数学の顔ってあるのかいのぉ~?
昨夜、バイトをしている塾で中学生と一緒に英語をやっていた。昨日は三人しかいなかった。一人は国語、もう一人は高校2年生で英語。もうすぐそれぞれ進学、進級していく。それぞれが成長していく。こういうのが楽しみである。しかも、私は16年間にわたって授業から離れていたから、こういう実践的な行動をとる、とらさせていただくことが楽しみである。
ふれあいの喜びというやつである。
昨日も、冗談のつもりで、「ぼけ防止のために塾でバイトしているんだよ」と言ったら、笑われてしまった。さらに、「とーま君は数学のセンセ?」と聞いてきたので「なんでそう思うの?」と言った。そしたら「顔がそうだもん」とのたもうたのである。
こっちも笑った。
数学の顔というのがあるんだって。じゃ、どういう顔だろうとふと思ったのである。
謹厳実直、いかにも真面目そう・・・というのが数学のセンセの顔なのだろうか。わはははっはである。私のイメージとは真逆である。
謹厳実直ではない。まったくない。
いかにも真面目そうというのも違う。
道学者のように、説教ばかり垂れているのではむろん無い。だいいち、説教垂れることができるほど、立派な行いばかりしてきたわけではない。原罪を背負ったバカ爺であるからだ。
毎日暇すぎて、退屈しているだけの爺である。
だからぼけ防止のために、こういうブログなんかやって、自称文章トレーニングをしているだけである。なんのしがらみも無いから、絶好調で書いている。(^_^)3 フムフム。
まったく絶好調だ。
そして、表舞台には絶対に登場してこない。あくまで裏に隠れている。
たまには、ヒトに話でもせよと言われる。四月に、利根川沿いの中学校の新入生向けに、講話をやってくるけど。それも手慣れた交通安全だから、コンピュータを持っていって、ちゅーがくせいたちに安全について話してくる。それだけだ。それだけ。
もっとも、あれか。四月から非常勤講師である大学で週に一度90分の講義をしてくるが、こっちはもう四年目になる。ありがたいものである。しかし、こちらも大学という閉ざされた空間である。表舞台には出てこない。それでいいのである。それで。
で、塾に戻る。
教える以上、自学自習が大切である。しかも、私のやってきた国語だけではないということである。これがけっこう頭脳のトレーニングにはいい。実にいい。刺激になる。英語と数学が特にいい。専門外だからだ。
塾には、これまで書きためてきた自学自習の私のノートを持参している。こっちも来月から四年目になる。だから、数学だけで七冊目になる。英語は大学受験用のものだから、四冊あるが、中学生には無理である。しかし、英作文の初級程度ならこの春から高校の英語科レベルに進学する生徒にはコピーして渡すことができる。昨日の中学3年生には、それを渡した。高校入学準備用の塾のテキストも終わってしまったからだ。
英語専門の学科であるから、「高校出たらどうすんの?」と聞いてみた。そしたら、「学校のセンセになりたい」と言う。「体育のセンセ」とのたもうたのだ。「でも、中学校のセンセは、体育のセンセって難しいよと言うんだよん」と言われたという。
あれれと思った。
やればやれるのである。だから「チャレンジしてみればぁ~」と言った。こっちは私である。そしてふと思った。チャレンジしてみればぁ~というのは、天に向かってつばしているのと一緒であると。
私だってチャレンジしなくちゃならないのである。
このまま老いさらばえて、死んでしまうのは如何なものかと思うからである。確かに爺は爺である。見た目も、中身も爺である。もっと笑うのが、だんだんとひねくれてきた。もっとも、こっちは元々そうか。ひねくれ爺だ。自他共に認めることだ。ただし、迷惑はかけない。他者への迷惑行為は行わない。密かに、黙っているだけである。黙っているのは、もっとタチが悪いと言われてきたけど、もう直らない。だいいち、直るというのは、元々が正しい状態や状況にあったから「直る」のであって、元々正しい状態や状況に無かったのであるから、これでいいのである。これで。
チャレンジというと、コメディアンの萩本欽一氏が駒澤大学に社会人入学を果たした。
しかも、仏教学部である。認知症予防のために受験を決意したという。すばらしいことである。英語が難儀したと言われる。70代である。そりゃそうだろう。仕事で多忙であっただろうから。収入も半端な額ではなかっただろうけれども。
しかし、注目したのはそういうことではない。
なぜ仏教学部だったのかということである。
歌手の小椋佳氏も、道元の研究のために、東大文学部に編入学してさらに東大大学院修士課程で修士をとられた。(小椋佳氏は、東大法学部出身のエリートであった)
萩本欽一氏、小椋佳氏ともに、仏教なのである。
ここに大いに興味がある。
つまり、たぶんお二人とも、「時間」を意識し始めたのであろうと思うからである。もっと言えば、「死」である。人生というのは終わってしまうからである。「生老病死」の最終段階を意識されてきたのであろうと思っている。
私も一緒である。
「生」は精一杯楽しんで生きてきた。なんの悔いもない。
「病」は、昨年ICUまで入れていただいて、十分経験した。もう結構である。
「老」は、現在進行中である。孫もいる。まだまだ孫は、今度は内孫で欲しいと思っている。
「死」だけが、未経験である。あたりめぇ~である。死んだら、こんなくだらないブログなんぞやってられない。
でも、あれである。
人間誰しも、「生老病死」からは免れない。
オレだけは別モノであるとか、アタシだけは永遠の美女よんとふざけたことを言っても無駄である。
誰だって人生の終わりはあるからである。
さ、今日も健やかに生きていく。
と、書いたら「は~っくしょん」と出た。
クシャミである。
もうこれ以上書くなということである。
害毒の垂れ流しだと花粉たちに叱られてしまう。
わははっはははははは。
(^_^)ノ””””