山形の森 保守醒論

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靖国神社創建150年(2019年)を機に合祀基準(名誉回復)を見直して、「真の国防の御社」への提言!

2012-03-07 19:17:49 | Weblog

先般、靖国神社に参り、本殿のほか元宮・鎮霊社を参詣してきた。
肌寒い小雨混じりの悪天候に参拝者は少なく、その静けさゆえに境内全体に広がる荘厳さが感じられる気がした。
参詣者の全員が本殿参りをするものだろうが、すぐ近く左手側に鎮座する元宮・鎮霊社までを知り参拝する人は消費税率以下だろうなと思う。
ブロブ子にとって、この靖国には大伯父(満洲)と伯父ふたり(沖縄・山西省)の三人が祀られており、二礼二拍手一礼をすると心が洗われたような感じがした。
表題で触れた「創建150年(2019年)を機に合祀基準を見直して」は、天皇・首相参拝などに反対する左翼活動家などが運動するA級戦犯の合祀否定論などではない。
多少の関心を持って靖国神社創建の歴史と明治維新前後における、いわゆる幕末内戦過程において、(1868.7)京都霊山護国神社、(1869.8)東京招魂社、(1879.6)靖国神社への社名改称と合祀基準の変遷から、一貫性が崩れているのではないかと考えるものである。
それが左翼陣営の「靖国は所詮、薩長の勝手神社」との異論反論の元ともなっている。
旅館の建増しのような(本館・別館・新館・旧館などと)時々の(合祀基準の)解釈変更で凌いできた感がする。
靖国神社への改称移行からは、(1853・嘉永6)ペリー来航まで遡る合祀基準として、長州藩の吉田松陰・久坂玄瑞・(久留米藩の)真木和泉、土佐藩の武市半平太・坂本龍馬など維新の志士が合祀されるようになる。
語られるに勝者となった(西軍)戦没者が祀られ、敗者東軍は賊軍とみなされた。
しかし、この都合勝手な合祀解釈は、1913年山本権兵衛内閣で靖国神社を所管する内務相に就いた原敬(盛岡藩出)が、翌年に(薩摩藩出の)山本首相宛てに上奏書を提出することで見直されることになる。
「(1862)文久2年4月の寺田屋事件、(1864)元治元年7月の禁門の変」で亡くなった(孝明天皇方)61名の靖国合祀を上奏した。
つまり孝明天皇の御所を守りながら没した会津藩士等は合祀捨置きされ、天皇を襲撃した(過激派)長州藩士が祀られているのは官軍(天皇方)が合祀基準とすればおかしいとの異論でもある。
さらにはこの「禁門の変」のクーデター失敗で自刃したのが、すでに靖国合祀されていた久坂玄瑞(吉田松陰の義弟)・真木和泉らである。
1864.8、孝明天皇は長州追討の勅命を出している。 この時点では長州藩こそ反天皇の賊軍であった。
天皇方(官軍)が祀られ、反天皇方は祀らないとの合祀基準理屈は当らないものとなった。
原内務相の正論は承認され会津藩士も、維新後約半世紀を経た1915.4(第39回招魂式)合祀されることになる。
攘夷攘夷と叫んだ倒幕過激派が、過去の言い分など開国となれば知らんぷりの結果オーライ。
漸進開国を提言しながら藩内抗争に倒れた長州藩の長井雅樂、土佐藩の吉田東洋、などの先見開明派こそ(名誉回復のうえ)維新歴史上に語られるべき人物で、現在の学術的視点からしても、国の行く末を先見した明治維新史上で靖国神社に祭られる正統な人物ではないかと考えられる。
水戸学の指導者で徳川斉昭(1860.9没)の助言者であった会沢正志斉も、時務策(1862)で開国論転向を説いた。
(1855)横井小南も開国せざる状況を見通し「(1860)国是三論」を執筆、松代藩士・佐久間象山も、1864.3将軍家茂・慶喜等に公武合体・開国遷都を説く間に尊壌派に暗殺される。
ともあれ、明治維新前後はその方向性を巡り(藩内対立を含む)国内論争多様な時代であった。
ともに欧米列国が迫る中で近代日本の行く末を論じ、道筋を競い合った憂国の内戦でもあった。
そのことを受け止めながら、これから迫りくる国際社会の変動に対峙しなければならない重要な時、全日本(オールジャパン)体制を築き、新未来日本を確実に伝承していくためにも、靖国神社創建150年(2019年)を機にこれまでの合祀基準を整理見直し、「真の国防の御社」への提言!を述べるものである。
西郷隆盛などを含めた、賊軍扱いされた内戦の維新勇者の名誉回復をはかり靖国合祀を果たすことで、全日本人の国防意識の覚醒と国民一体の国防実現を念願したい。

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