね。
札幌商の水色ユニは79年からですかね。
翌80年に2勝して‘これから’と思われたものの、以後出場なしですね。
取手二の白ユニは78年のみで初戦敗退したためか、すぐに水色に戻りました。
ちなみにグレーユニの代表格の1つ熊本工ですが75年春までは白にローマ字表記だったのが76夏に漢字の熊工になって、現在のグレー地に熊工は77年春からですね。
これを知っているファンは40代後半以降という時代になりました。
竜谷
(
ミック
)
2016-05-15 22:15:12
いつもお世話になっております。
ユニフォームのお話が出ましたので 一つ質問です。
S55に 佐賀の竜谷が初出場しましたね。
開会式は 左胸縦に 竜谷
試合では胸に 竜谷高校 とありましたが
こういう例は初めてでしたので 不思議でした。
何か理由があったのでしょうか?
よく見つけられましたね
(
こーじ
)
2016-05-16 22:44:30
>ミック様
そうなのですよ、佐賀の竜谷は開会式では予選のユニ
でしたけど甲子園初戦では新ユニが間に合ったようです。
これと似たような話が77年の熊工で選抜の開会式では
白地に熊工だったのが2日目の試合ではグレーになっていたので驚いたのを覚えてます。
熊工は横浜と並ぶグレーユニの代表ですけど75春までは白地にKUMAKOのローマ字表記だったのが、76夏は白地に熊工の漢字表記になり77春から現在のグレー地になってます。
ちなみに77年といえば77夏に初出場した九州産業が予選まではKYUSANだったのが当時では珍しい九産大付・九州産業という漢字表記になりましたし、当時鹿児島商工だった樟南は予選でSHOKOだったのが開会式で緑の縦じまで鹿商工になり80年から白地に鹿商工になったのです。
素晴らしい
(
ミック
)
2016-05-17 08:29:16
こーじ様 いつもご回答くださり ありがとうございます☆彡
さらにはそれに関連する様々な事も教えて下さり 感謝感謝です!
昨夏の竜谷は そのどちらでもなかったですね。
また福大大濠が 一時横書きのユニフォームに変わったようですが またもとに戻ったようでホッとしています♪
熊本工業の白いユニフォーム 見てみたいですし
緑のストライプの鹿児島商工 懐かしいです。
当時 あまりない色でしたものね。
色々勉強になります、ありがとうございます♪
どういたしまして
(
こーじ
)
2016-05-17 23:02:27
>ミック様
たしかに大濠が一時期 横書きになっていたのは私も
知ってますけど、決していいとは思わなかったし実際弱かったですからね。
あまりユニのデザインを変更するというのは個人的に
好きではありません。
豊見城も78年夏だけ‘豊’の一文字だけという年がありましたけど、あまり強そうに見えず不完全燃焼で終わったのを覚えてます。
報知高校野球では年に1度だけ熊工のユニが白で試合をする時があるという記事がありましたね。
私も高校野球観戦歴40年を越えましたので、それなりの事は答えられますからいつでも分からない事があれば
高校野球カテゴリーの別の記事でも構いませんのでコメントください。
今年も宜しくお願いします
(
ミック
)
2017-01-08 10:11:02
新年のご挨拶 遅くなりました。今年も宜しくお願いします。
以前おっしゃっていた田川の選手のアナウンスの読み方がぐちゃぐちゃ、との事。
先日図書館で朝日新聞縮刷版で選手の名前を見てきましたが 難しい読みはなかったような…
熊谷(くまがい くまがや くまたに)
手島 中島 はにごるか否か…
こういうあたりは必ず確認が必要ですよね。
都城商業の黒原君は ちゃんと くろばる、とアナウンスされていたのか 気になって来ました(笑)
今年も宜しくお願いします。
(
こーじ
)
2017-01-10 00:23:21
>ミック様
田川の熊谷は‘くまがい’でしたし、手島&中島は‘なかしま’‘てしま’でにごりませんでした。
それを熊谷を‘くまがや’と読んでましたし、控え投手なのに2塁の控え扱いでしたから立腹したものです。
ところで大濠が久しぶりに甲子園出場でしょうが、
大濠の校歌は本来は福岡大の応援歌で、サビの部分‘福大~福大~大濠校’と歌いますが実は最後の部分が‘おおおお福大’というのを‘大濠校’と替えただけと大濠OBの人が教えてくれました。
いつもお世話になっています
(
ミック
)
2017-03-11 21:18:15
また苗字の読みに関して質問です。
S51年天理投手 福家君ですが こちらは「ふけ」君と認識していましたが…実際は如何でしたでしょうか?
