愛媛の伝承文化

民俗学・日本文化論。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。大本敬久のブログ。

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閻魔の縁日―正月十六日の民俗に関する雑感―

2012年03月20日 | 年中行事
正月十六日は閻魔の縁日であり、民俗事例でみると「仏の正月」とされたり、「地獄の釜のふたがあく日」とされる。地獄の釜の蓋であるとか、閻魔の縁日ということから、その根拠は仏教書に出てくるのかといえば実はそう簡単な話ではない。『望月仏教辞典』や『大正新脩大蔵経』を見ても確認できないのである。私はインド・中国伝来の仏教知識の上に成立したものではない可能性が高いと推察している。

これに関連すると思われる事例に「正五九」もしくは「三長斎月」がある。『日本国語大辞典』によると、正五九月は、「三長斎月(さんちょうさいげつ)」といい、正・五・九月の前半(※この根拠については要確認)十五日をさす。この月には冥界の業鏡輪が、南洲(えんぶだい)を照らして善悪を鏡に現ずるという。この典拠は東大寺続要録(鎌倉時代)、東宝記、梵網経である。しかも、「三長斎」については『法苑珠林』八十八に「地獄閻羅」つまり閻魔が出てくる(註 法苑珠林は、唐六六八年撰で、仏教の大百科。今昔物語など、日本古代の思想に大きな影響をあたえた史料)。

「三長斎」は『望月仏教大辞典』(第二巻、p1618)によると「一年の内、三たび一箇月の長きに互りて持斎するの意。又長斎、三長月、三長斎月、三斎月、或は善月とも名づく」とし、引用文献として、梵網経巻下、不空羂索神変真言経第二、灌頂経第十二、四分律行事鈔資持記下之三「年三とは、正五九月に冥界の業鏡輪は南洲を照し、若し善悪あらば鏡中に悉く現ず」、勅修百丈清規巻上、釈門正統第四、法苑珠林第八十八等が引用されている。ところが、正月、五月、九月という月だけで十六日という具体的な日の記載が見られる史料はない。(『東大寺要録』諸印編(1281~1300年)「夏中及三長斎月修息災増益法」、『東宝記』七(1352年)「又於三長斎月転読最勝王経」、『禅林象器箋』(無著道忠編・1741年序・早稲田大学図書館蔵書・奥付ヤブレ※『望月仏教大辞典』によるとこの史料の中に「正五九(三長斎)」の記述があるが、その箇所は未特定。『修験故事便覧』巻二にも「正五九月祈祷」の項目あり。)

話は飛ぶが、『十島村誌』によると、トカラ列島では、五月十六日も、地獄の釜の蓋をいう。このように正月十六日だけではなく、正五九の十六日が地獄と結びついているが、鹿児島県十島村では七島正月が十一月から行われ、その十一月の半年後に対置されたため五月十六日が現れていると考えることもできるので、これは正五九とは離して考えた方がよいのかもしれない。このように正月十六日は事例が多いが、五月、九月が地獄と結びつくのは少ないといえる。

ただし興味深い事例が鹿児島県指宿にある。ここでは、正・五・九月の十六日は、必ず墓参するという(『薩南民俗』)。このように九州南部にも、正月十六日の墓参があるが、しかも、正月だけではなく、五月、九月十六日にも行うという。これは、いわゆる「正五九(しょうごく)」の事例ではあるが、具体的に日が決められて十六日と出てくるのは珍しい。このような事例が全国的に見られるわけではなく、鹿児島に見られる意味をどのように解釈すべきか、今後の課題である。

そもそも、なぜ「地獄の釜の蓋」というのだろうか。これは青森から鹿児島まで、共通して見られる伝承である。この典拠となる経典等は、何なのか。しかもこれは、正月十六日だけではない。「カマブタノツイタチ」となると(七月一日)や、盆十六日も関連してくる。この点もいままで論証されているようで為されていないようだ。

閻魔の縁日については、その成立についての明確な研究もこれまで無いようである。江戸時代の『嬉遊笑覧』には、縁日は中国産だとし、何に由来しているのか、諸説あって詳しくわからないものも多い。という。(※実際、『嬉遊笑覧』には「仏神縁日といふこと、仏菩薩降誕日示現日、或は其神誕辰降現昇仙等の日、道書并『月令広義』などに見ゆ、是俗にいふ縁日なり」とあり『月令広義』(中国・明代の書籍)を確認して、十六日閻魔があるか確認する必要がある。)

