
鑑三翁はこのエリパズの言葉と対応を次のように記しています。《罪は災禍の源たることあれど、災禍は悉く罪の結果ではない。もししかりとせばキリストは如何、パウロは如何、その他多難の一生を送りし多くの優秀なるキリスト者は如何。‥しかしながら彼らの受けた苦難災禍がその罪の結果でないことは明々白々の事実ではないか。》(p.45)。
老友エリパズはヨブを慰問しに来たのに、ヨブの吐く言葉を神を恐れるどころか神への反意、不遜の言葉として聞き取ってしまったのですね。聖書を読んでいる私は神とサタンとのやり取りを演劇の舞台のやりとりのように見て知っているので、正論を並べた教条主義的なエリパズの言葉にヨブは”アタマにきているだろうな”と感じています、鑑三翁の指摘するように。そして案の定ヨブはエリパズに反論します。以下は〈第6・7章〉の解釈文です。
【 どうか私の憤りが不当で不遜なものであるかどうか正しく判定して欲しい。同時に私に降りかかった災禍の数々がこれでよかったのかどうか計量して欲しい。そうすれば私の憤りが海の砂のように重かった故であること、私の言葉の激しさもその為であったことがわかると思います。全能者の神の毒矢が私に刺さったので私の霊魂がその毒を飲み、神の恐ろしい軍勢が私を襲い始めているのです。エリパズ師よ、ロバや牛は餌が目の前に豊富にあり腹いっぱいになっているのにもっとくれと文句を言いますか。味気のない食物は塩がなくては食えたものではありませんよ。私が大いに食欲を失っているのに我慢しろとかまずくても食べろというのですか。私にはそんな事に耐える力はもうありません。
どうか神が私の求めるものを与えて下さるように、また望むものを賜りますように祈ります。どうか神が私を滅ぼすことを認めて神の御手で私に死を賜りますように祈ります。そうすれば私は慰めを得られて激しい苦しみの中にあっても喜びを得られるのです‥私は神の聖なる言葉を否定したことは一度もないからです。なのに私にどのような力があるから死を待たなければならないのですか。私にどのような死に方があるから耐え忍ばなければならないのですか‥私は石でもなく青銅でもないのに。私の力だけでは助かる見込みはなく救われる望みは去ったのです。
親愛なる友人というものは絶望している友に対してこそ忠実であるべきで、それができない者は全能の神を恐れてはいないのですよ。私のきょうだいや友人たちも涸れ川の出水のように私を欺くのです‥川の流れは氷に覆われると見えなくなるけれども、暑くなれば氷は消えることを期待して遠くからやってきたアラビアの砂漠のらくだの民や隊商や旅人たちは、水がどこにも見当たらずうろたえて道に迷い命を落します。今やあなた方は彼らと同じで私の災難を見て驚き恐れている迷い人に過ぎないじゃないですか。私はあなた方に財産をよこせとか賄賂をよこせとか言ったことがありますか。敵の手から私を救ってくれとか抑圧者から私を助け出してくれと頼んだことがありますか。私はあなた方を頼りにしようとはこれっぽっちも考えていません。
エリパズ師よ、神の真理とは何なのかを私に教えて欲しい、そして私の誤っている所を私に悟らせてください。さすれば私は黙ります。正しい言葉には力があるものなのに、あなた方の戒めの言葉は何を戒めるのですか。あなた方は言葉をもって戒めとすることができると思っているのですか。でも絶望している人間の言葉なぞ風のようなものであてになりません。あなた方は孤児をも友人をも裏切るのでしょう。私をもう一度よく見てください、私はあなた方に偽りを言いません。あなた方は間違っていますよ‥考え直してください。私は今でも私が正しいと考えています。私は不義の言葉を話していますか。私の口は不幸や苦しみを充分に理解した上で話をしているのです。
この世では人間は過酷な兵役や労働があり雇われ人のような存在です。奴隷たちが仕事が早く終るように願い雇われ人が日雇い賃金を期待するように、無益な日々を過ごし苦しい夜ばかりが続くのです。私は寝るときに「いつ起きるのだろうか」と思いつつ寝るのですが、実は苦しみのために一晩中転げまわっているのです。今私の身体はうじと土くれにまみれ皮膚は瘡蓋ができて固まってもすぐ崩れます。私の一日は機織りの杼(※ひ・シャトルのこと/当時自動織機があったとは驚き!)のように早く過ぎ去り望みをもつまもなく消え去ります。どうか忘れないで欲しい、私の命はほんの一息にすぎないことを。私の目は再び幸福な日々を見ることはないことを。あなた方も私を二度と見ることはありませんよ。陰府(よみ)に下った者は雲のようなものですぐに消えてこの世に上がることはできないのだから。私は二度と家に戻らないので空き家には誰もおりません。
それゆえに私はあえて口を閉ざすことはせず、私の霊がもだえるままに語り、私の魂が苦しさのあまり嘆くままに語るのです。神は私が海か海の怪獣のように荒々しく悪しき存在だから見張り番を置かれるのですか。私は眠っている時くらいは穏やかで嘆きを忘れさせて欲しいと願っているのに、神は夢で私を驚かせて眠らせず幻で私を恐怖に陥れるのです。だから私は息が止まることを願い死ぬことを選びたいほどです。私は命を厭い長く生きることを望んでいません。どうか私に構わないでください。私の命は儚いのですから。
かのダビデ王も神に尋ねているではありませんか‥人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか、と(※詩篇8:4)。私のような者にも神は毎日私に尋ね、絶え間なく試みられるのですか。いつまで神は私のような者から目を離さずひと時も私を見捨てておかれないのですか。私を監視される神に対して私が罪を犯したところで神に対して何ほどの事ができるでしょうか。神は何故私を的のように監視し続けてわざわざ神の重荷とされるのでしょうか。私には全くわからないのです。何故私の咎を許さず私の不義を除こうとされないのでしょうか。私は今は土くれの中に横たわりノックアウトされています。私を尋ねても私はもうそこには居りません。】
ヨブは息も絶え絶えにこのように神に異議申し立てをします。そして同時に老友エリパズにも反駁したのです。ヨブは”憤怒”の只中にあり”不条理”に覚醒したまま神の前に屹立しています。









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