辻雅之の政治経済・日本史世界史、自由自在。

All About「よくわかる政治」ガイドの辻雅之による政治経済、日本史世界史コラム。

ヤルタ会談~下半身不随の大統領

2006-01-02 21:28:15 | Weblog
国連安保理での「拒否権」設定は、第2次大戦末期の1945年2月、ソ連(現在のウクライナ)クリミア半島のヤルタで、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン首相が終結して行われた、いわゆる「ヤルタ会談」で合意されたことです。

このとき、フランス亡命政権の指導者で後の大統領となるド・ゴール将軍は呼ばれなかった。ルーズベルトが嫌がったかららしいですけど、なのでド・ゴールは「ヤルタ体制」打破を訴え西側にいながら反米的な独自外交を展開するのですね。

とはいえ、フランスは戦後も植民地はそのままだったし、ドイツやオーストリア占領にも参加しているのですが。

さて、ルーズベルトが下半身不随だったことは意外と知られていません。小児麻痺によるものです。しかし彼は鉄のギプスでなんとか上半身を支え、杖のみで直立し、車椅子姿をみせることはありませんでした。

しかし、まだ医学の未発達なこの時代、12年間以上も大統領という要職にあり、かつ連合国の中心人物として激務をこなしていたルーズベルトに、鉄のギプスは容赦なくダメージを与えていきました。

そしてその締め付けは、彼に狭心症という新たな病気ももたらしていました。大戦末期のことです。

それでも彼は、最後の大統領選挙戦も就任宣誓式もギプスで立って行い、疲労困憊の体のまま、すぐに2万キロ以上も先のヤルタへと旅立つのです。

この健康状態の情報は、ソ連のスターリンのところへ行っていたのでしょうか。よくはわかりません。しかし、アメリカが会談場所を北アフリカなどアメリカから近いところを提案したのに対し、スターリンはあくまで遠いヤルタを指定してきたこと、これは間違いありません。

結局、ルーズベルトはこのヤルタ会談の2ヵ月後に死んでしまいます。それでも、ルーズベルトは必至でなにかを獲得しようとしていました。それは実現しました。しかし、この健康状態の中で獲得したものは、あまりに近視眼的なものだったのです。……続きは次回。