辻雅之の政治経済・日本史世界史、自由自在。

All About「よくわかる政治」ガイドの辻雅之による政治経済、日本史世界史コラム。

大久保利通たちが考えていた「天皇観」

2006-01-30 00:14:40 | Weblog
だいぶ開いてしまいました。いろいろ忙しかったもので……。

さて、私はいつも「女系天皇論」でお叱りのメールを受けます。ま、そんなに主張したかったらこうやってブログで名指し批判をしていただければ議論ができてありがたいのですが……

こういう人たちは往々にしてhotmailなどのウェブメールを使っていて、返信しても「届きませんでした」で帰ってくるのですよ。困ったもので。

さて、大久保利通が「非義の密勅は密勅にあらず」と述べたことは有名です。大久保にとって、天皇の勅命はあくまで大久保、つまり討幕派の意に沿うものであり、彼らの政治活動(このときは倒幕ですが)のための「手段」に異ならなかったのです。

同じようなことは木戸孝允も言っています。彼らにとって、天皇は至高の存在ではなく、尊王派を取り込むための道具、すなわち「玉(ぎょく)」でした。討幕派のなかには、倒幕後の日本を共和制にすべき、と考えていた人たちもいましたし、幕府の側にもいました。それを(一時的にですが)実行したのが榎本武揚だったわけで。

しかし、倒幕後、討幕派は尊王派と組んで天皇を中心とする明治政府をつくりました。大久保らは当時一番勢いがあった絶対主義国家プロイセンに日本を投影し、天皇絶対主義を目指しました。

大久保や木戸にとって、天皇絶対主義は後発国日本がプロイセンのように独立を勝ち取り、そして列強に入るための「手段」であったわけで、必ずしも天皇への敬意をもっていたのかどうかは、わからないところがあります。

さて、この矛盾は明治6年の政変で露呈します。征韓論論争ですね。最終的に明治天皇が征韓論を却下したわけですが、西郷隆盛や板垣退助らは、天皇の決定という本来重いはずの権威あるものに反発し、下野したわけです。

この矛盾を、大久保や木戸の後を継いだ伊藤博文がなんとかしなければならなかった。その苦心の作が「大日本帝国憲法」だったわけです。

まあ、こんなことを考えながら天皇についての記事を書いているわけですが、いずれにせよ、大久保に「天皇制をとるか日本の独立をとるか」という究極の選択を迫ったら、大久保はおそらく、迷わず「日本の独立」と答えたでしょう。明治初年の日本にとって、日本の独立確保はそれだけ重要問題だったのです。

All Aboutに書きたいことはいろいろあるのですが、まあ……まだ「歴史から見る天皇制」シリーズが完結してませんし。その辺、できたら見てくださいね。

ソロスが教えた「市場原理」

2006-01-13 23:24:23 | Weblog
明日、といいつつすごく開いてしまいました。

さて、1992年、ソロスというヘッジファンドのカリスマがイギリスの中央銀行であるイングランド銀行に戦いを挑みました。つまりイギリスの通貨であるポンドを売りまくったのです。

当時、イギリスは他の西欧諸国とともにERMというシステムに加入していました。これは、EC諸国内ではゆるやかな変動幅の固定相場制にし、域内通貨の安定を図る、というものでした。

そのため、売りまくられて(2兆円くらい一気にポンドが売られた)値が下がっていくポンドに対し、イングランド銀行は値下がりをやめるために外貨を投入してポンドを買い支えました。

しかし、ソロスの怒涛の売りは収まりません。

翌日、イングランド銀行はいきなり公定歩合を10%から12%に急上昇させました。ソロスはポンドを空売りしてその多くでマルクを買っていたので(つまり、ポンドを借りて売ってマルクなど外貨を買い、ポンドの値を下げる。自動的にマルクなど外貨は高くなるので、ポンドにして返しても、あるいはマルクなどで返しても利益が出る)、ポンドを借りにくくするよう金利を上げたのです。

