「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

お札の顔 Long Good-bye 2021・11・24

2021-11-24 05:11:00 | Weblog

   今日の「 お気に入り 」 は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」日本語版に掲載されている 、

  米100ドル札の顔 、ベンジャミン・フランクリンさん の 「 経歴 」記事 の 引用です 。

   引用 、はじめ 。

  「 ベンジャミン・フランクリン( 英語 : Benjamin Franklin ,

   グレゴリオ暦 1706年1月17日<ユリウス暦1705年1月6日> - 1790年4月17日 )は 、

   アメリカ合衆国の政治家 、外交官 、著述家 、物理学者 、気象学者 。

   印刷業で成功を収めた後 、政界に進出し アメリカ独立に多大な貢献をした 。

   また 、凧を用いた実験で 、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られて

   いる 。現在の 米100ドル紙幣に肖像が描かれている 他 、米50セント硬貨にも

   1963年まで彼の肖像が使われていた 。

   勤勉性 、探究心の強さ 、合理主義 、社会活動への参加 という18世紀における

   近代的人間像 を象徴する人物 。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は 、個人崇拝

   を敬遠するアメリカの国民性を超え 、アメリカ合衆国 建国の父 の一人 として讃え

   られる 。『 フランクリン自伝 』はアメリカの ロング・ベストセラーの一つ である



   家族と生い立ち

   ベンジャミン・フランクリンの父親 、ジョサイア・フランクリン は 1657年12月23日に
   イングランド王国のノーザンプトンシャー、エクトンで鍛冶屋および農民のトマス・
   フランクリンと妻のジェーン・ホワイトの間に生まれた 。フランクリンの母親アビア・
   フォルジャーは1667年8月15日にマサチューセッツ湾植民地ナンタケットで製粉業者
   および教師のピーター・フォルジャーと妻のメアリー・モリス・フォルジャーの間に
   生まれた 。

   1677年頃に ジョサイアはエクトンでアン・チャイルドと結婚した 。1683年の後半に
   夫妻はイングランド王国を発ち 、イギリス領北米植民地のマサチューセッツ湾植民地
   ボストン市に向かった 。

   アンはボストンで7月9日に死去し 、ジョサイアは11月25日にアビアと再婚した 。

   有名な凧揚げ実験は 、本人ではなく彼の婚外子が行っている 。


   年 譜

   1706年1月6日(ユリウス暦)、ボストンのミルク・ストリートで生まれる 。
     父親のジョサイア・フランクリンは 獣脂ろうそく製造を行っていた 。
     ジョサイアは二度の結婚で17人の子供をもうけた 。ベンジャミンはその15番目
     であった 。

   1716年 、10歳 で学校教育を終える 。

   1718年 、『 ニュー・イングランド・クーラント 』紙を印刷出版していた兄の
     ジェームズの徒弟となった 。その後 、次第に記者や編集者として頭角を現した 。
     同紙の自由主義的論調により 兄が投獄されたときは 、代わりに発行人となった
     こともある 。

   1723年1月 、総会 ( ジェネラル・コート )は ジェームズにボストン市内での印刷
     を禁止する命令を出した 。しかし 印刷屋の名義を兄からベンジャミンに替え 、
     クーラント紙を継続した 。ベンジャミンは 兄との何度かの喧嘩の末に縁を切り 、
     ボストンを出ることを決意した 。同年秋にボストンを後にし 、当初はニューヨーク
     へ向かったが 印刷工の職はなく 、すぐにフィラデルフィアに移って職を得た 。

   1724年 、知事の勧めにより ロンドンに行き 、植字工として働く 。

     1726年に帰国 、印刷業を再開する 。

   1729年 、植民地時代もっとも読まれていた『 ペンシルベニア・ガゼット 』紙を買収 。
     アメリカ初のタブロイド誌を発行 。

   1730年 、フィラデルフィアのセントジョーンズ・ロッジ ( St. John's Lodge ) にて
     フリーメイソン に入会 。

   1731年 、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館( フィラデルフィア組合図書館 )
     を設立する 。この図書館は成功を収め 、これを規範に アメリカの他の都市
     にも図書館が開設されるようになった 。

