あび卯月☆ぶろぐ

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「行動する保守」について

2010-05-29 23:54:38 | 政治・経済
「行動する保守」という言葉があるらしい。
朝日新聞の命名らしいが、反民主党、反左翼のデモを行ってるような保守派を指す。
主にネットで集結し、横の繋がりがネットを通じてのものという点が特徴のようだ。

確かに、最近のネット上ではそういった話題がこと欠かない。
「○月○日のデモに参加しよう!」とか要望活動を行うとか、本を買うとか、なるほど“行動する”保守だ。
私は「行動しない保守」なので(そもそも保守かどうかも怪しいが)、今までデモに参加したこともなければ、これから参加する気も無い。
かといって、行動する保守を否定する気も朝日新聞のように冷かす気もない。
デモやその他活動によって本当に国が良くなるのであれば多いにやって欲しいと思うし、元気と気力があるなあと関心させられる。

ただ、気になるのは一部の「行動する保守」の「行動しない保守」に対する態度だ。
これは小林よしのりが『WILL』に描いていたことだが、チャンネル桜で小林さんが「わしは引退したらデモなんかに参加しないで、公園の草むしりでもするよ。」と云った時、行動する保守から

「オレたちは、暑い日も寒い日も、雨の日も、好きこのんでやっているわけじゃないんだ!」
「国ためにやっているんだ!」
「オレたちの行動を草むしりなんかと一緒にするな!」
「おまえはなんか公園の草むしりでもやってろ!」
(引用はすべて『WILL』2010年6月号199頁より)


というような批判が殺到したことのこと。
正確な文言は知らないが、少なくとも自分たちが行っている活動は天下国家のためであり、公園の草むしりなどという下等なことと違い高等なことだとの思い上がりをびしびしと感じる。

小林さんはこのことについて今月号のWILLで次のように指摘している。

「最近の反左翼の「紋切り保守」の人々は、家族・地域・会社などの共同体から浮遊した個人が多い。そのような人々がネットで集結して連日のようにデモ行進している。」
「コミュニケーションが不得手で思想することのできない「砂つぶの個」の国家主義者たちが反民主党の「正義」を手に入れたのだ!!」
「地域の「公共」には関心持たず、家族や会社などの中間共同体をすっとばして、国家の危機だけを叫んでいる。」
(『WILL』2010年7月号194頁)


私が、最近の保守派に抱いていた違和感を代弁してくれた心持ちがした。
とりわけ、ネトウヨと呼ばれる人たちの言説を聞いていると、家族・地域・会社など身近な共同体への視点が欠落していることが多い。
また、語り口も、そのような態度で人とのコミュニケーションが成立するのかと疑いたくなくことがある。
これは、かつて左派に多い傾向だと思っていたが、右も例外ではないらしい。
むろん、最近の保守派が全員そうだということではなく、上記のような保守派が増えているということだ。

私は小林さんの日頃の主張には是々非々の立場だが、「わしは引退したらデモなんかに参加しないで、公園の草むしりでもするよ。」という考えには深く共感する。
私も定年後はそういった地域のためになるようなことをして過ごしたい。

修身斉家治国平天下という言葉がある。
国を良くする為にはまづは身近な地域であったり家族であったり自分自身を良くすることが大切だという程の意味だが、この考え方を政治主義者は度外視していると思う。
自分の身近な共同体をすっとばして国家のことばかりを論じて、果たして本当に国が良くなるのだろうか。
私は日々、職務に励むことが地域、ひいては国を良くすることだと信じる。
結局、自分自身がやれることを一生懸命やることが国を良くするのではないか。
そのためにはまづ身を修めると。

もっとも、私は身を修めることも出来ていないのに、ネット上で偉そうに政治を語ったりしているわけで、それが「行動しない保守」の所以だ。
「行動する保守」からはお叱りを受けそうだが、私は遊びで言論に似たものをやっているだけで、いち庶民が酒場で愚痴っているのと変わりない。

私の気持ちは、かつて福田恆存先生が述べたように

「私の政治論は熊公八公の床屋政談と同じだと評する人があるが、これはむしろ名誉である。私の一番言ひたいことは、潜在的支配階級である学者の政治論を永遠の町人である熊や八やの床屋政談の線まで引下げよう、いや、引上げようといふことなのであるから」

ということに尽きる。
保守派にはこういう床屋政談を許容する懐の深さが欲しい。