それでも、まだポンドは売られます。午後、イングランド銀行は公定歩合を15%にしました。しかし、今度は市場そのものがポンド安に動いてしまいました。

これ以上、イングランド銀行は公定歩合を上げることもできませんでした。このころのイギリスは不況。不況ならば低金利政策が普通。しかし、イギリスはERM維持のためもあって10%の高金利。

ただでさえ高い公定歩合を、これ以上、上げていくことはイギリス経済を大きく混乱させることになります。そして、イングランド銀行のポンドを買い支える資金も尽きていました。

結局、公定歩合は10%にもどされ、イギリスはERMから脱退しましたのです。ソロスのファンドは国家に戦いを挑み、1500億円くらいの利益を出したといいます。その分、いやそれ以上(最後には他の投資家たちのポンド売りにも対抗したため)イングランド銀行は損害を出してしまいました。

固定為替というのはこのような危険を持っています。1960年代まで保たれていたアメリカ・ドルを中心とした固定相場が崩壊したのも、変わり行く市場に為替制度がついていけなかったことが原因です。

中国も早く、完全変動相場制に移すほうが、中国にとっては賢明でしょう。中国の国土や人口が広くとも、経済規模はGDPで1兆ドル程度、イギリスの約半分です。何か「仕掛けられても」おかしくはありません。

中国はイギリスと違い、おそらく為替制度も閉鎖的ですし、人民元を高くしようと考えても安くしようとする人はあまりいないでしょうから、ソロスがやったときのように市場の投資家が同調するかどうかもわかりません。

しかし、ソロスは常識的ながら非常識な手段でイングランド銀行に挑みました。そんな風にして、頭をひねりながらいろんな策を考えている人は、どこかにいるかもしれません。

固定為替相場制についての誤解。

2006-01-08 21:10:52 | Weblog
さて、うって変わって経済です。

固定為替相場制、というと、たとえば1ドル=360円と決めたら1銭も動かないシステムだ、と思っている人がいますが、それは誤解です。

金本位制がなくなったあとの固定為替相場制では、変動幅を上下1%とか狭いものに決めて、たとえば円が安くなったら変動幅を保つように日銀が円を買って価格を支えるしくみなのです。

為替レートを絶対的に決めることは困難です。決めても、きっとどこかで「うちはもっと有利に交換するよ」という「闇レート」が出来ます。それは、国際経済の不安定化につながります。

日本の不況が極まったとき、円高基調で輸出業の不振があったので、「日本は固定為替相場制に戻るべきだ」という主張がたくさんありました。「マレーシアもそうしてよくなった」たしかにそうです。

しかし、マレーシアの一人当たりGDPは日本の10分の1くらいです。経済規模が違いすぎます。しかも、マレーシアの通貨と違い、日本の円はドル、ユーロの次に世界で流通しています。

そんな大量の円を固定為替にすることは、なにかあったとき日銀が大量介入をしなければならないことになります。もし急激に円高になったら日銀は大量の円で大量にドルを買わなければなりません。その資金が尽きたら、日銀券つまり紙幣の大量発行へ……となったら、一気に悪性インフレです。

その固定為替相場制の危険がわかるお話を……あ、それは明日にします。ではでは。

独裁者・スターリンの狡猾

2006-01-05 17:01:06 | Weblog
この話終わりませんね。……ヤルタでスターリンは、国連にソ連と、ソ連を構成している15共和国全部の加盟を求めてきました。これも、ルーズベルトにはやっかいな話です。

断って会議を決裂させるわけには行かない。この前言ったとおり、ルーズベルトはなんとしてでもソ連に対日参戦をさせなければいけないわけですから。

スターリンにしても、これは「ふっかけ」だったのでしょうね。彼の国連方面における真の狙いは、国連安保理での、ソ連の「拒否権」確保だったわけで。

国連安保理の常任理事国が戦勝国である米・英・仏、それに中国とソ連になることは確実な情勢でした。しかし、米・英・仏はもろに資本主義陣営。さらに、中国も当時は蒋介石率いる国民党政権。

