わたしを織り上げるページ

いろいろな糸を組合せて
新しい布を織り上げるように
人との巡りあいを大切に
違った私を紡ぎたい。

女性「九条の会」3周年記念女性のつどい

2008-02-17 | 大人の学び
牛込箪笥区民ホールに着くと12時5分前。主催者の方々がぞくぞくと集まってきていました。
整理券の発行という事態で1時間半前に待ち合わせをしました。いささか早すぎましたが最前列に座れました。
本尾良さん(市川房江記念会理事長)の主催者挨拶でスタートした会場は圧倒的に年配の女性たち。
その行動力に頭が下がる思いですが、いつまでも戦争を経験した世代が語り継ぐことはできません。
私たち世代がどう行動し若い世代へどう伝えていけるのかが問われています。



女性九条の会の呼びかけ人である方言指導者・大原穣子先生が司会を担当されました。
「今日も貴女の織ったさをり織のドレスを着るのよ」と声をかけてくださいました。



中川美保さんのサクスホーン演奏
(愛の挨拶・パリの空の下セーヌは流れる・長崎の鐘・さとうきび畑・愛の賛歌)



澤地久枝さんの「一人からはじまる」の講演
「戦後63年たっても占領軍である米軍がまだ駐留し続け、沖縄では中学生が暴行される事件がおきました。
サミットに出るような国で、このような状態の国は世界中どこを探しても日本だけ」と第一声。



市原悦子さんの朗読
(「ちいちゃんの影送り」あまんきみこ作 ・ 「凧になったお母さん」野坂昭如の戦争童話集)



酸素吸入器をつけながら参加された吉武照子さん(評論家・作家)は、病を押して壇上に立ち
「無傷で憲法を次世代に手渡したい」と発言されました。



閉会の挨拶をする江尻美穂子さん(津田塾大学名誉教授)

「戦争の昭和」の語り部からのメッセージ Ⅲ

2008-02-16 | 大人の学び
『発信する声』

日露戦争とトルストイの態度
1904年(明治37年)アメリカ・カリフォルニアのジャーナリストの質問に答えた言葉
「私はロシアの味方でも、日本の味方でもなく、それぞれの政府によって欺かれ、自分達の幸福にも、
良心にも、そして宗教にも反して戦争に駆り立てられた両国の労働者のみなさんの味方であります。」

反戦川柳作家・鶴彬
・高粱の実りへ戦争の靴の鋲
・屍のないニュース映画で勇ましい
・出征の門標があってがらんどうの小店
・万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
・手と足をもいだ丸太にしてかへし
・胎内の動き知るころ骨がつき

「九条の会」発足当時、大阪中之島公会堂で小田実、井上ひさし、澤地久枝の三人が講演した集会に会場内千五百人、炎天下に二千五百人計四千人の人が集まった時、東京のテレビも新聞も黙殺したそうです。
その集会に参加した80歳になる歌人・三木原さんからの手紙

・世界に誇る<憲法九条>放棄して戦争賛美の戦前回帰か
・御用報道となりたるマスコミ反戦デモ<九条の会>も報じぬ暴戻
・会場に溢れ広場に座すは二千五百<九条講演>熱気燃えたり
・講演者玄関に並びて挨拶す場外二千五百感動の拍手止まず
・平和憲法は普通の原理つね鮮らか「宝の泉」と井上ひさしは
・カーチス・ルメイ無差別爆撃の先鞭は重慶・南京日本の爆撃と(小田実)
・殺戮と破壊の連鎖断ち切らねば<九条>は世界の平和宣言(小田実)
・核のみにあらずすべての武器の封印を澤地久枝言う<九条の会>に
・逆コースも極まる危うき事態なれば黙さず喚びかけよと澤地久枝は
・アンデスの風の音楽を聴きて居り国境・軍なき地球は来ぬか

明日は、女性「九条の会」3周年記念女性のつどいです。
すでに会場は満席で前売券は発売中止されていますが、マスコミは「東京マラソン」を報道し、また黙殺するのでしょうか。

「戦争の昭和」の語り部からのメッセージ Ⅱ

2008-02-12 | 大人の学び
女性「九条の会」の3周年記念女性のつどいに参加したいと若い男性から申し込みがありました。
早速、事務局に連絡したのですが、すでに400名の定員はオーバーでお断りしていますとの回答。
当日は整理券を発行するのでなるべく早く来てくださいとのことでした。
澤地久枝の講演、市原悦子の朗読、中川美保のサクスホーンの魅力は大したもの。
もちろん、今、憲法九条を守ろうと真剣に考える人が着実に増えてきているのでしょう。

