19810630

上野剛史物語

常に新しい価値観と変わらぬ想いを
洗練された想像力と創造力を
オルタナティブとはこういうことさ

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2018-09-17 23:13:26 | 日記

【note】 https://note.mu/tsuyoshiueno

【Twitter】https://twitter.com/TSUYOSHI_UENO
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皮膚感覚

2018-09-17 18:07:30 | 日記
躁状態が落ち着いて来ている。
今回はガス抜きや呼吸が、まぁまぁ上手く出来ているのかもしれない。
そして今のところ鬱になる気配は感じられない。
でも鬱はいきなり陥ることがあるから、その前にあるはずの予感を察知出来る心身でいたいと思っている。

いつも思い立ったら即行動というスタイルだったのを、今回からは変えている。
その思いつきのアイデアなどはしばらく寝かせてみている。
我慢と言うと少し窮屈になってしまうので、寝かせたり発酵させたりしている感覚で、一旦自分の脇に置くようにしている。
そしてそれらの躁エネルギーの発散方法を変えて、あっちもこっちも意識が向きがちな目線やアンテナを、なるべく一つのことに集中させるようにしている。

何かとバランスを取るのが下手な僕だけれど、季節が変わり始めた風の中にある少しピリッとした空気が、僕のブレがちな意識や感覚を正しい位置に修正してくれているような気がしている。
風任せというか、風頼みというか、本当はそんなことではいけないのかもしれないけれど、自分の体は自然の一部だと確信している僕にとっては、植物や動物たちのように季節に合わせた生き方や変化はとても真っ当なことだと思っている。

僕は人間だからこんなに面倒な生き方になっているのかもしれない。
と、また大袈裟なことを言い出してしまうときりがなくなるのだけれど。
僕にとって文明や社会とは一体何なのだろうか、と考えてしまう。
社会性ではなく自分らしさが尊重される世の中には、いつかなることがあるのだろうか。
そうなってしまったら、また殺し合う世の中になってしまうのだろうか。
僕たちは歴史から何を学んでいるのだろうか。
と書いていたら、ヘーゲルのこの言葉を思い出した。

「人間が歴史を学んで分かることは、人間は歴史から何も学ばないということだけだ」

ここで言う歴史とは一体何を指しているのだろうか。
人間目線ではなく、文明や社会優位な目線でもなく、もっと根本的な視点でこの世界を見ていかないと、僕たちは何度も何度も同じことを繰り返していくことになる。
でもそれが成長ということで、学ばないことや繰り返すことが進化することならば、ヘーゲルの言っていることには納得がいく。

動物や植物は学んでいるのだろうか。
動物や植物には歴史という概念があるのだろうか。
僕たちよりも遥かに地球や自然に近い彼らには、遺伝子や種子レベルでの意思や概念が身に付いているのかもしれない。
学ぶとか歴史以前のものがあるのだと思う。
でもそうなると僕たち人間にもそういったものは確実にあるはずで、では何故それらが尊重されないのかと言えば、やはり文明や社会というものがそれらが表立つことを阻止しているようにしか思えない。

三年前の僕の体のように、地球も自らの声を出しながら、本来の姿を取り戻そうとしているのだと思う。
それが地球の呼吸であり意思表示なのだと思う。

この初秋の風も、本を正せば人工的な風なのかもしれないけれど、都心のビルの間の不自然な気流に乗った室外機の熱風よりはマシなので、なるべく自然に近い感覚を持って生きていきたいと思う。

この三年間、皮膚の状態がおかしくなってとても大変だったけれど、おかげで文字通り皮膚感覚が冴えてきているような気がしている。
引き続きこのまま、頭よりも心よりも体を優位にして、顕在意識ではなく潜在意識が優位になるような敏感さを身に付けていきたい。
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秋の風

2018-09-14 19:12:13 | 日記
風の温度と匂いが変わり、僕の心身の風向きも変わってきている。
特に体は顕著で、気温の違いで皮膚の状態も明らかに変わっていく。
個人的な統計では、気温25度くらいが皮膚変化の境界線のような気がしていて、それを超えると皮脂が多くなり、それを下回ると乾燥が始まる。
そしてその気温に少しずつ慣れていき、体はその季節の状態になっていく。