いつも古い話で恐縮です。
いえいえ大丈夫です
(
こーじ
)
2017-03-11 23:17:00
>ミック様
76春夏&77春の天理のエースは福家(ふくや)と読みました。
彼は76選抜こそよかったのですが、以降はさっぱりでしたしプロでもタイガースに入ったもののパッとせずに終わりました。
76年は新田主将が150㎝台と小柄だったのに対し福家が180㎝台と対照的な組み合わせでした。
ちなみに町内に同じく福家と書く店がありますが、コチラは(ふくいえ)でした。
ありがとうございます!
(
ミック
)
2017-03-12 21:01:06
福家君は フクヤ君でしたか。
私はS51の秋田商との試合を録音して その後も何度か聞いていて フケ君、と言われていたようにずーっと思っていました。
あの試合は今はフリーの草野仁さんが実況してました。小柄な新田キャプテンの溌剌プレーを褒めてました。
新田キャプテンは 泉州の監督になられて甲子園に戻ってきましたね。
そうですね
(
こーじ
)
2017-03-13 21:09:48
>ミック様
天理-秋田商は草野仁アナですか。
実はこの試合の時は川遊びに行っておりラジオで聞きながらでしたのですが、3回まで4-4と点の取り合いになった反面4回からは一転して福家ー山岡の投げ合いという二面性の試合で凄く面白かったです。
秋田商の佐藤・武藤・加藤・進藤の‘四藤(とう)打線の迫力は凄かったですよ。
新田主将は泉州の監督で勝った相手が翌年夏に優勝する取手二でしたよね。
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札幌商(現・北海学園札幌)という校名が時代を感じます。この頃は同校とか北海道日大、函館有斗、旭川龍谷などが北海道の中心で、古豪の北海高校は鳴りを潜めていました。80年夏が札幌商の最後の出場でしたが、旭川大高校ともに2勝を挙げて3回戦進出。北海道旋風などと言われましたよね。
智弁の高嶋監督は当時まだ30才の若さでしたが、今以上に怖い監督やなぁと子供心に思いました。翌夏の二回戦の川口工戦は12‐0と圧勝したにも関わらず、試合中すごい剣幕で選手を叱責していましたからね。それで選手が萎縮してしまい、次の今治西に完敗したのでは。。と思えてならないです。いくら三谷がよかったとはいえ、智弁も春ベスト4の実力校でしたからね(同ベスト8の天理、同優勝の箕島も存在した紀和大会を勝ち抜いたことも凄いレベルです)。
札幌商は好チームで毎回出ていた印象ですが、ややパワー不足の感とクジ運もやや悪いですね。79年夏はあの箕島といきなり当たりましたし‥。青いユニ「SASSHO」が懐かしいです☆
この試合は書かれてますように智弁は阪本が完封勝利でした。彼が毎回奪三振できる実力者だったことから、まだ山口がエースでなかったんですね。75年~81年までは天理・智弁のみしか出場のない奈良県。その2強と郡山以外で夏に出場したとなると69年の御所工まで遡らないといけない御三家のカベ。斑鳩、高田商、高田、橿原、広陵、一条など春はいろいろな高校が出ていますがね‥☆
この頃の札幌商は、ユニフォームはまだ白でした。
青になったのは79年からで80年にベスト16で早実に
0-2で完封負けしていらいご無沙汰でしたが、校名が変わっていたというのを最近知りました。
高嶋監督は写真でみても当時から怖い感じでしたね、とても30代には見えませんでした。
高嶋監督の奈良智弁の頃は試合前に数珠を手に座禅を組んでました。高松商も守備に着く際に儀式っぽいことを行ってましたね。その両校が出ていた76年春‥
