私は私の救い主は死から復活されたことを信じます。義の人を殺して彼は死んだと信じているユダヤ人たちは浅はかでした。どうしてヒマラヤの山を叩いて山が崩れたと信じないのでしょうか。私が愛する者は死んではいないのです。自然というものは、自ら造ったものを捨てることはありません。神はご自身の造られたものを軽んじることはありません。彼女の肉体は朽ちることでしょう。彼女の死体を包んでいた麻の布は土に還るでしょう。しかしながら、彼女の心、彼女の愛、彼女の勇気、彼女の節操――ああもしこれらも肉体とともに消え去るのであれば、全てのものは私たちに誤りを教え、聖人は世の中を欺いていることになります。私はどのようにして、どのような身体をもって、どのような場所で再び彼女と会えるかはわかりません。但し、私は次のように考えます。
“Love does dream , Faith does trust
Somehow , somewhere meet we must.” ―Whittier.
《注1:愛の夢想を私は信じます どのようにかして どこかで 私たちは相見(あいまみえ)ることができますように》
《注2:John Greenleaf Whittier(1807-92)。アメリカの詩人。クエーカー教徒として知られる。原文は英語のみなので日本語訳(注1)は拙訳です。ご教示ください。 》
彼女は死んではいないので、私はいつのときか彼女と再び会うことができると言えますが、しかしながら彼女の死は、わたしにとっては最大の不幸であったことに変わりはありませんでした。神が本当の神であるのならば、何ゆえ私の祈りは聴かれなかったのでしょうか。神は自然の法則に勝つことはできなかったのでしょうか。あるいは私の祈りは無益であったのでしょうか。あるいは私の祈りが熱心ではなかったからなのでしょうか。あるいは私の罪の深さ故に聴かれなかったのでしょうか。あるいは私を罰するためにこの不幸を私に降らせたのでしょうか。これらを私は聞きたいと願っていました。
細い声はまた私に言いました。
《自然の法則とは神の意思である。雷は神の声であり嵐は神の口笛だ。そうなのだ、死もまた神の天使であり、神が神の愛する者を膝の下に呼ぼうとして遣わした救いの天使なのだ》と。
ああ、人は神の意思と自然の法則とを区別することができるのでしょうか。神がもし私の愛する者を生かそうとされるとしても、自然の法則によって生かすだけなのではありませんか。私のように神を信じている者はこれによって神に感謝するでしょう。しかし神を信じない者は、これを薬の効能によるものとし、あるいは衛生の効果によるものとして、治癒の源としての神を讃えることはないでしょう。神の何であるかを知り、自然の法則の何であるかを知れば、「神は自然の力に負けたのだ」といった言葉は決して出るものではありません。
そうであるならば祈る必要などどこにあるのでしょうか。神は祈りに応えてくれず雨を降らせなくなります。また聖者の祈りに反して様々な苦難を与えます。そうであるならば祈らないで神の命令に従うほうがいいのです。祈りの必要はどこにあるのでしょうか。
これらは難しい問題です。私は私の愛する者を喪ってからというものの、数か月間は祈ることをやめました。祈らずには食事をせず、祈らずには寝ることはしないと堅く誓っていた私も、それからというもの神のない人間となったのでした。恨みとともに食膳に向かい、涙とともに寝床につき、祈らない人間となるに至ったのでした。