   1734年 、『 貧しいリチャードの暦 』 を発案し 、よく知られるようになった 。

   1734年 、ウォーター・ストリートのタン・タヴァンのフリーメイソンリー( フリーメイ
    ソン )の ロッジで 、グランド・マスター に選ばれた 。

   1737年 、フィラデルフィアで郵便局長に就任 。

   1743年 、アメリカ学術協会を設立した 。

   1748年 、印刷業から手を引き 、公職に専念するようになる 。ペンシルベニア植民地議員
     や郵便総局長をつとめた 。啓蒙思想の普及に身をささげた 。

   1751年 、フィラデルフィア・アカデミー( 後のペンシルベニア大学 )を創設 。

   1753年 、英領北米郵政副長官 。

      1754年に勃発したフレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍のための軍需品調達
      に奔走した 。オルバニーの会議で植民地の連合計画を提案

   1757年 、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣された 。このとき 、彼の
      科学的な業績を称え オックスフォード大学にて 名誉学位 を授与されている 。

   1761年 、ガラス製の楽器 グラス・ハーモニカ を発明

   1775年 、大陸会議から初代郵政長官に任命され 、1年3ヶ月間務める 。

   1776年 、アメリカ独立宣言の起草委員となり 、トーマス・ジェファーソン らと共に
      最初に署名した5人の政治家のうちの1人 となった 。独立戦争中は 、パリの
      パッシー( 現在のパリ16区 )に一時滞在した 。パリの社交界を中心に活動し
      上流階級の女性の人気を得た 。当時のマナーである鬘を着けず 、田舎風の毛皮
      の帽子をかぶり パリの社交界に現れた とされているが 、これはフランス人の
      もつ『 古い文明に毒されない素朴な人々 』というアメリカ人のイメージを利用
      したという逸話がある 。その後 欧州諸国との外交交渉に奔走 。独立戦争への
      フランス王国の協力・参戦と 、他の諸国の中立を成功させる 。

   1778年4月7日 パリでヴォルテールをフリーメイソンリーに入会させる。

   1783年4月3日 パリで中立国のスウェーデンとの間でアメリカ・スウェーデン友好通商条約
      を締結する 。

   1783年9月3日 同パリでイギリスとの間でアメリカ独立を承認するパリ条約の使節団一員
      として参加 。

   1790年4月17日 フィラデルフィアで 、84歳で死去 。葬儀は国葬であった


   科学的業績・発明

   フランクリンは 科学や発明に興味を示し 、独学で 様々な業績を残した
   ライデン瓶の実験を知り 、電気に興味を持つ 。1752年 、雷を伴う嵐の中で凧をあげ 、
   凧糸の末端にワイヤーで接続した ライデン瓶 により 雷雲の帯電を証明する という
   実験を行った (『 Kite experiment 』) 。また 、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性が
   あることも確認したといわれている 。この命がけの研究結果によって フランクリン
   は ロンドン王立協会の会員となった 。この逸話は 有名になったが 、検証実験や同じ
   ような実験をしようとして多くの死者が出たため 、現在は あまり紹介されない 。
   この逸話が紹介される際には 、『 フランクリンが死ななかったのは ただ運が良かっ
   ただけ 』『 絶対に真似をしてはいけない 』という解説がほぼ必ずされている 。
   それほどまでにあまりにも危険すぎる実験である 。本人は十分に安全に考慮していた
   が 、それでも現在からみれば 自殺行為に近いほどである 。

   避雷針 、フランクリンストーブ として知られる 燃焼効率の良いストーブ 、遠近
   両用眼鏡 、グラスハーモニカ などを発明した 。これらの発明に関する特許は取得
   せず 、社会に還元した
。ロッキングチェアー の考案者として 挙げられることも
   あるが 、これは フランクリン以前から存在していたもので疑わしい 。