甲子園球場の場外ではかつて露店がいろいろとあり、イカ焼き、リンゴ飴、フランクフルト、飲み物など父親に買ってもらったものです。最初ラ行がうまく言えず、習志野高校を「ながしのこうこう」って言ってました。カチワリは80年頃、場内は150円でしたが、少し歩いた露店は氷の量も倍くらいで120円という破格で売られていました。麦わら帽(日立のマーク入り)にチューリップハット‥江川やバンビ、ドカベンの時代ですね☆
甲子園最多勝の中村監督は福岡県、高嶋監督は長崎県出身でともに昭和21年生まれの九州人。イメージとして高嶋氏は関西ですよね。選手としても甲子園経験がありますし、凄い野球人です。初采配から甲子園20連勝の中村氏と和歌山転任後初戦5連敗の高嶋氏。対照的なスタートでしたが、94年春に両雄が対決してその結果が歴史を変えましたよね。甲子園の実績もさることながら、夏の県大会決勝では16連勝?の智弁和歌山。最多勝まであと3勝と迫り、高嶋監督は自身、チームをまた締め直してくることでしょうね‥☆
あと有名な九州出身監督は佐賀商OBで駒大苫小牧を強くした香田監督がいますよ。
智弁和歌山は当初勝てないので有名で、初勝利を挙げるまで8年かかりましたね。
高松商の儀式は志摩供養というもので、3塁手だった
志摩の墓標という事で守備位置に着く前に選手全員で円陣を組み、キャプテンが口に含んだ水を3塁ベースにかけてました。
そう志摩供養と言われました。ただ78年頃はもうやらなくなりましたよね。春の浪商戦や夏の仙台育英戦は試合開始から終了までテレビに釘付けでした。春の河地もよかったですよ。ドカベン香川が甲子園練習で特大の一発を叩き込み、恐れをなした高松商は香川を2敬遠などして作戦勝ち。牛島の初球はホームベース前に叩き付けたらしいですが、記憶にないですね(ナイターだったのは覚えてます)
夏の仙台育英戦は第一試合。ラジオ体操から戻ってテレビに見入ってました。河地は快速球で、大久保は剛球のイメージでしたね。太陽がギラつくなか両軍ゼロ行進が続く‥。そして運命の17回の裏、サヨナラ死球というあまりに残酷な結末で仙台が勝利。ガックリとうなだれた河地投手の涙は忘れられないですね
ユニフォーム、高松商は一時期「TAKASHO」になってましたね。90年春、三好投手の頃でしょうか
仙台育英もまだ金沢監督の時代だったこともあり「IKUEIGHS」でした。育英学園ハイスクールの略なんでしょうね。竹田監督以降のユニの方が力強いイメージ(袖にライオンのエンブレム)です☆
志摩供養は高野連が‘試合進行の妨げになる’と言って78年からは試合前のノックでやっていたようですよ。
高松商ー浪商は最終回2アウト満塁でレフトのファインプレーで終わってます。
もともと仙台育英は育英学園という名前だったようで、金沢監督時代は白にIKUEI GHSと入れてました。
今のグレーにライオンエンブレムは竹田監督になった86年からですね。
78年春、浪商は9回反撃を見せたようにも思います。最後はレフトのファインプレーでしたか‥。翌日の新聞に河地がガッツポーズした写真と「ドカベン斬った~!」の文字が踊っていました。もし浪商が勝っていたら次は東北、さらに浜松商‥と想像が膨らみますね。樽井、あるいは木暮×ドカベン、牛島×阿久沢なんかも実現すれば面白かったでしょうね
79年春に浪商×愛知がありましたが、愛知でなく東邦だったらバンビ×ドカベンの対決が見られたのに‥。本当に個性派がいろいろといた時代だったんですね
高松商も96年春夏が最後ですか。最近は尽誠、香川西の私立校が優勢ですね。丸亀城西、志度、観音寺中央、坂出商ほか公立勢も復活を期待したいです☆
河地ー香川の対決は2打数1安打の1三振でした。
1安打は強襲ヒットで、打球の鋭さに驚きましたよ。
バンビードカベンという対決は見たかったですね。
観音寺中央のバントなし野球をまた甲子園で見たいものですよ。
