鶴の尾 点描

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殉教の碑

2020-10-25 | 鶴の尾周辺

古賀地区の 八郎川沿いの水田脇に キリスト教徒殉教の碑が立っています。

2年前 ここを散歩している時、偶然見つけて 古賀地区でも、キリシタンの迫害の歴史があった事に 驚きました。

 

ちょうど今日読んでいた さだまさし著の「さだの辞書」の中にこういう文章がありました。

日本最初のキリシタン大名 大村純忠が宣教師ワリニャーノの進言で 長崎の町をイエズス会に寄進したから 一時期長崎は 「イエズス会領地」の時代があり このころ長崎を大村純忠の洗礼名の「ドン・バルトロメオ」と呼んだという。

当時大村純忠による過激な布教によって寺社の焼き討ちや僧侶の殺害などが行われ、そのことが「禁教令」後のキリシタンへの厳しくいつような弾圧を生んだようだ。

こういう歴史は知りませんでした。

261597年2月5日


古賀地区の話に戻ります。

1570年ごろ 古賀地区は 島原のキリシタンの有馬氏の領地で 

キリスト教を推し進めるため 地区の神社仏閣は焼き払われ 住民のほとんどがキリシタンに改宗しました。

その後 キリシタン禁止令が出て 有馬にかわり 島原領主の松倉重政の統治下になり キリシタン弾圧が始まりました。

 

1627年(寛永4年)フランシスコ大曲喜助とその妻エレネ養母アグネスの3人が斬首、

1630年(寛永7年)にミゲルという青年が孫助らとともに3日3晩首までずっと地中に埋められた後、竹切り鋸で首を引かれ処刑。

など 信者の処刑が行われました。

この石碑には 殉教者の名前が刻まれています。

 ※ キリスト教信仰を理由にした権力者による 最初の処刑は 1597年 豊臣秀吉の命により行われた

 長崎の西坂での26人の殉教事件です。まだ12歳と、13歳の少年もいました。

 

この看板の説明文

1549 年ザビエルのキリスト教伝播以来、1570 年頃にはキリシタン大名、有馬氏の保護を受けて、古賀を
中心とする東長崎地区にはキリスト教が栄えた。
1612 年幕府の直轄領における禁教令以来、1616 年松倉豊後守重政が島原・
古賀を支配下においてからは、徹底したキリシタン弾圧が行われた。
古賀出身の庄三郎・孫右衛門・孫助一家は竹鋸切でひかれ、4 日間苦しんだ
末に帰天した。
1630 年代以降は、東長崎地区のキリシタンは、ほとんど絶えてしまった。
明治政府によって信仰の自由が認められたのは、1873 年のことである。
 ~カトリック東長崎教会

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