関ヶ原合戦のひと月前、笠松町米野で、前哨戦があったのですが、歴史ドラマでは、ほとんど省略されます。昨年の「どうする家康」の時もそうでした。笠松町としてはとても残念ということで、地元のフリージャーナリストの高橋氏が、講演。テーマは、どうする「米野の戦い」。昨日は夫と笠松町中央交流センターにタクシーで出かけました。
町内を流れる木曽川で前哨戦が行われたのは合戦の一か月前。まだ石田三成は大垣城で、家康は江戸城にいました。米野の戦いは、8月22日に始まり、岐阜城の戦いは、翌日23日に始まり、どちらも東軍の勝利。木曽川を渡り、岐阜城めがけて進軍。しかし城主の信長の孫の秀信の軍は敗戦。前哨戦の勢いで本戦も、9月15日、そのまま東軍が勝利したのです。
この時の死者は、今も米野のお寺で定期的に供養されているようです。
この日は午前中はヒメトレがあり、指導者の御主人の整体師のNさんから手作りお菓子を頂きました。最下段の写真がそれです。車に乗せていただきお世話になったのに恐縮です。
三成の作戦ミスですね。
https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/297920
三成が大垣城から動かなかった理由は
総大将の毛利輝元や豊臣秀頼の出馬を待っていた
ようだが、その辺りが三成の頭でっかちさ。
関ヶ原も壬申の乱の前例があるけれど、
少し前に小牧長久手の戦いで木曽川の重要性は
わかっていたはずなので、
東軍を易々と美濃に入れたのは三成のミスですよね。
地元の人でもここまで認識されている方は少ないです。
分かりやすいサイトも紹介していただきありがとうございます。
そして壬申の乱までも話が及ぶとはさすがです。
この日も話が尽きず、参加者の意見も飛び交いました。
笠松でそんなことがあったとは。
今日のテレビニュースはまた、
こちらでも岐南町の町長の話で持ち切りでした。
とうとう全国に恥が知れ渡ってしまいました。
最初からふさわしくない人だったのです。野心ばかり
強くて・・・
こんな人を選んだ町民も愚かでした。
米野の戦いは岐阜の人もあまり知りません。