都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
山口盆地に優美な稜線をみせている姫山には、地元でも有名な伝説があります。
姫山の登山口に、「大内さとづくりまちづくり推進協議会」が設置した説明看板があり、そこに、このように紹介されています。
「その昔、殿様が、美女を見初めて、無体な恋慕をよせ、殿中に捕らえ入れて想いをとげようとしたが、美女は節操固く殿様の邪意を受け入れなかった。殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇ぜめにした。美女は悶え苦しみ、美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため 『この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容色兼英の女性は生まれぬように』と悲しみ悶え死んだという。」 |
姫山のお万(ひめやまのおまん) 山口市
むかし、山口の城下に住む長者のところに、お万というひとり娘がいた。
お万は、色白で、目のぱっちりした、笑うと小さいえくぼのできる美しい娘であった。
十七、八になると、その美しさは歌にまでうたわれるほどの評判になった。
ある日、しばいの見物に出かけたお万は、わかい旅役者をひと目見て好きになった。
そんな時、城下をまわっていた殿さまが、美しいお万に目をとめた。
「そちらの娘をよこせ。そうすれば、そちの願いをなんでも叶えてつかすぞ。」と命じた。
お万には、すでに好きな相手があるので、長者は返事をためらっていた。
すると、気の短い殿さまは、すぐに承知しない長者に腹を立て、「なぜ返事をせぬ。余の申すことが気に入らんとでもいうのか。」
「いえ、めっそうもございません。しかし、娘の気もちも聞いてみませぬと・・・。」
「そうか。では、お万によく言い聞かせて、きっと余の意にそうようにせよ。」
殿さまの言いつけにそむけば、どんな恐ろしい目にあうかよく知っていた長者は、家に帰ると、すべてをお万にうちあけた。
お万は、「お父様の言いつけなら、どんなことでも従うつもりです。でも、そればかりは・・・。」と、泣いて長者にすがった。
長者は、「よくわかった。無理もないことだ。どのようなことがあろうとも、このことはお断り申してこよう。」
すぐに城に出かけた長者は、いつまでたっても帰ってこなかった。
お万をはじめ、家のものが心配していると、突然どやどやと殿さまの家来が屋敷の中に入ってきた。
そして、いやがるお万をむりやりつれて引き上げていった。
城へつれてこられたお万の前に、あらなわでしばられた長者が引きすえられ、胸もとへ刀をつきつけられた。
殿さまは、「お万、そちはどうしても余のことばにさからう気か。あれを見よ。そちの返事しだいでは、父親の命はないものと思え。」と大声でいった。
お万は、涙にぬれた顔をあげて、「お殿さま。どうか、このことばかりはお許しください。それ以外のことなら、どんなことでもいたします。どうか・・・。」
と、ひたすら、殿さまにお願いするばかりであった。
「だまれ。ふとどきもの。どうしても余の言いつけにそむく気だなっ!」
怒り狂った殿さまは、お万を縛り上げ、「ものども、ただちに父親の首をうて。このお万は姫山に送り、いただきの古井戸の中にいれてヘビ攻めにせよ。」と命じた。
長者は、その日のうちに首をはねられた。
姫山の古井戸に入れられたお万は、毎日投げ込まれる多くのヘビに攻め立てられた。
お万は、その苦しみと父親を失った悲しみとで、日ごとにやせ細って、なげき苦しみながら死んでいったという。
「この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容色兼英の女性は生まれぬように」と言いながら。
それからというもの、お万の怨みがこの山に残ったのか、姫山の見える山口の地からは、決して美しい娘は生まれなくなったと伝えられている。
この話には元ネタがあります。
この伝説の元ネタを調べてみますと、領主は大内氏ではなく、毛利氏それも毛利輝元であり、悲劇の美女はその側室二の丸のことだと言われています。
「古老物語」によると、幼少の周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に12歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。 不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の方の嫉妬によるものとされる。その後、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある。 毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた。萩に入ることができなかったのは、前述の通り正室である南の方が許さなかったと言われている。 Wikipedia |
周姫が毛利秀就を生んだのが21歳(1595年11月19日)といわれています。輝元が生まれたのが天文22年1月22日(1553年2月4日)ですからこの時42歳で21歳の歳の差がありました。
どうですか、美人薄命。美人に生まれたばかりに数奇な運命を送らなければならなかった女性。何事もほどほどがいいのかもしれません。
したっけ。
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