香川の愛知戦で放ったホームランは衝撃でしたよね。アンダースローの森投手でしたが、香川の打球は低い弾道でセンターへ一直線。そしてグーンと伸びてセンターがジャンプしてスタンドへ‥。恐ろしい打球の速さでした。
東洋大姫路の萩原からも一発を放ちましたし、決勝の箕島・石井からはライト戦へタイムリー二塁打。香川は一発だけでなく、テクニックも意外に持ち合わせてましたよね
震災復興センバツは観音寺中央が強かったですね。橋野監督は丸亀商時代はどちらかといえば手堅い野球を目指していた印象なのですが(ただし80年の滝川戦は例外)、観音寺では現在の常葉菊川のような攻撃野球に方向転換していました。久保投手、土井捕手、室岡、大森など懐かしいですね。夏の5人内野シフトにもセンバツ優勝校の意地をみました
80年春、丸亀商は帝京・伊東にサヨナラ弾を浴びて決勝進出ならず。勝っていれば高知商との四国対決でした。そして95年春は観音寺中央は決勝進出したものの、今治西は準決勝で敗退。橋野監督にすれば丸亀商時代を思い出されたかもしれませんね
観音寺中央は優勝投手の久保が現在監督なのでしょうか。全国制覇した高校でもなかなか出られない甲子園って やはり遠い道のりなんですね☆
さて S52智弁の米田選手、読みは ヨネダではなかったと思うのですが…コメダ??でしたっけ? ウルオボエですみません。ヨネダ、でしたら尚更すみません。
たしかにワンバウンド気味のボールを投げる事ができてもキャッチャーがしっかり捕れなければ振り逃げになりますし、当時はああいうカーブを投げる投手は稀でしたから大石捕手の力量は素晴らしかったと思います。
という事は同世代ですね。
私もこの大会は新聞を切り抜いて保存してましたので。
この時の1番サード・米田は2年生でアナが‘ヨネダではなくコメダです’と語ってましたが、翌年は3番で‘ヨネダ’と呼ばれてましたから私も‘どっちやねん’と混乱したのを覚えてます。
ちなみに米田と同学年の熊工・後生川は甲子園では
‘ゴショウガワ’でしたけど後に‘ゴセガワさん’と
言われてまして、あの頃の選手呼称は意外にいい加減だったというのがわかります。
同じ選手を年度によって 言い間違えていたとは…
また熊本工業 先頭バッターの後生川選手も 実は ゴセガワ だったとはビックリポンです。
場内アナウンスも ゴショウガワ君とコールしていたような‥
実は私はある市民球場で 社会人軟式野球などの場内アナウンスをしていた事がありまして
選手のお名前には神経を使ったものです。
あの頃は おおらかだったのでしょうか…
素晴らしい記事の数々 またお邪魔させて頂きますね♪
豊見城も TOMISHIROから左胸に豊と変わったり‥懐かしいです☆ミ
おおらかというより、いい加減な時代かもしれませんよ。
それが判明したのは80年に我々のライバル・田川が甲子園に出場した時に選手の呼び名を間違えるは、控え投手をはじめとした控え選手の序列すらグチャグチャに言ってましたからね。
札幌商の水色ユニは79年からですかね。
翌80年に2勝して‘これから’と思われたものの、以後出場なしですね。
取手二の白ユニは78年のみで初戦敗退したためか、すぐに水色に戻りました。
ちなみにグレーユニの代表格の1つ熊本工ですが75年春までは白にローマ字表記だったのが76夏に漢字の熊工になって、現在のグレー地に熊工は77年春からですね。
これを知っているファンは40代後半以降という時代になりました。
ユニフォームのお話が出ましたので 一つ質問です。
S55に 佐賀の竜谷が初出場しましたね。
開会式は 左胸縦に 竜谷
試合では胸に 竜谷高校 とありましたが
こういう例は初めてでしたので 不思議でした。
何か理由があったのでしょうか?