ざっくり分けると、春夏は暑さと湿度で、秋冬は寒さと乾燥。
これらに体がどこまで耐えられるか、そしてどこまで合わせられるか。
薬や保湿剤を使わない方法で体と向き合っている僕は、季節の変化をすぐに皮膚で感じることが出来る。
急激な気温の変化には体の変化が追いつかない時があるけれど、緩やかな変化の場合には体が徐々に変化していき、もちろんその過程は目で見て分かる。
とは言え、一進一退で一喜一憂する時がほとんどなのだけれど、それでも例えば一ヶ月前や半年前や一年前などと比べると、グラフの波の上下はあるけれど全体的には上昇しているので、近いところを見たり遠いところを見たりしながら、なるべく落ち込まない方法で日々を過ごすようにしている。

この夏は三年振りにSNSを再開し、新たにnoteも初めてみたので、それらでのアウトプットやカミングアウトが功を奏したようで、心身の状態がこの三年間で一番良くなっている。
このままこの波に乗っていきたいけれど、やはり変化は付きものなので、その辺の対策というか準備はしっかりしていこうと思っている。
でもここまで来たら、あとはもう心構え重視のようなものかもしれないので、何かと極端になりがちな僕はその辺を気を付けながらやっていきたいと思う。

秋の風をいち早く味方につけて、今は波ではなく風に乗って進んでいきたい。
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記憶の輪郭

2018-09-07 19:09:42 | 日記
夜の九時過ぎ。

三軒茶屋から下北沢に向かって、茶沢通りを歩いた。

特に行くあてはなかったけれど、数年ぶりに下北沢に行くのもいいなと思っていた。

何となく中間地点の梅が丘通りを左に曲がって、昔やっていた店の前を通ってみた。

今は友人が別の店を経営しているその場所は、半分シャッターが閉められていた。

扉を開けて声をかけようか迷ったけれど、今回はやめることにした。

僕の足は下北沢ではなく、そのまま環七方面に向かって進んだ。

環七を超え、梅が丘駅前を通り過ぎ、世田谷線の踏切と線路を渡った。

変わるものと変わらないものを全身で感じながら、僕は歩き続けた。

そのまま線路沿いを進み、終点の下高井戸まで行った。

商店街を歩き、甲州街道に出た。

新宿とは反対方向に歩いた。

歩いた距離とは別のところから、僕の体温と心拍数は上がっていた。

ついに桜上水に着いた。

ここは昔五年間暮らした町で、訪れたのは実に六年ぶりだった。

周辺を少し歩いた。

甲州街道沿いにある昔住んでいたマンションは、跡形もなく消えていた。

甲州街道と首都高を背にして、その空間を見上げてみた。

都内では見えないはずの星たちが、ぼんやりと記憶の輪郭を象ってくれていた。
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躁エネルギーの使い方

2018-09-02 18:37:34 | 日記
完全なる躁状態だ。
長い長い鬱が明けた後の突き抜ける力が強過ぎて、自分で自分を抑えることが出来ない状態。
それはつまり危うい状態ということになるのだけれど、この時点で自覚症状があるのは今までとは違うところかもしれない。
それがもしかしたら何らかの救いになっているのかもしれない。
今はまだよく分からないけれど。

じっとしているのがもったいないと感じてしまい、常に動いていたくなり、睡眠などどうでもよくなり、時間や場所やお金や体力を全く考えない行動をとってしまう。
やっと動けるようになったので、今しかない、といったような極端な思考回路になってしまう。
鬱の時は自分にしか目が向かなくなるけれど、それは躁の時も同じ。
ただ外に意識が開かれている分、僕個人の単体でのループではなく、何かに反応したり、何かと感応や共鳴したりしながら、正なのか負なのかよく分からないループや波を作り、その中を移動しているような気がする。

しかし、僕は人生の中で何度も同じミスをするわけにはいかないししたくないので、ようやく訪れた鬱明けであり躁状態ではあるけれど、今はその興奮状態を何とか抑えようと意識しながら行動している。