   1758年に ジョン・ハドリーと共に 蒸発熱を使って物体を急速に冷却する実験を行い 、
   周囲の気温が 65 °F ( 18 °C ) の状態で 、温度計の球部を 7 °F( − 14℃ )に
   まで冷却することができた 。エア・コンディショナーに直接は繋がらないが 、
   冷却に関する初期の実験とされる 。

   夏時間を考案したが 、この時代には採用されなかった 。


   気象学への貢献

   フランクリンは自然の深い探求者で 、以下に示すように 気象にも深い興味を抱いて
   いた 。ただし(1)と(2)はまだアメリカがイギリスの植民地だった頃のことである


   (1)嵐が移動することの発見

     当時嵐については目の前で起こっている雨と風のことしかわからず 、嵐がどう
     いう構造や性質や規模を持っているのかなどは全く未知だった 。フランクリンは 、
     測定器や観測網がないにもかかわらず 嵐が風とともに移動していることに世界で
     初めて気づいて 、それを分析して書き残した 。フランクリンの発想が優れていた
     のは 、気象観測網がまだ十分整備されていない時代に 、月食という同時の現象を
     新聞を通して各地の嵐の様子を観察した点だった 。

     フィラデルフィアに住んでいた彼は 、1743年10月21日にアメリカ大陸東部で起こ
     る予定だった月食を楽しみにしていたが 、当日は日暮れ前から嵐で天候が崩れた
     ため 、月食を見ることはできなかった 。ところが 彼は後日ボストンの新聞で
     そこでは予定通り月食を見ることができたことを知った 。それでフィラデルフ
     ィアで嵐であった時刻に 、ボストンはまだ嵐になっていなかったことに気付い
     た 。彼は他の地方の新聞も調べて 、嵐が移動してフィラデルフィアから4時
     間経って400マイル( 約640 km )離れたボストンに到達したのではないかと
     考えた。これをもとに 彼は嵐の移動速度を時速100マイル( 時速 約 160km )
     と推測した 。これは 現在から見ると明らかに速過ぎであるが 、嵐が移動する
     ことに気づいて 、その移動速度を世界で初めて見積もったものとなった 。

     こういう嵐に関する知識は 、嵐のメカニズムを解明しようとする19世紀半ば
     のアメリカ暴風雨論争に引き継がれていった 。

   (2)熱対流と竜巻に関する考察

     彼は竜巻を観察し 、それが凪と酷暑の後に出現する点に注目した。そして
     1753年に竜巻を次のように解釈した 。" 熱は地上付近の大気を希薄する 。
     それが上昇することによって地表気圧の低下を生み出す 。気圧が低下すると
     涼しい大気が四方八方から内部へ流れ込む 。大気は 低圧部の中心付近に着
     くと上昇しなければならないが 、すぐには運動方向を変えることができない 。
     その代わりに ちょうど液体が樽の底の穴に向かって渦を巻く際に右に曲がる
     ように 、大気は右に曲がって回転しながら上昇する " 。このフランクリン
     の解釈は 、ほぼ1世紀後に連続した観測データによって裏付けられ 、嵐の
     特徴とその起源の解明のきっかけになった 。

   (3)火山噴火と季節変動への洞察

     彼は 気候変動にも強い関心があった 。1783年にアイスランドのラキ火山と
     その近郊のグリムスヴォトン火山が噴火して 、大量の火山灰が大気中に放
     出された 。このときのヨーロッパの状況は グレート・ドライ・フォッグ
     とも呼ばれている 。フランクリンは この年の夏の日射が異常に弱く 、
     次の冬は厳冬となったことに気付いた 。彼はこの原因を『 大気中の塵に
     よる煙霧が日射を散乱して地上に届く熱が減ったため 』ではないかと考え
     た 。彼は " これまでの歴史上の厳冬もこのような煙霧の後に起こっている
     かどうかを調査して 、もしそうであればそういう煙霧が起こった際には引
     き続いて起こる厳冬への対策を事前に講じることができる "と指摘した 。

