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「北方領土返還要求運動強調月間」について考える

2012-08-31 10:01:32 | ニュース

北方領土返還要求運動強調月間(81日から831日)

北方領土返還要求運動とは

 北方領土問題の解決のためには、ロシアとの外交交渉を粘り強く継続していく必要がありますが、この交渉を後押しする最大の力は、北方領土の返還を求める一致した国民世論です。

 このような国民世論の啓発に、長年に渡って重要な役割を担っているのが、官民の様々な主体による北方領土返還要求運動です。民間団体や地元・北海道の自治体が中心となって、署名活動や講演会など様々な取組が精力的に行われており、大きな国民運動として全国的に展開されています。

 政府においても北方領土の返還を求める国民世論をさらに結集するため、北方領土問題を政府広報の重要テーマとして取り上げ、テレビ、ラジオ、新聞、インターネットなどの各種媒体を通じて全国民を対象に広域的な広報活動を行っているほか、関係団体と連携して様々な取組を行っています。

北方対策本部 内閣府より

北方領土の歴史(北海道のHPより)

1644年(正保元年)、幕府は、諸藩に国(藩)ごとの地図の作成を命じましたが、松前藩が提出した地図(正保御国絵図)には、知床半島と納沙布岬の東北に大小39の島々がかかれており、そのうち、34の島には、「くなしり」、「えとほろ」、「うるふ」などの名前がつけられていました。

ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査しただけでなく、ラッコの捕獲などを行ったこともありましたが、択捉島(えとろふとう)のすぐ北の得撫島(うるっぷとう)を越えて、南下してきたことは、一度もありませんでした。

これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります。

1811年(文化8年)千島近海測量の途中、国後島(くなしりとう)に立ち寄ったロシアのゴローニン船長らが南部藩に捕らえられ、松前に護送されました。一方、翌年、高田屋嘉兵衛も国後島付近で、ロシア船に捕らえられ、これを契機に、1813年(文化10年)日ロ両国の間で、国境を決める交渉が始まりました

交渉は難行しましたが1855年(安政元年)に、「日魯通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決まりました。これにより、択捉島から南は日本の領土とし、得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されました。また、樺太は今までどおり国境を決めず両国の混住の地と定められました。

1869年(明治2年)、政府は、札幌に開拓使を設け、北辺の開拓に当ることとし、蝦夷地を北海道と改称し、11カ国86郡を置き、各藩に支配させました。

政府は、樺太におけるロシアの南下に十分対応することができず、1875年(明治8年)「樺太千島交換条約」を結び、それまで、ロシア領であった得撫島以北の18島を譲り受けました。

■1880年(明治13年)には、新しい行政組織のもと、色丹、国後、択捉の3島に村役場が置かれました。

■明治20年代には、中心産業が狩猟から漁業へと移り、サケ、マス、かになどの北洋漁業へと、発展していきました。

■また、国後、択捉両島にも道路網が整備され、郵便局、駅逓も置かれました。さらに、島と北海道を結ぶ定期航路が開設され、電信も開通するなど、島民生活の安定が図られました。

(20世紀・終戦時まで)

大正の終わりには、北方領土にも町村制が施行され、各島に村役場が置かれました。歯舞群島は歯舞村に属し、得撫島以北の島々は町村制が施行されず、根室支庁の直轄となっていました。

 各村に営林区署、水産物検査所、さけ・ます孵化場、郵便局、警察署、小学校などがあり、人口は昭和5年時点で、国後島で約8,300人、択捉島で約6,300人が住んでおり、大半が漁業を行っていました。

1939年(昭和14年)北海道庁は、択捉島紗那村に千島調査所を設置し、所員74名で、北方の島々の全域の調査に着手し、開発のための基礎資料の収集に当りました。

一方、国防上の要衡をなしていたことから、次第に軍事基地としても整備されることとなり、軍事的緊張の中で開発が進められました。

国境取り決め

日魯通好条約

Photo 1855年(安政元年)、伊豆下田において「日魯通好条約」が調印されました。 この条約で初めて日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決められ、 択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認されたのです。また、樺太は今までどおり国境を決めず、両国民の混住の地と定められました。

樺太千島交換条約

Photo_2 1875年(明治8年)、日本は、樺太千島交換条約を結び、樺太を放棄する代償としてロシアから千島列島を譲り受けました。 この条約では、日本に譲渡される千島列島の島名を一つ一つあげていますが、 列挙されている島は得撫島以北の18の島々であって、択捉島以南の北方四島は含まれていません。

ポーツマス条約

Photo_3 1905年(明治38年)、日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され北緯50度以南の南樺太が日本の領土となりました

サン・フランシスコ平和条約

Photo_4 1951年(昭和26年)、日本はサン・フランシスコ平和条約に調印しました。 この結果、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太の権利、権原及び請求権を放棄しました。しかし、放棄した千島列島に固有の領土である北方四島は含まれていません

8月は北方領土返還要求運動強調月間でした。みなさんは、北方領土というと遠い話しのように思われるかもしれませんが、北海道民にとっては身近な問題なのです。

私の若い頃は、北方領土出身者がたくさんいました。みんな追い出された人たちです。みなさん着の身着のままで引き上げてきて、大変苦労をしたそうです。

彼らは口をそろえて帰りたいといっていました。それはそうです、自分たちの故郷なのですから。

例に出して申し訳ありませんが、震災被害者の方々が故郷の帰りたいのと同じです。

しかし、そういう方々も今は数少なくなりました。運動をしている方々も高齢化しています。

北方領土のロシア人の怪我人や病人の重傷者は北海道で治療することがあります。ビザなし交流で北海道に来るロシア人は観光・買い物目的です。

漁業資源の豊富な北方領土は日本の領土です。遊びに来るロシア人を元島民は複雑な思いで迎えています。

Photo_5

北方領土返還要求運動強調月間のも関わらず領土問題が発生しました。

810日、韓国の李明博大統領が島根県の竹島に上陸した事件。

815日に尖閣諸島・魚釣島に香港の活動家らが不法上陸した事件。

北方領土返還要求運動強調月間とは名ばかりで、自国領土の監視もろくに行っていないことが世界中に知られる結果となりました。

こんなことでは、日本に安心して住んでいられるのでしょうか。

政治家のみなさん、政局にかまけている隙に周辺国は虎視眈々と狙っています。

日本を預かる政治家のみなさん、お願いしますよ。ちゃんと守って下さい。

したっけ。

コメント (10)
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倉内佐知子

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