なにせ蒋介石は上海で共産党員を殺しまくってますからね。そうなると共産陣営はソ連のみ。これでは不利は免れない。

そのため、スターリンは拒否権の創設を強く迫ったわけです。

こうして、常任理事国の拒否権創設と、ソ連以外に白ロシア(今のベラルーシ)とウクライナが別途加盟することが決まったのです。

というわけで、1991年のソ連崩壊以前、すでにベラルーシとウクライナは国連加盟国だったのですね。もっともソ連時代、2国はソ連の言いなりですから、ソ連は事実上総会で3票持っていたことになります。

もっとも、この3票は、やがてアジア・アフリカ諸国が大量に独立・加盟していく中で無意味なものになっていきましたが。一方拒否権は、ソ連の大事な政治的カードとしてたくさん行使されていきました。

それにしても、スターリンという人物は狡猾です。

ドイツが占領していたポーランドの首都・ワルシャワをソ連が包囲したとき、市民はもう勝ったと思い、ソ連軍に呼応しようと蜂起します。

しかし、ソ連軍はうんともすんとも動きません。蜂起していた市民は、ドイツ軍に倒されていきました。

そしてやすやすとソ連がワルシャワを「解放」、ソ連の傀儡(かいらい)政権を作る。いやーもう絶対的に廻したくないタイプですね。

燃え尽きる寸前のルーズベルトが「獲得したもの」とは。

2006-01-03 22:21:48 | Weblog
昨日も話したとおり、ルーズベルトは命いくばくもない状況でスターリンとの会談に臨んだわけです。当然、ペースはスターリンのもの。

2月はすでにドイツの敗戦があきらかな状況で、問題はソ連がどこまで勢力圏を確保するか、ということでした。……結果的にいうと、かなりルーズベルトは妥協しました。いや、妥協せざるをえなかったのでしょう。

すでにドイツの東欧進出は進んでいました。ポーランドにはソ連が主張する臨時政府なるものができていました。もちろんソ連の傀儡(かいらい)です。このままヨーロッパ全土にソ連勢力が拡大していったら……それはアメリカにとって大きな脅威であることにはまちがいありません。

そして、この時点ではアメリカの原子爆弾実験もまだ成功していません。アメリカは日本に2つの原爆を落として日本を降伏させたのですが、その最終兵器を、ルーズベルトはまだ手にしていなかった。

先にドイツを陥落させ、ヨーロッパの戦争を終わらせたら、ソ連は何の抵抗もなく東欧進出を始めてしまう。しかしアメリカは日本との戦争に釘付け。そのあいだヨーロッパにソ連勢力が進出。それだけは避けたかった。

それだけ、ヨーロッパ、特に西ヨーロッパとのつながりをアメリカが失うことをアメリカ、そしてルーズベルトは恐れていたのでしょう。

しかし、日本の地政学的重要性はあまりわかっていなかった。弱っていて、それどころではなかったのかもしれません。スターリンの要求通り、満州も樺太も、そして今の北方領土も全部あげちゃいました。そのかわり、ソ連には日本に参戦してもらう。

日本とソ連は日ソ中立条約を結んでいました。スターリンは条約締結当初から日本に不信を持っていたといいますが、この条約のため日本とソ連は戦争末期まで衝突しませんでした。

しかし、ヨーロッパをおろそかにしたくないルーズベルトは、この条約を破棄させてソ連が参戦し、太平洋戦争の早期終結を求めたのです。

結果的に、ルーズベルトはソ連参戦の密約をとりつけたわけですが。

アメリカにも千島までソ連に与えることに懐疑的な官僚、外交官たちはたくさんいました。千島列島は明治時代の樺太千島交換条約で平和裏に日本が獲得したものだからです。これは完全に日本領土の割譲ではないか、しかもソ連に有利な、という。

しかし、衰弱したルーズベルトに、そこまでの判断能力があったかどうか。

もし、千島が日本領となって、千島列島のあまり人のいないところに米軍基地がおけたら……実は、多くのアメリカ外交官や軍人たちは、悔やんでいたかもしれませんね。