躁状態がひどい時は、外に外に向かおうとする気持ちをただ抑えるのではなく、少しだけ手を加えて軌道を変え、そのエネルギーを自分に向けてみることを試している。
それは、僕の場合で言えばMacBook Airと自分自身と向き合って、ひたすらキーボードを打つという作業になる。
ある意味、治療や薬の役割として書いている。
ヨガや整体も出来ればいいのだけど、何故か今はそういう気分にはなれないでいる。
でも一応、無理矢理でもヨガの太陽礼拝だけは毎日数回やってはいるけれど。

多分、今はアウトプットをしたくてしょうがないのだと思う。
でもその方法を変えた。
飲みに行ったりツイッターでひたすらべらべら喋ってもしょうがない。
そういう時の結果はあまり良くならないことが多くなりそうなので、そういう動きはしばらく控えることにした。
今はもっと長い言葉や文章を書いて、ゆっくりじっくり自分と向き合ってそれを吐き出せばいいのだと思った。
せっかちな僕だけれど、これだけは出来ている、今のところ多分。
でも誰かには会わないと進まないことが沢山あるので、もちろん完全なるゼロにはならないけれど、今の僕にはお酒は必要ないのかもしれない。
既にテンションが高いので、そこから更に上がってしまったら予測不可能な展開になり、やはり良い結果ではないことが多くなることは間違いなさそうな気がする。

でもこの前クラブに行った時に、あぁどうしてもはしゃぎたくなったらこういう所に来れば良いんだと思った。
お酒を飲んで酔って踊りまくって大声を出しても、怒られないどころか、それをフロアーの最前列とかでやれば盛り上がるし喜ばれる。
要は、エネルギーの使い方とその質。

今の僕にとっては、ヨガの呼吸法のようなものが、この文章執筆と同じ働きをしていると思う。
吸って、吐いて、また吸って。
気付いて、書いて、また感じて。

まだまだ分からないことだらけだけれど、このまま自分の呼吸を続けていこうと思う。
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『未来の足跡』(続続続・希望の儀式)

2018-08-30 19:00:54 | 日記
『未来の足跡』(続続続・希望の儀式)



「え、え、え〜!!!マジで〜!!!ちょっとちょっと聞いてないよ〜!!!」
「うわ〜マジか〜!!!ビックリだわ〜!!!ありがとう!!!」

終始そんなリアクションばかりとっていたし、三年以上ぶりの友人達との再会は情報量がとてつもなく多すぎて、僕のキャパシティーは開始一時間くらいで簡単にオーバーした。

結果として、あの夜に三年分の何かを解放しすぎた僕は、前半の前半で早くも色んなものに酔いすぎてしまい、良くも悪くも多くの友人達にインパクトを残した形となった。

その久々に味わった優しさや厳しさが、とても心地良かった。

懐かしい笑顔、変わらない声や歌声、新しい匂い。

抑えきれない高揚、五感を刺激する人間臭さ、記憶の中にある日々と目の前にある日々、そして終わりと始まりの予感。

あらゆるものは変化していく。
それは定めだ。
だけれど、あの夜僕が感じたものは、変わらないものが持つ強さだった。
それは、想いであり、記憶であり、あんまり言いたくないけれど愛なんだと思った。
もし僕と同じように、あの夜あの場にいてくれた友人達もそう感じてくれたのなら、それはこの上ない喜びだ。



「過去は決して過ぎ去り止まってしまったものではなく、記憶のねじを巻けばまたすぐに動き出す不思議な生き物。
そこには感情という最も大事な記憶がしっかり冷凍保存されていて、風景や匂いや味や音や感触によって優しく解凍される。
記憶とは今のことであり過去のことであるが、同時に未来のことでもある。
過去の記憶は、まだ見ぬ明日への希望である。」



ビックリなことに、というかありがたいことに、多くの友人達から直接メッセージで「飛ばし過ぎるなよ!」「頑張り過ぎるなよ!」というアドバイスというか、ブレーキというか、そういうものをもらっている。
なんだかみんな僕の主治医みたいな感じなので、僕は自分のことながら情けなくも可笑しくなってしまった。
心の底から本当にありがたいなぁと思い、感謝している。

僕もそういう友人達や誰かに対して、上手に心の距離がとれる存在でありたいなと思う。
心を傾けることが出来る人でありたいし、寄り添うことが出来る人でありたい。
悲しみや辛さに目を合わせられる人でありたいし、そういう人と並んで歩くことが出来る人でありたい。

