KEEP ON SMILING!

治らぬなら
治してみせよう
SLE
※SLEとはステキなレディーがなるエレガントな病気である。

ゴスペルコンサート♪その5

2006-03-20 22:23:24 | ☆日記・随筆☆
感動したゴスペルコンサート。
親友の活躍に自分も自分の道を頑張ろうと思えた日。
なんて今日は素敵な日だったんだろう。
二人の親友よ、ありがとう。
読○新聞よ、ありがとう。
神様よ、ありがとう。

そう思いながら、第二の故郷京都をあとにする。
電車に乗ると、別の友人から電話がかかってくる。
残念ながら私はマナーを守る偉い若者なので、電話には出ず(常識のない人には分からないかもしれないが、電車の中で電話をとるのはマナー違反である)、メールでどうしたかを尋ねてみると、その友人もコンサートに行っていて私がそのコンサートにいたことを知り、お茶でもしないかと誘ってくれたのだ。
あいにくもうすでに梅田行きの電車の中だったためその友人には会えず仕舞いだった(電車に乗らない人には分からないかもしれないが、客一人の都合で電車の行き先を変えることはいくら私でも不可能である)。
私が乗っている電車が実は京都行きだったならば会えたのに、私は自分が目的地をしっかり見定め電車に乗る優秀な人間であることを悔やんだ(サルや犬には分からないかもしれないが電車にはそれぞれ目的地が表示されている)。

そして無事に家に帰った。
すると、その電話をくれた友人から郵便が届いていた。
なんだろうと開けてみると、
NANA 15巻!!!
手紙によると、プレゼントらしい。
不思議だ。
なぜ私がNANA15巻をほしがっていたのが分かったのだろう。
彼女は一人暮らしでパソコンがなく、携帯も煮物の中に落としたため私のブログは読んでいないはずなのに。
私のブログを初めて見た人、私のことを知らない人、私のことに興味のない人のために言っておくと、私はかなりのNANAファンである。
好きな漫画には「エースをねらえ!」「ベルサイユのばら」「パタリロ!」に加え「NANA」が入る。
これは年齢詐称疑惑が浮上しているのをごまかすためではない。
やはり私も現代の若者なのだ。

そして最近NANA15巻が出たことにより、どうやって手に入れるかを一人で試行錯誤していた。
私が立てていた対策は以下の通りである。
①毎○新聞からいただく図書カードで買う。
②ブックオフで中古本をクーポンで買う。
③NANA15巻プレゼントの懸賞がないか探して応募する。
④友達に借りる。
⑤空から降ってこないか上を見上げてみる。
⑥道に落ちていないか探す。
⑦神に祈る。

立てた対策は以上の7つだが、実際に実行していたのは⑤、⑥、⑦だけであり、今の状態は⑦が成功したと言っていい。
どうしてこの友人がいきなりNANAをくれたのかが本当にわからない。
誕生日を勘違いしているのかとも思ったが、去年誕生日プレゼントももらっているからそれも違う。
まさに神の思し召し。
彼女も見返りを求めないマザーテレサと言ってよい。
本当にありがとう。

振り返ってみると、このコンサートははじめから終わりまで神様と友人に支えられたものだった。
びっくりするほど、私は何もしていないのに周りがいろいろ支えてくれた。
今は私は無力で何も周りに返してあげることができない。
でもいつか返せたらと、感謝の気持ちを忘れないためにブログに書いておくことにした。
5つに渡り(前置きを入れると6つだ)繰り広げれられたゴスペルコンサートの記事もようやく終わりを迎える。
もし全ての記事を読んでくださった方がおられたら(人数は少ないはずだ)本当に感謝する(故に感謝する人数も少なくていいはずだ)。
そしていつかお返しができたら……とも思うが、何をどうやって返したらいいのか自分でも分からない(だがお返ししなければならない人数も少ないはずだ)。
とにかく自分の幸せな境遇に感謝だ。
こういうときは歌おう♪
はっひふっふ~ん♪ふっひはっは~ん♪
梅さん、見てるか?

