鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[18]看護師Tさん 

2021-01-02 21:55:37 | 闘病記

彼女の闘病は4か月で終わってしまった。その間死を見つめ続けた若菜のことを思うと、今でも胸が痛んで苦しい。ボクは彼女に一体何をしてあげられたのかと思うと、言葉もない。一生懸命に看病して尽くしたと言い切ることは、今でもボクの神経を逆撫でする。世界と時間とを共有してきた愛する者の死とはこのようなものなのだろう。痛覚は残り続けている。

病室で病気と共に闘っていた日々、病院の看護師の存在は大きなものだった。医師とは異なり看護師は患者の日々の生活の部分、つまり食事や排泄、運動、清潔、安楽、安全といった彼女の援助活動を担ってくれていた。

看護師たちの活動は、癌の末期にあって衰弱し不快な症状に悩まされている患者にとって欠かせないものである。彼女たちの活動は24時間の体制で継続され、深夜も常に多くの患者に目が向けられている。こうした仕事の緊張感も並大抵のものではない。にもかかわらず看護師の処遇は決して恵まれたものではない。医学のサブシステムとして位置づけられてきた歴史が長すぎたことと、看護師たちの実力が伴わなかったことが原因だろう。最近では患者の入院期間が一般的に極端に短くなり、看護業務の手順もマニュアル化してきて、看護師のベッドサイドの業務の質的変化も見られる。癌の末期の患者がすべてホスピスや緩和ケア病棟でのケアを受けられるわけではないとしたら、一般病床における癌患者をめぐる看護師の業務そのものが根本的に見直されなければならないだろう。

医師の当たり外れがあるように、看護師の当たり外れも当然ある。ここではTさんのことについて触れよう。若菜が個室に入ってからしばらく担当になった看護師が彼女だった。Tさんはいつも若菜と共通するような話題を持ち出しては、処置をしながら話を交わしていた。Tさんは福島県の出身であることがわかり、山形市生まれの彼女とは近い話題もあったのだろう、東北便で話し合っては二人で笑いこけている場面がしばしばあった。癌の末期の患者の大笑い、それは何と感動的な事柄だったろう。

「ほれ米沢の近くのスギー場があっべさー、何ど言ったがなー忘れだども、あのスギー場にはおらー何度も行っだごどあるのよー。」    「天元台スギー場でねぇべだかー?」  「んだ、んだ、そごだ、あるどぎそごでー足さ折ってすまってかっちゃー(母ちゃん)にひどぐ怒られたもんだ。すんべぇ(心配)かげて悪かったと今でも思っでるよー。ところであんだはスキーやるのけ?」   「ちがぐにうんと山こさあるだども、オラやんねぇ、しぇんしぇー(先生)にずいぶんと教わっだどもハァー、上手くなんねぇのよー。」  「むつこい(かわいそう)ねぇー。」

こんな会話がどれほどボクの心を和ませてくれたことだろう。Tさんはそんなユーモアの持ち主でもあった。身体の大きなTさんは、身体に似合わず器用そうで処置もてきぱきしていて経験の深さを感じさせるものだった。彼女も年頃も近いTさんには信頼を寄せているのがボクにもよく伝わってきた。そして一通りの処置を終えると、いつもTさんは彼女の側に座って彼女と目の高さを揃えて話の続きをするか、彼女の疲労が大きいときには黙ったまま手を握ったままじっとしていた時もあった。忙しく走り回る看護師の姿を目の当たりにしているボクには初めは驚きだったが、それはTさんの人間としての最大限の態度だったのだろう。

嘔吐の苦しみのあとの疲労でぐったりして目を閉じている彼女の手を握ったまま、Tさんが涙を浮かべている姿をボクは何度か見た。そんなときTさんは一体何を感じていたのだろうか。懸命に患者を援助してなお、専門家として何もしてあげることができない無力さと痛みをTさんも抱えていたに違いない。その姿はボクにとっての慰めともなった。

看護師の当たり外れと言い切ってしまうのは簡単だが、看護師の一人ひとりの仕事の熟練と人間的な成熟がいかに大切なものか、Tさんの仕事ぶりはそのことをボクに教えてくれた。

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