今はもうこの三年間を絶望の日々だったとは思わない。
この三年間は、僕が全力で希望に向かって歩いた日々だったのだ。
自分がどれだけダメなやつかも分かったし、周りに素晴らしい人達が沢山いることも分かった、というか改めて実感した。

だからこれからも、素直な心と感謝の意持ちを忘れずに、一歩一歩進んでいきたいと思う。



津川雅彦さんがゲストの回の古畑任三郎の言葉。

「例え、例えですね、明日死ぬとしても、やり直しちゃいけないって誰が決めたんですか?…誰が決めたんですか?…まだまだこれからです」



僕もみんなも、人生まだまだこれから。
共にこの時代を楽しみながら、じっくり生きていきたいと切に思う。
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【information】

2018-08-28 23:59:59 | インフォメーション
【information】



『PABLO』

◎2018.8.28(tue)
◎19:00-29:00
◎no charge / 1drink 500yen (〜21:oo happy hour 1drink 300yen)
◎POP MUSIC BAR 80's 90's(sangenjaya)

*special guest Takacha

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終わりと始まり(続続・希望の儀式)

2018-08-28 03:24:40 | 日記
『終わりと始まり』(続続・希望の儀式)



まさかこんな日を迎えることが出来るなんて、この三年間全く想像出来なかったし、夢にも思わなかった。
先の見えないまま、出口の見えないまま、僕はずっと闇の中で苦しみながら、更にはそんな自分に慣れながら生きていくのだと思っていた。

そして体や気持ちが少し上向きになりそうな時でも、まだまだもっと苦しまなくちゃいけないんじゃないか、まだまだもっと苦しんで笑顔なんてものは封印しなくちゃいけないんじゃないか、僕は笑ったらいけないんじゃないか、楽しんだらいけないんじゃないか、とずっと思っていた。

でも、もうそんな寂しい考えとはお別れしようと思う。

新しいスタートを切ったら、それまでの出来事を忘れてしまうんじゃないか、という意味不明な不安もあった。
無かったことになってしまうんじゃないか、だからそうならない為にも今はまだこの場所にいた方がいいんじゃないか、と。
早く次の場所に行きたいのに、今いる場所からも離れられないという、どちらに対しても中途半端な情けない状態。

でも、こういう状況や状態は、僕の人生の中では何度かあった。
そんな時、僕はこういう言葉で自分を納得させ、無理矢理どちらかの足を上げ、前に移動させていたのを思い出した。

「全ての執着を、愛着に」

大丈夫。
大事なものは全部自分の中にある。
忘れたいことも忘れたくないことも、失ってしまった多くのものでさえも、僕の全身や意識の片隅に、形を変えてしっかりと保管されている。
それらをどういう形に変え、どういう状態で保管するかは、全部自分次第だ。
この傷跡も湿疹も皺も滲みも、全部僕が今まで生きてきた証なのだ。
僕の皮膚は、そして心は、それらをしっかりと記憶している。
だから大丈夫、何も心配することはない。

今までの経験は、全部今日この日の為にあったのかもしれない。
もしかしたら今夜が、三年前から始まった『希望の儀式』のフィナーレなのかもしれない。
と同時に、新しいスタートの瞬間なのかもしれない。

でも、もしかしたら実はまだまだ先があって、またどん底を経験するかもしれない。
そんなことは誰にも分からない。
そんなことを考えたって何にもならないし、始まらない。
それが一体何だというのだ。
僕は僕の人生を生きる、ただそれだけのことだ。

まさかこんな日を迎えることが出来るなんて、この三年間全く想像出来なかったし、夢にも思わなかった。
だけど、事実迎えることが出来た。
ならばあとはもう楽しむだけだ。
ずっと忘れていた、そして封印していたものを解放するだけだ。



少しだけ後ろを振り返ってみた。
直線とは程遠い、蛇のような腸のような自分の足跡がずっとずっと先まで見えた。

深呼吸をして、胸を張って前を向いた。
まだ真っさらな地面が、目の前に果てしなく広がっている。

僕はまたここから、その奇妙な形をした足跡の続きを、一歩一歩作っていこうと思う。



もう一度ゆっくりと深呼吸をしてみた。



自然に片足が上がり、僕の体が前に動いた。
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ワガママであれ

