今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「自分で見て自分で考えて自分で言えと、この何十年学校は教えている。それは人間には出来ない芸当である。我々は自分で見て、考えて、言う存在ではない。他人の意見を強いられて、強いられたとはつゆ知らず嬉々として同じ言葉を口走り、口走らないものをとがめる存在である。何千年来そうだったし、何千年たってもそうである。」
(山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
「オリジナルなものは難解である。だからそれに迫る字句は容易な上に容易でなければならない。その容易な字句で難解なものを包囲して孤立させるから、彷彿としてその難解が正体をあらわすのである。世にはにせものの難解と本ものの難解があって、にせものと本ものがまじると、本ものは見えなくなる。この意味でわが国の哲学書は、一、二を除いてたいてい落第である。哲学が読者を失ったのはにせの難解のせいである。新聞は真の難解と無縁のようだが、それでも文芸欄にはサルトルの追悼文なんぞが出て、かいもく見当がつかないことがある。唐突だが大新聞は私を雇ってはどうか。私をデスクにすえたら、私は毎日分らないを連発するから、すこしは分りやすくなるだろう。」
(山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)
「自分で見て自分で考えて自分で言えと、この何十年学校は教えている。それは人間には出来ない芸当である。我々は自分で見て、考えて、言う存在ではない。他人の意見を強いられて、強いられたとはつゆ知らず嬉々として同じ言葉を口走り、口走らないものをとがめる存在である。何千年来そうだったし、何千年たってもそうである。」
(山本夏彦著「オーイどこ行くの」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)
「オリジナルなものは難解である。だからそれに迫る字句は容易な上に容易でなければならない。その容易な字句で難解なものを包囲して孤立させるから、彷彿としてその難解が正体をあらわすのである。世にはにせものの難解と本ものの難解があって、にせものと本ものがまじると、本ものは見えなくなる。この意味でわが国の哲学書は、一、二を除いてたいてい落第である。哲学が読者を失ったのはにせの難解のせいである。新聞は真の難解と無縁のようだが、それでも文芸欄にはサルトルの追悼文なんぞが出て、かいもく見当がつかないことがある。唐突だが大新聞は私を雇ってはどうか。私をデスクにすえたら、私は毎日分らないを連発するから、すこしは分りやすくなるだろう。」
(山本夏彦著「恋に似たもの」文春文庫 所収)
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