ゴスペルコンサート♪その4

2006-03-20 21:20:42 | ☆日記・随筆☆
そんなこんなでやっとコンサート会場に到着。
なんとなく知り合いが来てそうな気がして隠れるように入場。
ホールに入ってからも、なるべく人目につかない座席を選んで腰をかける。
誰にも見つからないように一人の世界に入るためギリギリまでお笑いエッセイを読む(決してお笑いエッセイの続きが気になったからではない)。

私の横には全然知らない人が座る。
その横も全然知らない人が座る。
その横の横は全然知らないチンパンジーでも座っていたら面白いが、残念ながら全然知らない人間が座っていた。

コンサート開演。
照明が舞台を照らす。
ああ、始まる。
私までドキドキする。

そこでふとある失敗に気付く。
どうやらゴスペルの歌だけでなくストーリー展開がある舞台なのだが、その舞台のメインとなるセットが上手(かみて。じょうずと読んではいけない)側にある。
だが上手(じょうずではない)には大きなスピーカーも置いてあり、あまり上手(かみてと読んでいただきたい)側に座ると、スピーカーが視界の邪魔をしてしまうのだ。
そして私の座席は上手(読み方はかみて)の一番端っこ。
上手(かみてと読むべきだ)側にセットがあるのは見えていたのに、何も考えずに上手(かみてではないだろうか)の端に座るとは元舞台人の風上にもおけない。
おかげでストーリーをスピーカーに邪魔されることとなった。
上手(かみてかもしれない)にキャストが立つとスピーカーで見えない。
真っ黒い箱が人を隠すたび、自分のバカさを感じてしまった。
幸い、私の親友は上手(じょうずかもしれない)側に立つことはなく、親友の姿はずっと見ることができた。

そんな時、私の座席が揺れた。
なんだ? 地震か?
ふと横を見ると、私の隣の隣の人が赤ちゃんを抱いていて、赤ちゃんが機嫌を損ねてあやしている。
あやしているのはかまわないが、赤ちゃんを全身を使って揺らしている。
ということは一続きになっている座席全体を揺らしている。
赤ちゃんが揺らさせている。
私も揺らされている。

なんということだ。
見渡す限り、赤ちゃん連れは私の横の横の人だけだ。
つまり、揺れている席はこの端の五人がけの一列だけだ。
だから迷惑をこうむっているのはこの人を除く四人だ。
しかも座席が揺れているだけでなく、赤ちゃんの泣き声つきだ。
これでは全然知らないチンパンジーが座っていた方がましだったのではないだろうか。

我ながら座席を選ぶ能力がないと反省しつつ、自己催眠をかけることにした。

今座席が揺れているのは地震が起きているからだ。
地震大国日本では普通のことだ。
地震が起こっているにもかかわらず私の親友は舞台上で歌って頑張っているなんて素晴らしいことだ。

今聞こえている赤ちゃんの泣き声は、音響効果の一種だ。
騒音と共に歌うことで、私の親友の歌声がよりいっそううまく聞こえる。
いわゆる引き立て役なわけだ。

そんなことを考えながら舞台に集中する。

親友の歌声は素晴らしかった。
彼女の歌声がネットで紹介できないのが非常に残念だ。
帰国子女であるから英語の発音も完璧であり、本当に洋楽を聞いているみたいなのだ。
浜崎あゆみより宇多田ヒカルより絶対うまい。
ブリトニーよりもうまい。
セリーヌディオンとはりあえるのではないかと思う。
尚、この親友は女性のため、ビートルズ、山下達郎、エリック・クラプトンなどと比べてどうかといわれるとそれは判断しかねるが、少なくとも松平健よりはうまいはずである。

歌のうまい人というのは多少なりとも嫉妬の心がめばえてしまうのは人間として当然の感情であるが、彼女の場合うますぎて嫉妬する気が起きない。
歌に関しては雲の上のような存在なのだ。
これで年下なのだからびっくりする。
もちろん、彼女の努力もあるだろうが、歌唱力というのは生まれ持った才能が大きく関係する気がする。

そして彼女の歌声を聞いたの一年以上ぶりだったが、さらに歌がうまくなっていた。
よく通る遠くまでのびる歌声は端っこの視界の悪い私の席までしっかり届いてきた。
感動で涙が出てくる。
心が震える。
座席も震える。