2018-08-27 15:31:53 | 日記
(noteの企画で、#8月31日の夜に というのがあったので書いてみました)



『ワガママであれ』



自身のアトピーのことを、こうやって普通に話せるようになるなんて夢にも思わなかった。
もし話すのだとしても、それは症状が治まった時か、アトピーだということが側から見て分からなくなった時だと思っていた。
そして、その日が来るなんてことは今まで全く想像出来なかった。

しかし、僕は今こうして少しずつ話し始めている。
何がきっかけだったのかはよく分からない。
ただ、沢山の出来事と僕の心身の状態が、ちょうど上手い具合にあるタイミングで重なったのだと思う。
要素は一つではなく、全てなのだと思っている。

隠しておきたいことを、わざわざ話す必要は一体どこにあるのか。
もちろん、話さないままの人は山ほどいると思うし、話すのが良くて話さないのが悪いなんてことは、これっぽっちも思っていない。
ただ僕の場合、話した方が自分が楽になれて、結果それまでいた地獄のような日々から抜け出すことが出来たというだけのこと。
いや、でも今はまだその途中だと思うので、油断せずやっていこうと毎日気を付けてはいる。
そういったことを、立ち止まって確認するためのnoteでもある。

カミングアウトというと大袈裟かもしれないけれど、そうすることによって自分の中の闇のような澱が少しずつ、または一気に流れ出ていくのが分かった。
そうなると、少なからず心身はすっきりとした状態になる。
そして、今までいた世界が全くの別世界のように感じられたりもする。
同じものを見ても、同じことをしても、同じものを食べても、自分の感覚が入れ替わったかのように、それまでの感じ方とは全く異なる感じ方になっていることに気が付く。

自分が倒れてようやく思ったことは、周りなんて気にする必要はないということ。
ちょっと語弊がある表現かもしれないけれど、自分の心身が限界な時はもちろん、そこから立ち上がろうとしている時に、周りの意見、特に否定的な意見に耳を傾けたり気にする必要なんて全くないということ。
例えそれが自分の為のものだったとしても、だからといってさらに身を削ってまで、嫌な思いをしてまでそこに合わせていく必要なんて全くない。
今までの僕は周りを気にしてばかりだったけれど、今ようやくこうして心身が上向きになってきているのは、まずは自分のことを一番大事にしようと思い始めたからかもしれない。



だから。



繊細で優しすぎる君よ、そして僕よ、今はもっともっとワガママであれ。
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誕生日前夜

2018-08-27 15:24:22 | 日記
(noteの企画で、#8月31日の夜に というのがあったので書いてみました)



『誕生日前夜』



8月31日の夜に、僕の妻は自宅で破水しました。

すぐに病院に電話をして、玄関に用意していた入院バッグを持って、一緒にタクシーに乗って病院に向かいました。

妻の頑張りと僕の戸惑いが混ざり合いながら、その夜が過ぎていきました。

そして待望の娘は、翌日の9月1日の夜に生まれました。



眠れない夜がある時、迎えたくない明日がある時、僕はあの8月31日の夜を思い出します。

娘がそうだったように、僕がそうだったように、例え今がどんな状況だとしても、自分一人で生まれてきたわけではありませんし、その側には必ず誰かがいてくれたのです。



幸せって一体何なのか、僕は今だによく分かりませんが、今生きている人たちは誰でも幸せになる権利があると思っています。

だって、お誕生日おめでとうって英語ではこう言いますから。



「Happy Birthday」



生まれてきてくれて、ありがとう。
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夏の床屋

2018-08-24 17:01:40 | 日記
髪を切りに行った。

BGMは普段聞かないラジオ局の番組だった。

若者のすべてが流れ始めた。

「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた」

とラジオで言ってた。

とは言え、今日もなかなかの暑さだ。

僕の髪はサイドをバリカンで刈り終えていた。

次にLet It Goが日本語で流れ始めた。

「降り始めた雪は 足跡消して」

と夏日に言っていた。

しばらく目を瞑って聞いていた。

フレーズや光景を思い浮かべてみた。

耳と頭で涼を感じた。

上がりすぎていた体内外の温度が、少し下がったような気がした。

深呼吸をしてみた。

鼻から吸い込んだ空気が、胸と口角を持ち上げた。

目を開けて鏡を見た。

そこには、すっきりさっぱりした髪と顔の僕がいた。
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カタルヒフとカタルシス

