愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

伊予の地芝居‐文楽(人形浄瑠璃)‐7

2011年03月02日 | 祭りと芸能
七、阿波・淡路人形浄瑠璃と愛媛

 淡路人形浄瑠璃は江戸時代の元禄年間(一七〇〇年頃)には既に阿波国をはじめ西日本各地で興行していた。文政八(一八二五)年成立の『淡路草』によると座数は享保・元文年間(一七一六~四〇)には四〇余を数え、文政年間(一八二〇年頃)には十八座が残っていると記されている(三原町教育委員会『伝統芸能淡路人形浄瑠璃』、二〇〇二年より)。中でも盛んだったのは上村源之丞座・市村六之丞座・吉田傳次郎座である。淡路人形浄瑠璃が盛んになったのは徳島藩主の蜂須賀家が人形芝居を保護したことによる。藩主は御祝儀のあるときは上村源之丞座・市村六之丞座に命じて芝居興行をさせることもあった。明治時代以降でも全国各地を巡業しており、特に市村六之丞座は愛媛県内各地を巡っている。昭和十(一九三五)年だけでも川之江・西条・氷見・丹原・松山・砥部・伊予・宇和島を訪れている。また、明治時代には阿波(徳島)の人形座も訪れている。
久米惣七著『阿波と淡路の人形芝居』によると、市村六之丞座の豊田吉弥の談では、巡業に廻った中で、一番人形芝居を愛好して歓迎してくれた所は松山市古町で、朝日座という常設小屋があり、そこで二十二日間連続して興行したといい、日本で一番人形芝居が好きな町だったと語っている。また、温泉郡、伊予郡、北宇和郡にかけて、正月から盆まで滞在したこともあったという。上演する外題はほぼ決まっていた。初日は「賤ヶ嶽七本槍」の通しをやり、二日目は「一谷嫩軍記」をやったという。三日目は「玉藻前」をやり、四日目は「朝顔日記」と決まっていて、これが人気だった。
 また、吉田傳次郎座も愛媛に訪れることが多く、大正五(一九一六)年には内子座の杮(こけら)落としに招かれているほどである。また、旧松山藩主久松氏が「本朝廿四考」の芝居を観て八重垣姫の打掛を寄進したとも伝えられています。
 愛媛の大谷文楽は「淡路系」を称しているように、もともと愛媛全体が阿波・淡路人形浄瑠璃の影響を強く受けて成立していたものが、次第に戦後は大阪文楽系へと移っていったという流れがある。

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