「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

Long Good-bye 2019・12・10

2019-12-10 04:20:00 | Weblog






   今日の「お気に入り」。


     「 なにかを為したいと思う者は、まずなによりも先に、準備に専念することが必

      要だ。

       機会の訪れを待っての準備開始では、もう遅い。幸運に微笑まれるより前に、

      準備は整えておかねばならない。

       このことさえ怠りなくやっておけば、好機が訪れるやただちに、それをひっ捕

      えてしまうこともできる。

       好機というものは、すぐさま捕えないと、逃げ去ってしまうものである。

            ――――『 戦略論 』――――                  」

       ( 塩野七生著 「マキアヴェッリ語録」 新潮文庫所収 )








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Long Good-bye 2019・12・07

2019-12-07 04:20:00 | Weblog





   今日の「お気に入り」。


     「 きみには、次のことしか言えない。

      ボッカッチョが『デカメロン』の中で言っているように、

     『やった後で後悔するほうが、やらないことで後悔するよりもずっとましだ』

      という一句だ。

       今日きみが享受(きょうじゅ)している、恋することによって得る喜びは、

      明日になればもう受けられないものなのだよ。それを受けているきみは、

      わたしにすればイギリスの王よりもうらやましい。

            ――――『 手紙 』――――           」

       ( 塩野七生著 「マキアヴェッリ語録」 新潮文庫所収 )










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Long Good-bye 2019・12・02

2019-12-02 05:11:00 | Weblog






   今日の「お気に入り」は、森鷗外(1862-1922、文久2年-大正11年)の「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」から。


    昨日の続き。



    「 わたくしはおほよそ此筋を辿って、勝手に想像して書いた。地の文はこれま

     で書き慣れた口語体、対話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻

     (こうふん)に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖

     の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出来ない。

     そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使った。官名なんぞも古

     いのを使った。現代の口語体文に所々古代の名詞が挿(はさ)まることになる

     のである。同じく時代を蔑(ないがしろ)にしたくない所から、わたくしは物

     語の年立(としだて)をした。即(すなわ)ち、永保元年に謫(たく)せられた正

     氏が、三歳のあんじゆ、当歳のつし王を残して置いたとして、全篇の出来事

     を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の

     間に経過させた。

      さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附

     かない。藤原基実が梅津大臣と云はれた外には、似寄の称のある人を知ら

     ない。基実は永万二年に二十四で薨(こう)じたのだから、時代も後になっ

     てをり、年齢もふさはしくない。そこで、わたくしは寛治六七年の頃、二

     度目に関白になってゐた藤原師実(もろざね)を出した。

      其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、伝説に平将門の裔(えい)だと

     云ってあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思ったので、只高見王

     から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があった

     と云ってあるのを見た。就中(なかんずく)太郎、二郎はあん寿、つし王を

     いたはり、三郎は二人を虐げるのである。わたくしはいたはる人物を二人

     にする必要がないので、太郎を失踪(しっそう)させた。

      こんなにして書き上げた所を見ると、稍(やや)妥当でなく感ぜられる事

     が出来た。それは山椒大夫一家に虐げられるには、十三と云ふつし王が年

     齢もふさはしからうが、国守になるのはいかがはしいと云ふ事である。し

     かしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけ

     にはいかない。それをさせる動機を求めるのは、余り困難である。そこで

     わたくしは十三歳の国守を作ることをも、藤原氏の無制限な権力に委(ゆ

     だ)ねてしまった。十三歳の元服は勿論(もちろん)早過ぎはしない。

      わたくしが山椒大夫を書いた楽屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざっ

     とこんな物である、伝説が人買の事に関してゐるので。書いてゐるうちに

     奴隷(どれい)解放問題なんぞに触れたのは、已(や)むことを得ない。

      兎(と)に角(かく)わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだ

     が、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうであ

     る。これはわたくしの正直な告白である。 
    (大正四年一月)」

             

     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )






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Long Good-bye 2019・12・01

2019-12-01 05:55:00 | Weblog







   今日の「お気に入り」は、森鷗外(1862-1922、文久2年-大正11年)の「歴史其儘(そのまま)と歴史離れ」から。



    「 粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒大夫(さんしょうだいふ)伝説の一節である。わたくしは昔手に取っ

     た儘で棄(す)てた一幕物の企(くわだて)を、今単篇小説に蘇(よみがえ)らせようと思ひ立った。

     山椒大夫のやうな伝説は、書いて行く途中で、想像が道草を食って迷子にならぬ位の程度に筋が

     立ってゐると云ふだけで、わたくしの辿(たど)って行く糸には人を縛る強さはない。わたくしは

     伝説其物をも、余り精(くわ)しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。

      昔陸奥(むつ)に磐城(いわき)判官正氏と云ふ人があった。永保元年の冬罪があって筑

     紫(つくし)安楽寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姉をあ

     んじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待って、父を尋ねに旅立った。越後(えち

     ご)の直江の浦に来て、応化の橋の下に寝てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買いが来て、だまし

     て舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕(こ)ぎ出して、

     山岡大夫は母子主従を二人の船頭に分けて売った。一人は佐渡の二郎で、母とうば竹とを買って

     佐渡へ往(ゆ)く。一人は宮崎の三郎で、あんじゆとつし王とを買って丹後の由良へ往く。佐渡へ

     渡った母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良に着いたあんじゆ、つ

     し王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姉は汐(しお)を汲(く)ませられ、弟は柴(しば)を苅(か)

     らせられる。子供等は親を慕って逃げようとして、額に烙印(らくいん)をせられる。姉が弟を逃

     がして、跡に残って責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つ

     し王は梅津院と云ふ貴人に逢(あ)ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさ

     に参籠(さんろう)したのである。

      つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡って母を連れ戻し、

     丹後に入って山椒大夫を竹の鋸(のこぎり)で挽(ひ)き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎

     の三人の子があった。兄二人はつし王をいたはったので助命せられ、末の三郎は父と共に虐(しい

     た)げたので殺される。
これがわたくしの知ってゐる伝説の筋である。 」


     ( 塩野七生著「想いの軌跡」(新潮文庫)新潮社刊 所収 )







     ・・・・伝説の物語に似たことが世界の方々で今も繰り広げられているようで、なんぎやなあ。
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