2018-08-23 17:56:34 | 日記
昨日の日記の題名が「語る皮膚」だったのだけれど、しばらくしてから何となく声に出さずに復唱していたら、「カタルシス」という言葉に行き着いた。
しょっちゅうは聞かないけれど、大人なら多分一度は聞いたことがあるのではないかと思う。
でも多くの人は日常会話では使わないだろうし、僕も言葉こそ知ってはいるけれど、その意味は全く分からなかったので早速調べてみた。



カタルシス【katharsis】
〔浄化・排泄の意〕
① 悲劇がもっている、観る人の心に怖れと憐あわれみを呼び起こし、その感情を浄化するという効果。アリストテレスが「詩学」で展開した語。
② 精神分析で、抑圧された感情や体験を言葉や行動として外部に表出して、心の緊張を解消すること。
③ 心の中に解消されないで残っていたある気持ちが、何かをきっかけにして一気に取り除かれること。
(大辞泉 第三版より)



驚いた。
これは今まさに僕がやっていることであり、僕の精神面でも身体面でも起こっていることだった。
語る皮膚は、カタルヒフであり、カタルシスなのだった。

僕の中に何かが降りてきた。
何となくだけれど、これからやるべきヒントのようなものを得た気がした。
今僕がこのnoteでやっている自分を取り戻すための治療としての執筆に、また一つ自分が納得出来る根拠というか説得力のようなものが生まれた。

まだまだ手探りだけれど、とにかく書くことを続けていこうと思う。

掻かずに、書く。
掻くなら、書く。
掻いても、書く。

僕はこの"かく"という言葉にも興味があって、それは行為であり、その後の結果よりもその行為自体に重要な意味があるのではないかと思っている。
その行為の最中の心身の状態、感情にとても興味がある。
いつかこのことについても、僕の中でもう少し何かが分かってきたら書いてみたいと思っている。
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語る皮膚

2018-08-22 14:01:30 | 日記
今日も暑い。
秋の気配があまり感じられない気温と湿度と空模様。
そして僕の皮膚の状態。

秋に備えて少しずつ準備をしていた皮膚が、昨日今日でまた夏仕様に逆戻り。
また賑やかな状態になって、僕に何かを訴えている。
いや、語りかけている。

今の僕は、この語りを100%理解というか訳しきれていないけれど、それでもこの三年間の中では、その理解力というか翻訳力は右肩上がりだと思っているので、このまましっかり向き合って感じ取っていきたいと思っている。

過ごしやすい気候になると、それまで色々制限されていた状態から解放されることになるので、どうしても外へ外へと意識は向いていく。
もちろんそれは決して悪いことではないし、むしろようやく訪れたそういう状態を目一杯楽しんだ方がいいとは思っている。

だがしかし。
身体も自然の一部だということは忘れてはいけない。
天気が変わるように、季節が変わるように、身体や皮膚も変わっていくのだ。
自然はコントロール出来ない。
だから身体や皮膚もコントロール出来ないはず。
コントロール出来るのは心や行動だと思うので、そういった理解や認識をもう一度しっかり持ちたいと思う。

晴天の日もあれば嵐の日もある。
空と同じ、身体も同じ、人生も同じ。
良い時も悪い時も、一喜一憂せず、なるべく落ち着いた心で過ごしていきたい。

と、三年振りに調子を取り戻しつつあり、身体も気持ちも上向きとはいえ何となく危うい躁状態な僕は、こうやって文章にすることによってなんとか落ち着こうと試みている最中なのである。
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身体の声を聞く

2018-08-21 18:43:26 | 日記
僕のような重度アトピーの人にとっては、暑い日から涼しい日になってくれるのはとてもありがたいことなのだけれど、今日のように涼しかった日からまた暑い日になるのは、なかなか体に堪えるものがある。
皮膚の状態が、身体の内側や心の影響以外では、その日の気温や湿度によってもかなり変わってくる。
緩やかな変化なら、身体も少しずつそれに対応しようと頑張るのだけれど、急激な変化にはついていけることが殆どなく、音にならない悲鳴を違った形で皮膚に表してくる。
でもその悲鳴は、その状況や環境の中で必死に順応しようと頑張っている証しであり、それはつまり身体の呼吸でもあり、生き様でもある。