『発信する声』から

高木俊朗 <戦記作家>
「私が戦記を書くために取材をつづけてきた立場からいえば、軍国主義は復活したとは思えなかった。
それは、むしろ、軍国主義は生き残っていたといえるようであった。」
「軍国主義が生き残っていたからこそ、戦争責任を追及しなかったのではないか。
敗戦の直後には、軍国主義は反省・恭順のていを示していたが、今になると、強力にいなおりを見せてきていないだろうか。この原因は、自衛隊と軍需産業の膨張が基盤となっているともいえる。」

大岡昇平 <作家>
「もうだれも戦争なんてやる気はないだろう、同じことをやらないだろう、と思っていたが、これは甘い考えだった。戦後、おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じひと握りの悪党共は、まだおれたちの上にいて、うそやペテンで同じことをおれたちの子供にやらせようとしている。」

エルンスト・ブロッホ <ドイツの哲学者>
「歴史が歴史にならなかったところでは歴史はまるごとくり返す。」

パブロ・カザルス <スペインのチェロ奏者>
「世界中の母親たちが息子たちに向って『お前は戦争で人を殺したり人から殺されたりするために生まれてきたのではないのです。戦争はやめなさい』と言うなら、世界中から戦争はなくなる。」
「祖国愛は自然なものである。しかし、なぜ国境を越えてはいけないのだろうか」


「戦争の昭和」の語り部からのメッセージ Ⅰ

2008-02-11 | 大人の学び
この連休に澤地久枝の「発信する声」を読み終えました。
2月17日に行われる「女性『九条の会』3周年記念女性のつどい」でも講演が予定されている『九条の会』の呼びかけ人のひとりです。
かって五味川純平の資料助手をしていたことは知っていましたが、「戦争と人間」の執筆を助け、巻末の註を担当したとありました。私はてっきり、友人に借りて再度読み返したばかりの「人間の条件」かと思っていました。

彼女の講演は昨年12月「国民学校一年生の会」で聴いたばかりです。地人会の解散で今後の公演を危ぶまれていた「この子達の夏」(有志女優で継続)の舞台でも2~3年前に聴きました。
あとがきには、「文章表現にこだわって生きてきた者として、講演内容が活字になるのは正直、苦痛がある。…… どんなに盛況でも聴衆の数は限られる。一人でも多くの人に声を届けるべく私は講演内容を活字にした。」と書かれています。

「発信する声」という本のタイトルとなった最終章には三つの講演内容が収録されています。
「地球の母になること」と題された2年前に長野で開かれた「日本母親大会」の記念講演の中で澤地さんは
私は「戦争の昭和」を抜きにして「昭和」を語ることは許されないと考える人間の一人ですと語っています。
五味川純平さんも「戦争を書くということは、そのまま昭和史を書くということにほかならなかった」と書かれていたそうです。

彼女の著書で、ミッドウェー海戦の日米の戦死者を比較した「滄海よ眠れ」の内容に触れている部分が心に残りました。
1942年の日米海軍のミッドウェー海戦で日本兵3057人、米国兵362人が亡くなりましたが、残してきた妻に子どもができたことを知らずに戦死した日本兵が50人いたというのです。
検閲が通らない私信を送ることが許されなかった日本に比べ、米軍は我が家に電話をかける自由が認められてたので知らない人はゼロだったのです。
そして日米の決定的な違いとして、父の戦死後生まれた子どものうち24年後のベトナム戦争で、幼い女の子を残して亡くなったイタリア系移民の戦死者が確認できたということです。
日本には第二次世界大戦後息子を戦死させた人は一人もいない。それは憲法九条が生きていることが大きな理由であり、日本人はもっと大切にし誇りにしてよいと澤地久枝は語っています。

「滄海よ眠れ」の結びの文章
ふるさとへ還る日のないいくさびとたち。
死んで無名の鬼となり、その思いが海からの風となるなら、
風よ吹け、もっとつよく、やむことなく吹きつづけよと思う。
そう思わずにはいられない戦争体験風化の暦が今日もくられていく。

1月の誕生会

2008-02-06 | あーちゃん
我が家は次男も義娘も1月生まれのため、ねずみ年集合で合同誕生会を計画しました。
あーちゃんが熱を出したり、いろいろアクスデントがあり本日やっと開催できました。
年始に来た時はつかまり立ちだったあーちゃんも、今日はあんよが上手にできるようになっていました。
子どもの成長は早いものです。