つきみそう

平成元年に出版した処女歌集の名

キリスト教と日本

2014-08-22 | 歴史
 キリスト教が日本でこれまでどんなに迫害を受けてきたかは、承知しているつもりですが、ここまで酷いとは思わなかったです。キリシタン大名の時代は、はじめは受け入れられたのに、秀吉と家康の時代になり、西洋の人々が呆れる程迫害しました。

 信長の時代に天正遣欧使節に行った4人の運命がこれほど苛酷だったとは・・・東洋の小国に少年のような文化人がいるとは信じられないと、ローマでもスペインでも大歓迎。ローマ教皇自らよく来たと、国賓並みの扱い。10代のエリートの少年たちは8年も滞在。20歳を過ぎ、ラテン語まで究めてきました。
 ところが日本に帰ると、厳しい弾圧。少年の内一人は、拷問され殺害。これほど人生が変わった例もないと思います。蜜月を欧州で味わったエリートが、日本で逆さ吊りとは・・・信長が亡くなったため180度変わってしまいました。

 26聖人が長崎にモニュメントとなり残っています。日本中から京都に集められた聖職者24人は長崎まで歩かされました。最年少は12歳。父親についたのです。24人の世話をした2人も、殉教。最後は26人となり、はりつけにされ、槍で心臓を突かれました。西洋では野蛮国と眉をひそめます。

 キリシタン大名の高山右近は、加賀の前田家に受け入れられたりしたのですが、最後はマニラに追放。マニラはそのころはスペイン支配で、キリスト教徒は、崇拝され優遇されたのですが、病のため40日後に死亡。右近は秀吉の家臣になるよう言われますが、イエス以外は従わないということで拒否。流されてしまいます。
 右近は西洋では、その頃人気があり、オペラまで創られたそうです。今もバチカンには、名前が彫られています。少しスペルが違いますが、「UKANDONO」と書いてあります。

 今NHK放映中の官兵衛は、洗礼を受け、黒田孝高(よしたか) となります。1604年4月19日に、京都伏見藩邸で死去。死の間際子供を呼び、次のように遺言しました。「自分の死骸は博多の神父のところに持ち運ぶこと、息子の長政が領内において神父たちに好意をよせること、イエズス会に2000タエス(約320石)を与え、うち1000タエスを長崎の管区長に、1000タエスを博多に教会を建てるための建設資金とすること」と。

 弾圧を受けて表向きはクリスチャンゼロの筈なのに、隠れキリシタンが江戸時代は60万あったそうです。今は100万人。人口比から言えば江戸時代の方が多かったというのも不思議な現象ですね。

 講師の(元) クリスチャン・I先生は興味あるお話をして下さいました。

     
      今年のツルバキア
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 子猫の福ちゃん | トップ | 明治大学マンドリン倶楽部大... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
母はクリスチャン (ナワ~ルド@峠おやじ)
2014-08-22 13:08:53
うちの母、じつはクリスチャンです。
戦後父と結婚してから礼拝など行ってません。
だから似非クリスチャンと言ってます。

しかし私が大学に入り、パイプオルガン+賛美歌の入学式には感動してました。
もちろん卒業式にも志願して来ました。




返信する
ナワ~ルド@峠おやじさま (matsubara)
2014-08-22 19:44:52
大学から想像してそうかしらと
思っていました。
折角聖書持っておられるのに
惜しいですね。

我が家の先祖はどうやら隠れ
キリシタンだったようです。
庭にキリシタン灯籠があるのです。
返信する
Unknown (慕辺未行)
2014-08-22 22:21:01
こんばんは (^o^)/
長崎の二十六聖人殉教地は高校卒業後の旅で訪れた記憶があります。
しかしこの歴史自体は知りませんでした。
江戸から明治へと時代が移り変わっても、キリスト教は日本にはなかなか根付きませんでしたね。
しかしそんな中でも三浦綾子さんの小説『塩狩峠』、山本茂実さんの『あぁ野麦峠』の中にもキリスト教の布教に来た方の話が載っていたこと、覚えています。
返信する
慕辺未行さま (matsubara)
2014-08-23 08:40:12
私も長崎旅行で訪れましたが詳しいことは
この日まで知らなかったです。
国全体から京都に集められたとは・・・
長崎の神父さんだけかと思っていました。

私も塩狩峠と、ああ野麦峠は読みました。
後者は岐阜県の話ですので他県の人は
読まないと思っていました。
返信する

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事