江戸時代から戦前の頃までは、子供たちは大体十二歳くらいから各種の技術を持った親方や商店へ奉公に出ます。奉公は住み込みですから当然親元を離れることになります。当時では当たり前のことですが、やはり子供や親にとっては大変なことだったと思います。これを丁稚奉公と言います。
1月の16日と7月の16日に奉公人が主人から休暇をもらって親許に帰ることを薮入りと言いました。(正月休み、盆休みではありません。)
大半の商家では、正月1日だけ奉公人共々新年を祝うが、2日から初荷とか初売りとかで仕事をする慣わしであるため奉公人は休みがありませんでした。
今は、初荷も初売りもなく、元旦から営業しています。
丁稚たちは例年、薮入りに主人から衣類万端与えられ、小遣いをもらって親許へ帰ります。丁稚に限ってのことで成人(元服後)の奉公人には薮入りはありません。
里心がついてはいけないと丁稚も最初の三年間は、薮入りは無かったそうです。
因みに武家奉公の女中衆の一~三の休みは、宿下がりと言われました。
正月と7月の16日に奉公人が休暇をもらって、自分の生家に帰ること。また関西地方の一部では奉公人だけでなく、嫁に出た娘が夫とともに里に帰り、畑仕事の手伝いをすることをいう村がある。
両親は普段の奉公先の苦労を労うために、出来るだけのご馳走を作り休養を取らすようにする。
兄弟姉妹が多い家では「薮入り」に家族が集まって、男も女も子供に帰ったのだそうです。
いろいろな事情で故郷に帰れない子供もいます。遠く上方から出店として江戸の店に奉公している場合などは1日の休みではどうしようもありません。一人で、あるいは同じ境遇の友と、主人にもらった小遣いを懐に歓楽街に出て、芝居小屋をのぞき食事をする。それはそれで楽しいことですが、やはり寂しさは隠せなかったでしょう。
今でも残っている風習ですが、お盆には先祖の霊も家へ帰ってくるといわれ、家を離れているみなさんもお盆には家に帰ってご先祖の供養を致します。
昔は、交通の便が悪く、故郷の遠い方は往復に時間がかかりましたので、連休という習慣になったのではないかと思います。しかし、近来は「夏休み」の意味合いの方が強いようです。
長崎県の西彼杵(にしそのぎ)半島の村々では、正月と盆の16日は、山の神があたりを歩くので、それに会わぬよう山仕事も休み、家にこもっているのだそうです。
人間誰しも働くためには休日が必要で、特に正月と盆の16日を選んだということには、なにか意味がありそうなきがします。
この日は閻魔様の縁日でもあります。そのため「地獄の釜のふたが開く」と言われ、海に出ることを禁じてきました。この日に地獄の十王詣でをする人もあり、藪入りで帰った人が故郷の閻魔堂にお参りに行く風習もありました。
7月の薮入りは、今でいうと夏季休暇ということになるが、8月15日前後に夏季休暇を設定している企業や官庁では、未だに盆休みという言葉が使われている。きっと、旧盆の地方が圧倒的なので、それに合わせているのだと思います。
その語義については定説がなく、藪というのは草深い意で、都会から草深い村落に帰る意味とか、ひとりぼっちで行きどころのない奉公人や里の遠いところのものが藪林(そうりん)に入って遊んだのがはじまりとか、帰るあてのない者は藪に入っているほかないからなどといわれているが、いずれもとるに足らない。藪入りの語があって、あとからこじつけて説明したにすぎない。
現代では成人式も、松の内も済んでいない元旦から、全てが平常生活です。
古い生活習慣で残しておいて良いもの、又古い習慣の人々に与えた良いものは、形を変えてでも残し継承して欲しいと思うのは、私だけでしょうか。
したっけ。