親友のきれいな歌声と頑張っている姿に私の涙は止まらなかった。
その涙の中には変な席を選んでしまった自分の愚かさに対する涙もあったかもしれない。
とにかく一人で号泣していた。
私の横の人はとても迷惑だったと思う。
左には泣く赤ちゃんと座席を揺らすお父さん。
右にはひたすら号泣する女。
私は自分が横の人でなくてよかったと思った。

そして手拍子。
ずっと舞台に立って歌っていた人間としては客席からの手拍子ほど嬉しいものはない。
だからもちろん私も手拍子をしようとした。
しかし、私はリズム感がないのか、歌を聴きながら手拍子ができない。
手拍子をできる人が不思議でならない。
手拍子をしっかりすると歌が聴けない。
歌を聴いていると手拍子が絶対ずれる。
よっていつも私は手拍子が人とずれている。
やはりリズム感か音感でもないのだろうか。
いや、きっと集中力がありすぎるためだ。
歌を真剣に聴いているため、手拍子なんてできないのだ。
だが手拍子もやらない冷めた客だとは思われたくないので、手は動かしていたがやはり他の人とずれていたことは認めよう。

人とずれた手拍子をしながら号泣したままゴスペルコンサートは幕を閉じた。
親友の素晴らしい歌声。
一つの舞台を創り上げることの大変さを微塵もうかがわせないあの歌声。
年下だけど、親友に対してまた尊敬の念が芽生えた。
彼女は彼女の好きな道で頑張っている。
私も自分の好きな道を頑張ろう。
そう思えたコンサートだった。

正直、あまり光り輝く親友の姿なんて見たら、嫉妬したり、自分と比べて自分はなんてだめなんだろうと思ったりしないか不安だったのだが、そんな心はちっとも芽生えなかった。
どうやら自分の今生きている人生にも満足しているようだ。

ゴスペルコンサート♪その3

2006-03-20 19:04:29 | ☆日記・随筆☆
久々の親友との再会。
一年半前の入院でお見舞いに来てもらって以来だ。
かなり心がはずんだ。

そして親友のお母さんとはもっと久々だ。
しっかり話すのは中一以来の気がする。
親友のお母さんも一緒だと車の中で話題がつきないか少々不安だったがそんな心配は無用だった。
私はそんな些細なことでも心配する慎重な人間なのだ。

我が母校の話で盛り上がる。
我が母校は今年から付属の小学校ができるのだが、天然の親友はその事実を知らなかった。
その小学校の学費が年間150万だとか、給食がプリンスホテルから配給されるとか世にも恐ろしい事実を親友に伝えていたところ、おばちゃんが「見たい」と言い出した。
実はそのコンサート会場と小学校は近いので、車は小学校へと先にむかうことになった。

私達の目の前に現れた小学校は、「小学校」という言葉が似つかわしくない、非常にきれいな建物だった。
こんな小学校にお金をかけるなら、卒業した難病患者に見舞金でも送るべきだ。
見舞金とは言わなくても、花でもロングコートチワワでもいい。
薄型テレビやデジカメでもいい。
だからと言ってブルドーザーやマントヒヒはいらない。

そして私達は高級レストランに車をとめた。
ここで言う高級レストランとは、
①長く居座れる
②メニュー豊富
③ドリンクバーがある
④スープおかわり自由
⑤私以外の人はファミリーレストランと呼ぶ
ところである。

おばちゃんに厚くお礼を言って、親友と私は二人で高級レストランへと足を踏み入れた。

私の親友は非常に気がきく。
本当に感心するくらいだ。
ドリンクバーのドリンクも、スープも私の分までとってきてくれた。
まるで王様のような気分だ。
こんな気分になるのは入院したときに食事を運んでもらっていたとき以来だ。
このくらいで自分が王様という錯覚が起こせるとは我ながら得な性格だ。