そうなのですよ、佐賀の竜谷は開会式では予選のユニ
でしたけど甲子園初戦では新ユニが間に合ったようです。
これと似たような話が77年の熊工で選抜の開会式では
白地に熊工だったのが2日目の試合ではグレーになっていたので驚いたのを覚えてます。
熊工は横浜と並ぶグレーユニの代表ですけど75春までは白地にKUMAKOのローマ字表記だったのが、76夏は白地に熊工の漢字表記になり77春から現在のグレー地になってます。
ちなみに77年といえば77夏に初出場した九州産業が予選まではKYUSANだったのが当時では珍しい九産大付・九州産業という漢字表記になりましたし、当時鹿児島商工だった樟南は予選でSHOKOだったのが開会式で緑の縦じまで鹿商工になり80年から白地に鹿商工になったのです。
さらにはそれに関連する様々な事も教えて下さり 感謝感謝です!
昨夏の竜谷は そのどちらでもなかったですね。
また福大大濠が 一時横書きのユニフォームに変わったようですが またもとに戻ったようでホッとしています♪
熊本工業の白いユニフォーム 見てみたいですし
緑のストライプの鹿児島商工 懐かしいです。
当時 あまりない色でしたものね。
色々勉強になります、ありがとうございます♪
たしかに大濠が一時期 横書きになっていたのは私も
知ってますけど、決していいとは思わなかったし実際弱かったですからね。
あまりユニのデザインを変更するというのは個人的に
好きではありません。
豊見城も78年夏だけ‘豊’の一文字だけという年がありましたけど、あまり強そうに見えず不完全燃焼で終わったのを覚えてます。
報知高校野球では年に1度だけ熊工のユニが白で試合をする時があるという記事がありましたね。
私も高校野球観戦歴40年を越えましたので、それなりの事は答えられますからいつでも分からない事があれば
高校野球カテゴリーの別の記事でも構いませんのでコメントください。
以前おっしゃっていた田川の選手のアナウンスの読み方がぐちゃぐちゃ、との事。
先日図書館で朝日新聞縮刷版で選手の名前を見てきましたが 難しい読みはなかったような…
熊谷(くまがい くまがや くまたに)
手島 中島 はにごるか否か…
こういうあたりは必ず確認が必要ですよね。
都城商業の黒原君は ちゃんと くろばる、とアナウンスされていたのか 気になって来ました(笑)
田川の熊谷は‘くまがい’でしたし、手島&中島は‘なかしま’‘てしま’でにごりませんでした。
それを熊谷を‘くまがや’と読んでましたし、控え投手なのに2塁の控え扱いでしたから立腹したものです。
ところで大濠が久しぶりに甲子園出場でしょうが、
大濠の校歌は本来は福岡大の応援歌で、サビの部分‘福大~福大~大濠校’と歌いますが実は最後の部分が‘おおおお福大’というのを‘大濠校’と替えただけと大濠OBの人が教えてくれました。
S51年天理投手 福家君ですが こちらは「ふけ」君と認識していましたが…実際は如何でしたでしょうか?
いつも古い話で恐縮です。
76春夏&77春の天理のエースは福家(ふくや)と読みました。
彼は76選抜こそよかったのですが、以降はさっぱりでしたしプロでもタイガースに入ったもののパッとせずに終わりました。
76年は新田主将が150㎝台と小柄だったのに対し福家が180㎝台と対照的な組み合わせでした。
ちなみに町内に同じく福家と書く店がありますが、コチラは(ふくいえ)でした。
私はS51の秋田商との試合を録音して その後も何度か聞いていて フケ君、と言われていたようにずーっと思っていました。
あの試合は今はフリーの草野仁さんが実況してました。小柄な新田キャプテンの溌剌プレーを褒めてました。
新田キャプテンは 泉州の監督になられて甲子園に戻ってきましたね。
天理-秋田商は草野仁アナですか。
実はこの試合の時は川遊びに行っておりラジオで聞きながらでしたのですが、3回まで4-4と点の取り合いになった反面4回からは一転して福家ー山岡の投げ合いという二面性の試合で凄く面白かったです。
秋田商の佐藤・武藤・加藤・進藤の‘四藤(とう)打線の迫力は凄かったですよ。
新田主将は泉州の監督で勝った相手が翌年夏に優勝する取手二でしたよね。