「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・06・20

2006-06-20 06:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「私は坂道で何度もころんだことがある。味噌は車が傾くと共に傾いて車をおこしても味噌はおきないから自転車は堂とばかり倒れるのである。せっかくの西瓜を二つ割ったことがある。私は妻にさあ食え、そんなに食いたいのは気持が食いたいのだ、だれが南京豆なんぞ食いたいものかと言って食わせたら、そのときは食わなかったが帰ったら海苔の罐ひと罐ぶんの南京豆を食べてけろりとしていた。西瓜は一つ半食べた。これによってみると食欲の半ばは想像力だと分った。空襲のあるまではまだそんなに飢えてないのである。ただおびえているのである。たったいま汁粉を食べたのにさらに甘納豆に手を出すのである。いま食べないと食べられなくなると思うのである。だからうんざりするまで食べさせれば悟りを開くかというと、開く人々はそんなことをしなくても開くし、開かない人はいくら食べさせてもだめなので、私はつとに悟りを開いていたからついぞひもじい思いをしたことがないといったが、なにもともとそんなに腹はへらないたちなのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・19

2006-06-19 07:55:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「私の自転車は郵便配達の払下げである。中古だが頑丈いっぽうである。荷台に私は八貫匁(三十キロ)のせる。それ以上のせることはできるのだが、私の力では前があがってしまう。八貫匁が限度で私は毎週買出しに行った。米味噌醤油南京豆まで売ってもらった。南京豆は充実してはじけるばかりである。私はこれらすべてを金で買った。品物で買うとくせになる。当時はまだ金で買えたから金で買ったのである。いくらで買ったかおぼえてない。記録もない。荷風の日記には闇値が書いてあるが、公定価格が書いてないからいくら闇なのか分らない。
 私の給料は二百円にあがっていた。ほかに百円たらずの収入があったが、これだけの買出しをしてなお貯金ができたからまだたいした闇値ではない。妻は南京豆が食べたいという。西瓜が食べたいという。私はそんなものは食べたくない。第一西瓜はごろごろしてあれをつむとほかのものがつめなくなる。縄がかけられなくなる。かけてもずるずるすべるのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・18

2006-06-18 08:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「十九年三月私は柏に所帯を持って以来食いもの屋を発見する才能を買出しに振りむけた。柏から一駅さきは我孫子(あびこ)である。我孫子の大井さんという百姓と友になった。四十そこそこの篤農家である。大井さんの人参は並の人参ではない。その欠点はあますぎることである。あまけりゃいいってものではないが、それは平和なときの話だから言わない。私は大井さんのじゃが薯を里芋を玉葱を長葱をほめた。それはほめるに値したからほめちぎった。言葉に真率な響きがあるから大井さんは無言ではあったがほとんど感動した。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・17

2006-06-17 08:35:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「どうやら本気らしいと思われたとき、私は日清日露戦争の当時を思いだした。日清日露の戦役は父祖の時代のものだと思っていたらつい昨日のことだったのである。私は小学三年のとき日露戦争二十周年記念だから往年の兵士よ集れというポスターを見た。これはいつぞや書いたが、私はその手がきの拙いポスターの前にいつまでも立ちつくしていた。
 子供の私にとって日露戦争は歴史のなかの出来ごとだった。それが二十周年だという。それなら当時二十歳の壮丁はまだ四十である。その往年の兵士たちがどこからともなくばらばらあらわれていま一堂に集ろうとしている。広瀬武夫も杉野兵曹長もそのなかにいるのだと思うと、私はとんでもない思いちがいをしていることに気がついたのである。
 以来私は誕生の時間でものを見なくなった。日清日露の戦役を父祖のようには経験しないが、父祖の次ぐらいに経験したのである。つとに私は母から『清国撃つべし露国撃つべし』という言葉を聞いて知っていた。”日清談判破裂して品川乗りだす東(あずま)艦という歌を知っていた。講和条約が成ったが不満で国民新聞が焼打ちされたことも知っていた。社員は畳を楯に身をかくし機を見て抜刀して暴徒を迎えうったとも聞いていた。
 そのころの日本人のメンタリテと昭和十六年の日本人のメンタリテをくらべると、それはまるで違うのである。『米英撃滅』と叫んでもそれには力がない。本気じゃないことは私は日露戦争を父祖の次くらいに経験したから分ったのである。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・16

2006-06-16 06:25:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「『私は人生のアルバイト』と私は自ら称したことがあるが、爾来四十なん年いまだに身にしみない。『ダメの人箴言録』はついこの間の作だが、これは弱年のときひらめいた言葉で、『とかくこの世はダメとムダ』と昭和十三年の日記に私は書いている。『ダメの人はなさず語らず』、『ダメだダメだという奴なおダメだ』と書いているくらいだから、こうして生きているのは死ぬまでのひまつぶしだと思っていた。だから事変だといわれても関心の持ちようがない。南京が陥落したら終るだろうと皆が思うから私も思っていた。いつまでも終らず日米戦になるといわれてもまさかと思っていた。日米未来戦という小説は昔からあった。押川春浪にあった、宮崎一雨(いちう)にあった。けれどもそれは子供の読物で誰も本気にするものはなかった。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・15