心の声を聞く、というのは誰にでもよくあることだと思う。
それと同じように、身体の声を聞くというのも、もちろんある。
身体にもしっかりと声があり、それはいつも持ち主に語りかけている。
時には優しく、時には激しく。

季節の変わり目は、自然も街も騒つき始める。
そして心も騒つくし、身体も騒つく。
その騒つきを、その声を、聞き逃してはいけない時というのがある。
僕にとっては今がその時だと思った。
朝起きてシャワーを浴びて、その後のケアにとても時間がかかってまた頭がおかしくなりそうな一歩手前で、そう思った。
今はまだ身体のいいなりな状態だけれど、その声を聞いて理解出来れば、自ずと状況は変わってくるのだと確信した。

目を向けるということ。
耳を澄ますということ。
心を寄せるということ。

誰かに対してそうするように、自分に対してもそうしていきたいと、久々に強い日差しを浴びながら、改めて強く思った。
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おばあちゃんと僕

2018-08-19 17:35:21 | 日記
『おばあちゃんと僕』



「おばあちゃん、それどうやんの?」
「ほら、こうやってね、お水の中に入れて、この先っぽを指で押さえてから、そのまま上げると、ほら、お水が入ってるのに落ちないでしょ」
「さっきからやってるんだけどさぁ、出来ないんだよー。おばあちゃんのストローと取り替えてよー」
「ふふふ、いいよ、じゃあこっちでやってみなさい」
「あーもう、こっちでも出来ないよー。ちょっとそっちのお水でやってみる」
「ゆっくりやるのよ、そうすれば大丈夫だから」
「あ、出来た!ほら、見て見て!」
「おっ、良かったじゃない。そしたらそれを、まだ離しちゃダメよ、この上に持ってきて、指をぱって離すの」
「わぁー出来たー。びよーんって伸びたー」
「すごいじゃん、出来たねー。ほらまだこっち側も出来るから、もう一回ゆっくりやってみなさい」
「びよーん。ははは、これ楽しいねー。おばあちゃんが考えたの?」
「ん、違うよ。誰が考えたのかね。面白いこと考える人がいるもんだねー」
「おじいちゃんかもしれないね。おじいちゃん何でも出来るから。あとで帰ったら聞いてみるね」
「そうだね。あら、よく見たら口にまだケチャップ付いてるじゃない。ほら、ちょっとおいで、拭いてあげるから」



「おばあちゃん、こうやってやるんだよ」
「あら、ありがとう。柔らかいんだけど、なかなか切れないんだよ」
「これ反対向きだったから。ほらよく見てみな」
「あらそう、よく見えないねぇ、おんなじに見えたよ。ちっとも切れないからおかしいと思ったんだよ、あはは。ナイフなんて普段使わないから、もう忘れちゃったよ」
「ほら、お皿こうやってもっと近くに寄せないと、テーブルにこぼれちゃうよ」
「あはは。これ美味しいね、味がいいよ」
「そうだね。おばあちゃん、左手出しな、左手」
「うふふ」
「もう、まいっか。このあとさ、どっか行く?それとも買い物して家帰る?」
「そうだねぇ、マックは朝行ったから、久々にワシリーにでも行ってみようか?」
「あ、いいねぇ。もう何年も行ってないね。最近行った?」
「いや、もう全然行かなくなっちゃったよ。そういえば、昔はよく行ったねぇ」
「こんなに近いのにね。俺ももう十年以上行ってないと思う」
「あそこでケーキとかクリームソーダとか、よく頼んでたねぇ」
「そうだね、懐かしいなぁ。あ、もうこれ俺が全部切っていい?切っちゃうよ、全部」
「ははは、うん、ありがとう」
「じゃあ、まぁゆっくり食べてから、ゆっくり歩いてワシリー行こう」
「うん、そうだね」
「そこでさ、俺が面白いことやってあげるよ」
「うふふ、何だろねぇ」
「おばあちゃん、口にソース付いてるよ。はい、拭いてあげるから」
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