ある人から、
「僕は人に媚びるのが嫌いなんです。そういう人を見るのも嫌です。」
と言われたことがあります。
このとき、ふと、人に媚びる事と、人に親切にする事の違いって何だろう?と考えました。
「媚びる」という態度とは、辞書を見ると、「人の気に入るように振舞う」態度のこと。
一方、「親切」な態度とは、「人によく尽くす」態度です。
両者の共通点は、媚からくるものであれ、親切から来るものであれ、その行動が
人のためになっていることです。
そして、「媚」と「親切」の相違点は、自分の為した行為に対して、見返りを求めるか、
求めないか、ではないかと思います。
従って、第三者的な立場らから、ある人が別の人に対して行っている行動を見ても、
それが「媚」の気持ちから行っているのか、「親切心」からのものであるのか、の
識別が難しい気がします。
時代劇やドラマなどを見ていると、明らかに「媚を売っているような態度」らしく
受け取れるシーンがあります。
笑い方や話し方、手の動かし方などがそういう印象を与えるのです。
でも、上述の考えに基づけば、「媚」か「親切」かは、結局のところ、当事者の心の
問題であり、当事者にしか、わからないものです。
だから、その人の振舞い方だけで、その人の気持ちを判断するのは危険なのではないかと思います。
実際には、すごく親切な心持の人であるが、媚を売っていると誤解される人もいるでしょう。
それは、媚びるという行為が不徳であるとみなされる価値基準をもつ社会であるならば、
とても不幸なことだと思います。
「媚」と「親切」の概念的な相違は明確ですが、「媚びる」という行為は不徳な
ものなのであろうか、という新たな疑問が頭に湧いてきました。
思うに、社会、あるいは個人の価値基準は絶対的なものではなく、相対的でしかありえません。
どこにも「真理:絶対的に正しい事」なんてものは存在しないし、絶対の正義なんてものもありません。
物事には必ず光と影、裏と表があって、ある一方が自分は光で他方は影だと思っていると、
その他方の人のほうでも、自分が光で相手が影だと思っているのだと思います
(これも当然絶対ではなく、違う意見の人もいる)。
そうすると、自分が生きるために「媚」を売るのは当然で、逆に、何の見返りも
求めず、ただ親切を押し付ける方が偽善的であるとの考えも当然成立するはずだと
思うのです。
媚を売る事と親切にする事の違いを明確に理解して、その上で、「自分の価値基準の上では、
媚を売るのが不徳で、親切にするのが美徳だから、媚は売らずに、だけど親切にはする」
と自分の行動規範を定める事には、何の問題もありません。
だけど、その自分の基準を他人まで押し付けて、「媚を売るのはやめろ」というのには、
疑問があります。
「そういう人がいるのも当然」と他人を認めてもいいのでは?
人は物事の多面性を容易に認められないように思います。
争いごとが起こるのは、人間のこのような性質によるものなのでしょうか?
この問題に対する答えはまだ分かりませんが、機会があればじっくりと考えてみたいものです。
今日も読んでくれてありがとうございました。
Taji
人気ブログランキングへ
「僕は人に媚びるのが嫌いなんです。そういう人を見るのも嫌です。」
と言われたことがあります。
このとき、ふと、人に媚びる事と、人に親切にする事の違いって何だろう?と考えました。
「媚びる」という態度とは、辞書を見ると、「人の気に入るように振舞う」態度のこと。
一方、「親切」な態度とは、「人によく尽くす」態度です。
両者の共通点は、媚からくるものであれ、親切から来るものであれ、その行動が
人のためになっていることです。
そして、「媚」と「親切」の相違点は、自分の為した行為に対して、見返りを求めるか、
求めないか、ではないかと思います。
従って、第三者的な立場らから、ある人が別の人に対して行っている行動を見ても、
それが「媚」の気持ちから行っているのか、「親切心」からのものであるのか、の
識別が難しい気がします。
時代劇やドラマなどを見ていると、明らかに「媚を売っているような態度」らしく
受け取れるシーンがあります。
笑い方や話し方、手の動かし方などがそういう印象を与えるのです。
でも、上述の考えに基づけば、「媚」か「親切」かは、結局のところ、当事者の心の
問題であり、当事者にしか、わからないものです。
だから、その人の振舞い方だけで、その人の気持ちを判断するのは危険なのではないかと思います。
実際には、すごく親切な心持の人であるが、媚を売っていると誤解される人もいるでしょう。
それは、媚びるという行為が不徳であるとみなされる価値基準をもつ社会であるならば、
とても不幸なことだと思います。
「媚」と「親切」の概念的な相違は明確ですが、「媚びる」という行為は不徳な
ものなのであろうか、という新たな疑問が頭に湧いてきました。
思うに、社会、あるいは個人の価値基準は絶対的なものではなく、相対的でしかありえません。
どこにも「真理:絶対的に正しい事」なんてものは存在しないし、絶対の正義なんてものもありません。
物事には必ず光と影、裏と表があって、ある一方が自分は光で他方は影だと思っていると、
その他方の人のほうでも、自分が光で相手が影だと思っているのだと思います
(これも当然絶対ではなく、違う意見の人もいる)。
そうすると、自分が生きるために「媚」を売るのは当然で、逆に、何の見返りも
求めず、ただ親切を押し付ける方が偽善的であるとの考えも当然成立するはずだと
思うのです。
媚を売る事と親切にする事の違いを明確に理解して、その上で、「自分の価値基準の上では、
媚を売るのが不徳で、親切にするのが美徳だから、媚は売らずに、だけど親切にはする」
と自分の行動規範を定める事には、何の問題もありません。
だけど、その自分の基準を他人まで押し付けて、「媚を売るのはやめろ」というのには、
疑問があります。
「そういう人がいるのも当然」と他人を認めてもいいのでは?
人は物事の多面性を容易に認められないように思います。
争いごとが起こるのは、人間のこのような性質によるものなのでしょうか?
この問題に対する答えはまだ分かりませんが、機会があればじっくりと考えてみたいものです。
今日も読んでくれてありがとうございました。
Taji
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