voice of boss

演劇プロデユーサーとして、主宰する劇団の今を日記風に。50年余の演劇との関わりの中で、少しは提言めいたことなど・・・

ああ 御園座 更地になったよ。

2015-03-25 11:02:02 | 日記
ついに御園座が建物を取り壊して更地になってしまった。ご承知のように名古屋の演劇名物として連綿として続いてきたあの御園座がと感慨ひとしおです。
思い起こせば、私にとっては生まれたときからあったのです。生まれた場所は御園座から100mほど南、歩いても2~3分の狭い路地を入った長屋の1軒でした。戦前のことです。
小学校に上がる前、祖母に連れられてよく御園座の客席におとなしく?座っていたのです。もちろん見るのは歌舞伎でした。きれいな舞台だったと強く印象が残っています。祖母はよほど好きだったと見えて、播磨屋とか沢瀉屋とか、吉右衛門、・・・・と話してくれましたが、正直、何もわかりませんでした。後年、あの舞台が何とかという演目だったかなあとくらいにしか覚えてないのでした。戦時中は芝居も余りかからなくなって、前の広場は子どもの遊び場にもなっていました。三輪車や子ども自転車を乗り回していました。見ていたという方が正確です。そんな高価なものは我が家にはありません。後をついて回っていましたね。
戦争が激しくなり、連日の空襲の中、親たちは必死に焼夷弾のなかをかいくぐって消化していましたが、ついに昭和20年の3月名古屋大空襲で跡形もなく、一面の焼け野原となりました。でも御園座の建物だけは焼け残りました。わたしは郊外の田舎に疎開していて直接空襲の被害には遭いませんでしたが、疎開先へ無一文でたどり着いた祖母や母から御園座の前の広場には焼死体が集められて身寄りの人を捜し求める有様だったということでした。
戦後、御園座は再開されふたたび歌舞伎の殿堂として歩みを続けましたが、あるとき失火して戦前から続いた建物は焼失しました。やがて再建されました。大学生になって出かけた御園座は取り壊された今の御園座の前でした。現坂田藤十郎さんが鴈治郎の前の扇雀さんだったころ曽根崎心中を見ました。別に御園座の歴史を調べたわけでもありませんから正確なことはいえませんが、芝居好きの私にとってはありがたい場所でした。立て替えられた御園座は大劇場の風格のある立派な建物でした。客席数も1600席以上のものでした。それも時代の流れというか歌舞伎がだんだん掛からなくなって有名歌手の歌謡ショウ+お芝居が主流になってきましたが、ついに経営難という事態に追い込まれ、今度は建て替えられマンションとかオフィスも入る総合ビルに劇場としての御園座が入るという再建計画がまとまり、数年後に再生御園座がオープンすることになりました。
不安と楽しみが混ざり合う不思議な心境ですが、そのとき私はこの世にいないかもしれません。劇場経営は生やさしいものではないと経験(150席の小劇場でしたが)的につくづく思っています。でも成り立つ方法は必ずあると思っています。

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