今日の「お気に入り」は、久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「家のあちこちにあった薄明り」より。
「私がニ・ニ六を想って突然涙がこぼれるのは、その日の未明、帝都に牡丹雪が降っていたと聞くからである。その中を、兵たちが粛々と行ったというからである。それは薄明りの世界だったはずである。迷いもあったろう。怖れもあったろう。何も考えまいと、ただ唇を噛んだ者もあったろう。指導者の将校たちにしたところで、自分の命の行方を知らぬ者があったとは思えない。彼らは、舞い散る雪片の向うにほめく薄明りだけを見つめて、歩いていったのである。私は、あの朝、雪が降っていなかったら、ニ・ニ六は汚辱の事件になり果てていたのではないかと思う。薄明りの中――彼らも雪を見ていた。天皇も、雪を見ていた。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
「私がニ・ニ六を想って突然涙がこぼれるのは、その日の未明、帝都に牡丹雪が降っていたと聞くからである。その中を、兵たちが粛々と行ったというからである。それは薄明りの世界だったはずである。迷いもあったろう。怖れもあったろう。何も考えまいと、ただ唇を噛んだ者もあったろう。指導者の将校たちにしたところで、自分の命の行方を知らぬ者があったとは思えない。彼らは、舞い散る雪片の向うにほめく薄明りだけを見つめて、歩いていったのである。私は、あの朝、雪が降っていなかったら、ニ・ニ六は汚辱の事件になり果てていたのではないかと思う。薄明りの中――彼らも雪を見ていた。天皇も、雪を見ていた。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)