『嬉遊笑覧』では縁日はもともと中国産というが、『虚堂和尚語録』下巻(国訳禅宗叢書第二輯第七巻・(正和2年1313年). 南宋末の禅僧、虚堂智愚(1185-1269)の語録)に「毎月念仏の図は、戒禅師の編する所なり、初一より、定光仏を首となして、三十日釈迦世尊に至る。終つて復た始まる」とあり、仏の縁日が、月の一日が定光仏、三十日が釈迦であると出てくるが、その他の日が何の縁日なのか書かれていない。

一般的に閻魔の縁日といと、正月十六日・七月十六日を閻魔の斎日とし、寺院では閻魔堂を開帳する。渡浩一「地獄巡り(冥界譚)―「和州矢田山地蔵菩薩毎月日記」絵とその背景―」(『仏教民俗学大系』3所収)によると「和州矢田山地蔵菩薩毎月日記」絵(奈良国立博物館本)に閻王(閻魔)の月参りの功徳が紹介されており、正月16日・2月8日・3月15日・4月25日・5月24日・6月3日・7月14日・8月18日・9月11日・10月9日・11月19日・12月24日とされている。しかし、近世以降は『大日本年中行事大全』(京都の年中行事・天保三年一八三二年成立)では正月の閻魔参りを初閻魔と称し、七月は「大斎日」という。また『江戸年中行事往来』(享和元年・一八〇一年)に「(正月)十六日は斎日とて焔魔参り、芝・浅草の山門開き、此の日小者の薮入りや、寺参り、廟参するとかや」とあるなど、正月、七月に限定されている。

松崎憲三「閻魔信仰の系譜―日本人の地獄・極楽観についての覚書―」(『日本常民文化紀要』第十四輯、1989年)によると、閻魔は北宋頃の「預修十王生七経」等の十王像がその図像的根拠であり、閻魔像は、鎌倉時代を遡るものはない(密教の閻魔天を除く)。そして閻魔参りは近世から明治、大正に隆盛し、江戸だけでも六十六ヵ所の閻魔堂があり正月十六日、七月十六日に開帳される。そして、閻魔参りの史料で江戸時代以前のものは紹介されていないとし、閻魔参りが民衆化したのは宝暦年間(1751~64)以降と指摘している。しかし、なぜ、正月十六日、七月十六日に設定されたか、という点には触れていない。(註 閻魔参りの箇所数『祭・芸能・行事大辞典』上(高達奈緒美執筆)より。寛延4年(1751)刊の『江戸惣鹿子名所大全』では5箇所。天保9年(1838)刊の『東都歳時記』では100箇所。閻魔参りは宮田登『江戸歳時記―都市民俗誌の試み―』にも紹介されている。)

また、「地獄の釜の蓋があく」に関連する史料であるが、江戸時代以降に見られ、中世以前の史料は未だ確認できていない。(註 『醒睡笑』四「この頃は地獄の釜のふたもあき、罪人聖霊となり来るなると聞くが」とか、『日本新永代蔵』一・三「正月十六日地ごくの釜の蓋さへあきて、大罪人一日かしゃくをのがるる。これによって此世にても十六日遊びとて主人のゆるしを請ざれ共、でんどはれて仕事をせぬ日なり」など。)

参考までに、國分直一『台湾の民俗』(民俗民芸双書31)によると「渡孤魂(トウクワフン) 七月一日に地獄で閻魔王(閻羅王<ギャムロヲヴヌス>)が手下の鬼に休暇を与える。鬼は喜び勇んで人間界を闊歩しまわる。この日を開鬼門(コイクイムン)と称し、各家庭においてご馳走をこしらえ、門外に机を持ち出し、鬼どもに与えるのである。鬼に対して同情するという意味ではなく、禍にかからぬよう、用心をするためである。鬼とは、親兄弟のない者の霊である」とあり、地獄の釜の蓋のいわれが日本で成立したものではなく、中国からの伝来の知識による可能性は高い。しかもそれが仏教経典に基づくものではなく、中国、台湾の民俗行事に由来するかもしれないのである。

以上のように見てくると、正月十六日は閻魔・十王・地獄の釜が先で、そこの「仏の正月」や「念仏の口開け」という民俗が形成されたのか、それとも、「仏の正月」というようにもともと死者祭の日であり、閻魔が後次で入ってきたかということが問題となるが、『古事類苑』にも「閻魔詣」で、増補江戸年中行事、東都歳時記のみ記載されているなど、中世以前に閻魔詣は一般的ではなかったということを考えれば、後者、つまり後次的に閻魔が入ってきたと考えるべきではないだろうか。

以上、正月十六日の民俗を考える上で、閻魔の縁日、正五九などを整理しないといけないのだが、案外、明確な先行研究がないことに気づき、頭を整理する意味でも、雑感をまとめてみた。

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