そしてさらに彼女はドリンクバーでは紅茶パックを数個持って帰るという裏技を教えてくれた。
なんて親切な子だろう。

その上彼女は優しい心の持ち主で、私が知覚過敏でフライドポテトが冷めると食べられなくなるので「保温のために」と言って皿に平たくのせてあるポテトを積み上げ始めた。
その行為がどれだけ保温効果があるかは少々謎だが、気持ちが嬉しい。
積み上がったフライドポテトのタワーを前に私達はおしゃべりをした。
十年以上の親友ともなれば話は非常に盛り上がる。
しかも職業がトリマーとあって、わんちゃん話でよりいっそう盛り上がる。
食べるより話すのが中心となり、フライドポテトも盛り上がったままだ。
時間はあっと言う間に過ぎ、私だけ早めの夕食を注文して食べた。

そしてとうとう別れの時間になり、会計の時をむかえた。
そのとき、思わぬ事態が訪れた。
親友がおごってくれるというのだ。
彼女が私におごる意味が分からない。
彼女は、「お母さんが手土産がわりにおごってあげなさいって」と言う。
手土産? なぞだ。
なぜおばちゃんは私に手土産を渡したいと思ったのだろう。
なぜ手土産の代わりがおごりになるんだろう。
なぜ親友はお茶しかしてなくて私は夕食を食べて親友が全部払うのだろう。
いろんな思いが私の頭の中をよぎる。
にやっとした顔を隠して必死で断ったが、「お母さんに怒られるから」と言われてはご好意に甘えるしかない。
これはもう感謝をするしかない。ありがとう。
これから毎日彼女と彼女のお母さんの健康と幸せを祈ることにしよう。
そして私が巨万の富を得ることができたらお返しをしよう。
そう厚く誓った高級レストランでの出来事だった。

そして、自分が払うことを考慮してステーキを諦め、安い海老ドリアを注文したことを少しでも後悔してしまった自分の醜さを垣間見た瞬間でもあった。
人間とは醜い生き物である。

ゴスペルコンサート♪その2

2006-03-20 18:04:03 | ☆日記・随筆☆
そして私は久々の京都に降り立った。
学生時代の十年を過ごした京都。
第二の故郷といっても過言ではない。
だが第一の故郷というと言い過ぎになる。

相変わらず盆地の影響か寒い。
しかし雨だから寒いのかもしれない。
もしかしたら三月だから寒いのかもしれない。
私が薄着で寒いのかもしれない。
とにかく理由は分からないが寒かった。

わざわざ親友のお母さんに車を出してもらうとなっては遅刻したら失礼だ。
そう思って今時珍しい礼儀を重んずる若者の私は早めに家を出た。
早めに家を出たため、早めに京都の四条河原町駅に着いた。
待ち合わせ場所に30分も早く着いた。
早めに出発したから早めに到着するのは当然の結果のはずなのに私は驚いた。
当然の結果が予期せぬ結果だったのである。
よって30分時間をもてあますこととなった。
しかし私はこの1800秒を無駄に過ごすようなことはしない。
即デパートで空いている椅子を見つけ、読書をし始めた。
こんなに私が寸暇を惜しんで読んでいた本はプラトンの「ソクラテスの弁明」。
だとかっこいいのだが、ただのお笑いエッセイを読んでいた。

私が読書を優雅にたしなんでいたら、なぜだか周りが騒がしくなってきた。
たくさん人が集まってきたのだ。
読書を中断してこの理由について考えてみた。
①このデパートで買う気が全くないのに椅子だけを利用し読書をしていることがばれた(小心者の私はこのような小さいことでも重大な犯罪のように感じる)。
②お笑いエッセイを読んでいたため一人でいたにもかかわらずにやついていたので変な人と思われた。
③デパートに宇宙人が現れた。

私が考えた理由は以上の三つだったが、残念ながら予想は外れた。
催し物が開催されるのだ。
「池田理代子トークショー」
誰だ? と思われた方、「ベルサイユのばら」の原作者といえばお分かりだろうか?
あのベルばらの作者が京都に!!!
ぜひ見たい!!
なんてラッキーなんだ。
偶然入ったデパートで池田理代子が見られるとは。
そう思ったのもつかの間。
池田理代子トークショーは二時から。
親友と私の待ち合わせも二時。
時差がない限り、私が池田理代子を見ることは不可能だ。
国内で時差のあるアメリカが羨ましいと思った瞬間だ。
そして日本が狭く時差がないことに嘆いた瞬間でもあった。

