一つの文化共同体の人々(民族など)は、(拙稿の見解では)集団的共鳴運動として共感できる一そろいの物事の集合、つまり身体運動‐感覚受容シミュレーションの体系、を集団的に記憶している。人々は、集団内で(頻繁に)共鳴運動を繰り返すことによって、その経験を安定的に共有する。皆一緒に笑ったり、歌ったり、踊ったりする。カラオケなどその典型です。それで、お互いに同じ物事を同じように感じられる、と感じる。その物事に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが共有される。その共有シミュレーションを音声で表わして安定的に共有することが生活に便利な場合、それは言語になる。
その場合、注目する物事の共有シミュレーションを主語(XX)で表わす。つぎに、擬人化されたその物事の動きを駆動すると感じられる欲望、意欲、意志、意図、の共有シミュレーションを述語(○○)で表わす。これらをつなげて、「XXが○○をする」という言語形式で表現する。こうして、言語は、物事の変化を表現する。どの国のどの言葉も、そうなっています。
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