2006-06-15 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「戦前の出版社は電話と机だけで創業出来る商売で、実業ではない虚業だと銀行からは相手にされなかった。一二を除いて人並の給金を出すところはなかった。第一原稿料だってろくに払ってないと私は風のたよりで知っていた。それでも昭和十三年二十余人のなかから一人採用されたのに、月給は三十五円と聞いたときはびっくりした。
 編集長は別室でそれを言うとき、言いにくそうにしたから、ははあ何ぼ何でも安いのだな、この雑誌は今のぼり坂だというのにこれは恥ずかしい金額だから口ごもったのだなと思って私はむしろ同情した。
 私はこれで衣食するつもりはないし、末ながくいる気もないから笑って承知したのである。それなら何で衣食するつもりだったのかと問われても困る。私はそれまで働いたことがなかった。いやないことはなかったが、それはうわの空で今でいうアルバイトのようなものだった。かせぐということがどういうことか身にしみて分っていなかった。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・14

2006-06-14 06:20:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「どんな席へ出ても自分がいちばん若かったのに、いつのまにかいちばん年上になってしまったという嘆きを嘆かないものはない。
 私もそのころはどこへ行ってもいちばん若かった。たいていの試験に合格したのは才能のせいだと自分では思っていたが、実は若かったせいである。半年働いて半年遊べたのはようやく人材が払底しだしたからである。満州事変は半年で終ったので私は知らなかったが、世間はじりじり好景気に転じて失業者はなくなりつつあったのである。そんなことになぜ気がつかなかったかというと、その渦中にいると全体は見えないものなのである。俗に微視的と巨視的というが、微視的になってその時代の全体を見ないのが一般的なのである。ことに昭和九年は大凶作で東北では娘を売る農家が夥(おびただ)しかったという。凶作なら不況だと思いがちだが全体は好況に転じていたのである。
 それを知らないのは個人だけではない。法人も知らない。昭和二年から十六年まで一流会社大卒の初任給は六十円である。昭和八年ごろの六十円は使いでがあっただろうが、十五年からは値打ちがさがって十六年には更にさがったのになお六十円である。給料があがらないのは会社が物価と月給をスライドさせたがらないせいであるが、スライドさせなくても何とかやっていけたせいもある。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・13

2006-06-13 08:40:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「食うに困ったのは東京大阪の大都会の市民だけである。農村とそのなかにある都市の住民は困らなかった。つまり日本人の半分以上は困らなかったのに、困ったほうの情報だけあって困らなかったほうの情報はない。
 それはわざとだろうか。情報というものにはそういう性質がもともとあるのだろうか。何をかくそう私は東京に生れ育ちながら、戦中戦後一度もひもじい思いをしたことがなかったものの一人である。
 あの戦争中食うに困らなかったというと、ヤミ屋かと思われるがそんなことはない。私は不器用だった、非力だった。それでもいかさまの才に似たものが少しはあって、それで糊口をしのいだ。それだってたかが知れている。
 私の周囲のものも食うに困ってはいなかった。戦後吉田茂はこのぶんでは餓死者が何万人も出ると数字をあげて迫ってマッカーサーから食糧を放出させたが餓死者は一人も出なかった。出ないじゃないか、貴下の数字は正しくないと言ったら吉田は正しくないから貴国に負けたのだと笑ったという有名な話がある。
 満州事変によって景気がちっともよくならなかった人は、よくなったという話なら信じない。それは今も昔も同じである。今年(昭和六十年)の景気はいくらかいいといわれても、私には何の影響もない。それにもかかわらずよければよいと認めなければならない。それは学生の売行という些事によって私は察する。
 大学生の売行がいいときは、何かの企業が好況なのである。好況な企業十社か二十社がいち早く人材をとれば、他の好景気ならざる企業も同じく早く内定しなければならない。こうして学生の就職は早々にきまる。景気の動向を私は学生の動きで知る。自分の景気だけ見ていると全体が分らないことがある。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・12

2006-06-12 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「国が公定価格をきめて配給制を敷くと商品は店頭から姿を消す。店はコネある人だけに売るようになる。それはヤミ値ではあるが公定の三割増し五割増しくらいでインフレではない。いま(昭和六十年)タキシーはほぼ二年ごとに値上げしている。あれは値上げであってヤミではない。私たちは昭和十六年になっても喫茶店でコーヒーをのんでいた。正しくはコーヒーに似たものではあったが、統制しないかぎり売り手は何とかして仕入れて売ろうとするものである。
 私たちは戦後になって真のインフレを経験した。それでも第一次大戦後のドイツのインフレとくらべれば物の数ではない。レンテン・マルクという言葉が残っている。ドイツのインフレはビールを飲みほすうちにその値段があがったから、飲む前に払えといわれたほどのものだったが、わが国にはそんな例はなかった。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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2006・06・11

2006-06-11 07:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002〉のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「昭和八年の物価指数ということが、戦後しばらく言われた。昭和八年に返りたい、返ろうと昭和八年が理想とされたことをいま四十代以上の男女はおぼえているだろう。そして忘れただろう。
 昭和二十年代は昭和八年はよかったなあと官民ともに思った時代なのである。それがあとかたもなく忘れられたのは昭和三十年代に追いついて、たちまち追いこしてしまったからである。昭和十五年はうそかまことか皇紀二千六百年に当るといって、満州国の皇帝を招いて国威を発揚するつもりだろう、東京中満艦飾にして大盤振舞をした。
 物資はこのころから欠乏しだしたからこれが最後の大盤振舞だろうと分った。丸ビル内の洋服屋のショーウインドーには飾るものがなくて、スフの国民服甲号乙号がしょんぼり飾ってあったのをおぼえている。それは表向きで本当に衣食に困りだすのは昭和十六年からである。けれども開戦の日に私は新橋の天ぷら屋『天春』で友と酒を飲んで天ぷらを食べている。インフレになるぞ、なるぞと新聞は書いたがヤミになってもインフレにはならなかった。なったのは戦後である。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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