あび卯月☆ぶろぐ

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私の邦楽史 第三回「ザ・スターリンの登場」

2007-10-26 23:05:11 | 音楽・藝術
私がTHE STALIN(以下、スターリンと記す)を知ったのは高校二年生の頃だったと思う。
友人からスターリンのツインベストアルバムを借りて聴いてみた。
当時、それほど衝撃を受けた覚えは無い。
「ロマンチスト」と「コルホーズのたまねぎ畑」が印象に残ったくらいである。
過激過激と前評判が高かったので少々拍子抜けした恰好だった。
しかし、スターリンについてもう少し深く知るようになると次第に遠藤ミチロウ(スターリンのボーカル)の虜になっていた。
何よりスターリンの初期の音源を聴いたことが大きい。
友人が貸してくれたツインベストはスターリンの中期以後の作品で占められていて、初期の名曲である「肉」「豚に真珠」「猟奇ハンター」「スターリニスト」などが収められていなかったのだ。
(但し、印象に残った「ロマンチスト」と「コルホーズのたまねぎ畑」は初期から歌われていた歌だった。)
また、インディーズ時代のファーストアルバム『トラッシュ』を聴いて更にハマった。
この『トラッシュ』、いまではほとんど幻の名盤と謂われている。
私は運良く耳にすることができたが、斯くも歴史的名盤が現在多くの人の耳に入らない状況は嘆かわしいばかりである。
80年代J-PUNKの音源はこのような例が多い。
後に紹介する予定のケンヂ&ザ・トリップスのファーストもその一例である。

スターリンの初期が素晴らしいのはその過激な歌詞も去ることながら音楽的にしっかりしたつくりであることだ。
中期以降は歌詞も音も甚だ荒削りになる。
それはそれで良い曲もあるのだけれど、初期の文学的表現は影をひそめ些か単純な歌詞になっているのは残念である。

スターリンといえば一般にライブで過激なパフォーマンスをしていたことで知られている。
確かに、ライブ中に客に向かって豚の頭や贓物をぶちまけたり、糞尿を撒き散らしたり、全裸になってあんなことやこんなことをしたりと伝説には事缺かない。
この過激なパフォーマンスがマスコミで報じられるようになり、世間一般に「パンク=過激なパフォーマンス」という意識を浸透させた。
そういう意味でもスターリンは80年代J-PUNKを語る上で無視できない存在である。
言い換えれば、スターリンが結成された1980年を以って日本パンク元年ということもできよう。

ところで、ボーカルの遠藤ミチロウは福島県出身で東京でスターリンを結成したとき、三十歳を越えていた。
三十代から本格的にバンド活動を始め、あれだけ精力的に活動していたのだから頭が下がる。
また、ミチロウはマルクスや共産主義に傾倒していて、今でも吉本隆明を愛していると言って憚らない。
言わばインテリ左翼である。(出身大学は山形大)
であるから、スターリンの曲には階級闘争や共産主義をテーマにしたものも少なくない。
バンド名のスターリンも勿論あのソヴィエト連邦のスターリンに由来する。
そういえば、ミチロウが出演した映画『爆裂都市』でも「どけどけどけどけ!この反革命ども!」と叫んでいた。
いやはや、痛快である。