そして二時十分前に後ろ髪をひかれながらデパートをあとにした。
別によく考えたらオスカル(フランソワ・ド・ジャルジェ)様にもマリー・アントワネット(ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュ)にも会えるわけではない、ただの原作者だ、と自分に言い聞かせながら待ち合わせの場所へと向かった。


ゴスペルコンサート♪その1

2006-03-20 17:03:26 | ☆日記・随筆☆
さて、月曜日にもなって土曜日にあったゴスペルコンサートのことを書きたいと思う。
だが、わざわざタイトルに「その1」としたのは多分一つ目の記事ではゴスペルコンサートをすべて見終わるまでを書けないと予想したからだ。
もう一つ予想するならば、多分ゴスペルコンサートが始まるまでもいかない。
さらに予想するならば、コンサート会場に行くまでもいかない。
この予想はかなりの確率で当たるだろう。
この確率は堀江元社長がいきなり釈放されてまたライブドアの社長に就任する確率より高いと胸をはって言える。
また閉会式を迎えたばかりの冬季パラリンピックが明日また開会される確率よりも高いだろう。
さらに言うなら私が明日からアラビア語が話せるようになる確率よりも高いし、今日私が筋トレをする確率よりも高い。

とにかく京都で開催された我が親友のゴスペルコンサート。
五時半開場、六時開演。
かなり微妙な時間だ。
夕食を食べるタイミングが問題だ。
コンサートが二時間ほどあれば家に帰るのは十時頃になってしまう。
十時頃に夕食を食べると、ただでさえふくよかな体がさらにふくよかになってしまう。
しかも空腹を感じながらコンサートを聴くのは親友に対して失礼だ。
私は礼儀をわきまえた女だ。

というわけで、五時頃に少し早い夕食をとろうと思い立った。
だが、一つここで問題がある。
私は非常に寂しがりやさんなのだ。
一人で食事というのがあまり好きではない。
もちろん私も大人なのだからできないことはない。
だがすすんでしようとは思わない。
よく考えたらわざわざ京都まで出るわけだから、私に会いたがっているのに会えずにいるたくさんの京都にいる友人たち(この場合のたくさんは0以上の数字を意味する)の一人を誘ってみようと思い立った。

そこで、京都に住む中一からの親友をお茶に誘った。

ここでネットを通して私と出会った人は「あれ? uchoってやたら親友が多くないか?」と疑問に思われるかもしれない。
思われないかもしれない。
ただ言えるのは、この記事を読んでいない人は間違いなく疑問には思わないということだ。

とにかく、ゴスペルを歌うのも私の親友、お茶に誘ったのはまた別の親友だ。
なぜこんなに親友が多いのか?
それはもちろん私の人格のなせる業である。
この場合の人格とは以下のことを「親友」の定義とする人格である。

①私が一緒にいて楽しいと思う人(この場合むこうが私と一緒にいて楽しいかどうかは考慮に入れない)。
②私が話が合うと思う人(この場合むこうが私と話が合うと思っているかどうかは考慮に入れない)。
③私が尊敬し、頼れる人(この場合むこうが私のことを尊敬せず頼っていなくてもかまわない)。

以上の条件をすべて満たす友人たちを私は「親友」と呼んでいる。
つまりむこうが私を「親友」と呼んでいるかどうかは私にも分からないし、分からないままでいい。
人間知らなくていいこともある。

そして京都の親友は私からの誘いを非常に喜んでくれ、なんと仕事を休んでくれた。
そこまでしてくれて私に会ってくれるとは感動だ。
「夕食を一人で食べるのはいや」という小学生のわがままのような思いつきから誘った自分を恥じる。
よって彼女にはこのはじめの思いつきは隠しておくことにしよう。
やはり人間知らなくていいこともある。

さらに彼女から前日に電話がかかってくる。
彼女のお母さんが車でコンサート会場まで送ってくれるというのだ。
確かに阪急の駅からコンサート会場まではかなり遠い。
だが地下鉄を使えばそこまで遠くはない。
なんだか悪いなあと思いつつ、その申し出を受けることにした。

これにより、私の京都への小旅行は「車でのお迎え+親友とディナー+ゴスペルコンサート」となったのである。