     現在では 大規模な火山噴火で火山ガスが成層圏に入ると 、エアロゾル
     ( 大気中の塵 )になって長期間にわたって日射を反射や散乱し 、数年間
     寒冷になることが知られている 。フランクリンは気候変動を予測する先駆
     者でもあった 。 」

   引用 、ここまで 。

   嗚呼 、ああ 、嗚呼 、大忙し の 84年 ・・・( ^ω^)・・・ 。


   ( 筆者註 : 文中にある 「ライデン瓶 」についての「 ウィキペディア 」の解説 。

        「 ライデン瓶( ライデンびん )は 、静電気を蓄える装置 。

         歴 史
         1746年にオランダの ピーテル・ファン・ミュッセンブルーク( ピーター・ヴァン・
         マッシェンブレーケ )がガラス瓶と水を使い電気を貯める仕組みを発見し 、不要な部分
         が取られ発明されたとされるが 、このような器具で静電気を溜めることができることは 、
         その3ヶ月前に遠ポメラニア出身の牧師エヴァルト・ゲオルク・フォン・クライスト
        ( Ewald Georg von Kleist )が発見している 。

         構 造
         ガラス瓶の内側と外側を金属( 鉛など )でコーティングしたもので 、内側のコーティ
         ングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される 。通常 、
         電極とプレートで構成され 、これらが二つの電気伝導体となる 。これらが誘電体
         ( =絶縁体 。例えばガラス )によって切り離され 、そこに電圧をかけると電荷が貯ま
         ることになる 。原理的にはコンデンサと同じである 。
         当初は 、ガラス瓶の中に電気が溜まると考えられていたが 、実際には 、上に示したよ
         うに絶縁された2つの導体の表面に溜まっているのであって 、その間の空間には電気
         エネルギーが溜まっていることになる 。 ライデン瓶は一度に数千ボルトの電圧を発生
         することができるが電流が小さいため強く感じることは無い 。

         仕組み
         このような仕組みで 、静電気を発生している 。
         瓶の内側と外側に金属の膜( 錫箔 )を貼ったガラス瓶に鎖の付いた真鍮の金属球を
         さして内側の金属の膜と接触させる 。
         差した金属球の先に 、摩擦起電機で帯電させた導体を触れさせる 。
         ガラスを挟んだ金属の膜同士が帯電する 。
         金属球の先から溜まった静電気を一気に放電させる 。

         名前の由来
         オランダのライデン大学( オランダ語:Universiteit Leiden )で発明されたため 、
         「 ライデン瓶 」の名がある 。

         応用装置

         平賀源内 が復元したことで知られるエレキテルに 、摩擦で生じた静電気を貯める機構と
         して鉄くずを中に満たした ライデン瓶 が用いられている 。
         数メートルもある摩擦起電機と25本もの ライデン瓶 を使った マールムの起電機 とい
         う巨大な装置にも使われた 。

         実 験
         これらの実験に使われた 。
         主な電気の実験
         ベンジャミン・フランクリン の凧揚げの実験

         静電容量

         静電容量は 、フラスコに錫箔と真鍮の削り屑を入れたもので250 pF 、プラスチック
         コップ2個にアルミ箔を巻きつけて作った ライデン瓶 の電気容量は 100 pF 以下 、
         帯電電圧は 約 10 kV 程度と見積もられる 。現在の電子回路に使われているコンデンサ
         と比較すると 、それほど大きなものではない 。しかし 、高い電圧を加えることによっ
         て多量の電荷を蓄えることが可能で 、使い方によっては感電を生じさせるほどの威力を
         持っている 。

         簡易版ライデン瓶( ライデンコップ )
         コップを使用した簡易版ライデン瓶を作ることができる 。ガラス瓶をコップ 、錫箔を
         アルミホイル 、摩擦起電機 を塩ビパイプとティッシュで 代用している 。」 )


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ベンジャミン・フランクリン... | トップ | 百と三つまで生きたけりゃ ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事