このように日本パンクの担い手にはミチロウのような亜インテリが多く関わっている。
亜インテリという表現が不適当なら文学青年といってもよい。
英米のパンクの担い手は労働者階級であったり、下層階級に位置する人々が多かったことに対して日本のパンクは中産階級以上の比較的裕福だったり、知的レヴェルが高い人々によって担われた。
むしろ、労働歌などはフォーク(特にアングラ系の)がその役割を担っていたように思う。
それもそのはずで英国などと違い階級社会ではない日本において、パンクが生れる土壌はなく、生れるとしたら英米とは違ったアプローチがなされたはずなのである。
少し乱暴な表現をすると日本パンクのリスナーは「不良」や「ヤンキー」ではなく文学青少年であったり、サブカルやアングラを愛好する人たちであった。
日本において不良やヤンキーに人気がある歌手といえば尾崎豊あたりだろう。
(尾崎豊を批判しているわけではないですよ、ファンの方々怒らないように)
尾崎豊の歌詞はヤンキーが聴いても理解できる。
尾崎はそういう学校や勉強の出来る人たちに反撥する人向けの音楽だ。
だから、落ちこぼれや不良(またはそれになることに憧れる真面目な少年)は自分たちの気持ちを代弁してくれていると感じる。
ところが、スターリンや前回紹介したINUの歌詞を見てもサッパリだろう。
それは日本のパンクは所謂「下流」を相手にしているのではなく、サブカル人、アングラ人を対象にしているからである。
少なくとも80年代前半のJ-PUNKはそうであった。

<つづく>


私の邦楽史 第二回「日本パンク黎明期とINU」
私の邦楽史 第一回「パンクの起源」

映画『サッドヴァケイション』

2007-10-26 22:49:54 | 映画・ドラマ
先月、『サッドヴァケイション』という映画を観た。
感想を書こう書こうと思って書かずじまい。
いつもの悪い癖だ。

本作は「北九州サーガ」三部作の完結篇。
今回は一部主演が浅野忠信であるということがこの映画の性質を如実にあらわしている。
はっきり云ってサブカル映画だし、決してエンタメ映画ではない。
舞台は北九州市の戸畑か若松あたり。
当然ながら、みな北九州弁でそれがやけに可笑しかった。

映画を見終えて知ったのだが、この映画のテーマの一つに「母の愛」があるという。
驚いた、私は本篇を見て母の愛を感じ取ることができなかった。
私には健次(浅野忠信)の母である千代子(石田ゆり)は優しき母というより悪女に見えた。

健次は前の夫との間に出来た子で、現在の夫との間に出来た子に勇介がいる。
勇介は不良息子で家業の運送屋を継いでくれそうにない。
そこで、十数年ぶりに再開した健次に運送屋を継がせようとする。
が、健次は幼い頃、別に好きな男が出来たからといって自分と自分の父を捨てた千代子を恨んでおり、家を継ぐどころか母に対して復讐を企てている。
この復讐の内容がどんなものであるかは本作を見ていただくとして、千代子は本当に健次を愛しているのだろうか。

仮に健次に対する愛は本物だとして、もう一人の息子、勇介に対してはどうか。
千代子は勇介を出来が悪いからといって見捨てるのである。
そして、勇介が駄目なら健次に家を継いでもらえばよいとばかりに健次を温かく包み込む。
ここにどうも利害の感情が見え隠れしてならない。

さらに、かつて自分が息子(健次)と夫を見捨てたことに寸毫の自責の念も抱いていない風で、健次の怒りをいま一つ理解していない。
それゆえ、明らかに敵意を持っている健次に対して常に笑顔をもって接するのである。
マッチが歌っていた「天使のような悪魔の笑顔」を髣髴とさせる。

なにやら、ここに愛の恐ろしさを感じた。
ここでの恐ろしさは愛ゆえに相手の気持ちを忖度しない姿勢であるが、
もっといえば、愛には常に二面性があるように思う。
つまり、愛を施す当事者からみれば愛は至上のもので素晴らしいものであると思っているが、愛される側、または第三者からみてそれが素晴らしいものであるという確証はない、ということである。


・・・以上はあくまでもこの映画を見る際のほんの一つの視点。
これだけでなく、様々な要素が含まれており、見る人によって感じ方が違うと思う。
私自身もいろいろなことを考えさせられた。(説教臭い文脈ではなく)
そういう意味でも良い映画だったと思う。

ところで、この映画、かなりアウトローな人が大勢出てくる。
殺人シーンもある。
これをもって「北九州は怖いところだ」と思われる方があるかもしれない。
しかし、私はそれについて反論するすべを持ち得ないでいる。