主観的な言い方をすれば、生きている物を見るとき自分の中で何かある感情が動くと感じる。これは脊椎動物に共通な神経系の反射です。これが命の存在感、生命の神秘の正体です。こうして、人間は、この世の中には命がある、という感覚、というか理論、つまりいわば、命の理論、を身につけるわけです。
命はなぜあるのか、これがその答えです。
その命ある物のように見えるものが、本当に生き物かどうかは関係ありません。生き物らしく見えれば、それで十分です。そういうものの動きに反応して、人間の脳は、命をはっきりと感じるようになっている。命に関しては、それ以外に、特に神秘的なものはありません。あとは、連想という脳内のシミュレーション機構が、命という言葉が関係するいろいろな状況に対応して働くことで、命に関する人間のいろいろな反応が起こってくるだけです。脳内のシミュレーション機構は、連想によって、生き物を検知したときと同じような擬似信号を作り出し、それを命の存在感を発生する神経回路に送り込みます。
いずれの場合も、命の存在感を感知するその神経回路は、辺縁系など無意識の古い脳にあるので、大脳新皮質の意識にはその活動信号がはっきりと伝わりません。命という言葉を考えたときに、意識的には、漠然とした神秘感が感じられるだけなのはそのためでしょう。そういう事情から、大脳新皮質を使う情報計算処理に頼る科学としては、なぜ命が大事なのか、実は理解できないはずです。
私たちが直感で感じる「命」は、物質としては存在しません。命を感じる神経機構が、人間の脳の奥深くに存在するだけです。つまり命があるように感じられるものには、命があるのです。
それを敏感に感じるように、人間の脳は作られています。命あるものを命あると感じ、その動きを自分の脳の奥深く取り込んで感情とともに感じ取り、次にそれがどう動いて、自分の運動にどう影響を及ぼすのか、感情とともに予測する。そういう機能が、人間の脳には古くからあるのです。命が動くところを見ると、人間は必ず心が揺すぶられる。動眼神経が働いて視線がひきつけられ、それを注目してしまう。自律神経が興奮し、心臓がどきどきし、顔や手足の運動神経が自然に動いてしまう。人間はそう作られています。このしくみによって、人類の祖先は、自然の環境を生き抜いてきたのです。命あるものは、命がないものに比べて、人間の生活にとって格段に大事なものです。それに敏感でなくては、人間は生きていかれません。
近年のロボットは良くできています。癒しロボットのオットセイのぬいぐるみなど生きているみたいですよ。