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「江戸湾物語(えどべいすとおりい)―巨大都市東京のルーツ」 紹介

2011-05-22 03:14:51 | 歴史

江戸湾物語

(EDO BAY STORY From 20,000 Years Ago)

― 巨大都市東京のルーツ」

を図書館から借りて読みました。

宇宙論もそうですが、古代史論もロマンを感じます。

*

● 著者・三浦昇・・・1931年生まれ、中日新聞東京本社(現・東京新聞)編集委員。

● 単行本: PHP研究所1988年12月・刊行。

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興味が湧(わ)いた箇所を抜粋し、ご紹介したい。

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● 約1万5千年前

氷河期(ヴュルム氷期)が終り、関東の海面は60~70mも上昇した(縄文の海進と言う)。

大宮台地と武蔵野台地の間を流れ、延々と三浦半島の東側に沿って久里浜河口から海へと注いでいた、古東京川が次第に後退して行った。

● 約1万年前

追浜の「夏島」(※1)が河口となり、住み付いた「夏島人」は、新石器時代の土器を持っていた。縄文時代の幕開けである。

(※1)

現在の神奈川県横須賀市夏島町には、縄文時代初期に属する最古級の「夏島貝塚」が遺(のこ)っており、国の史跡と重要文化財に指定されている。

定住を可能にさせたのは、獣・鳥の肉に代わって漁撈(ぎょろう)、特に、古東京川の河口付近では各種の貝を採集する生活に勤(いそ)しんだ。

● 約6~8千年前

海面が上昇し続けて低地に侵入、西は相模の溝ノ口まで、北は大宮台地の南端の幸手まで、東は房総の小櫃堰(おびつぜき)・養老まで入り込んで、

奥東京湾と香取湾(古鬼怒湾)を形成した。(※2)

(p18~24)

(※2)

巻末の地図は、http://homepage3.nifty.com/sayamanaturalhistory/geology/kokinuwannojidai/kokinuwan/framepage-kokinuwan.html

を拝借させて頂きました。

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● 約3~5千年前

1千年間も続いた海進(海面上昇)のピークが過ぎ、奥東京湾・香取湾の浅い海が後退し始め、その跡には、かつて波が削った岩や川が運んだ砂泥が堆積して沖積平野を作った。

縄文晩期以降は、温度が下がり(現代より少し寒く)、沖積の低地は農業には不向きで、かつての海の塩分を含んでいたので、

魚介を常食とする縄文人は、海にしがみ付き海岸線と共に移住していた。

● 約2千年前( = 紀元1~2世紀)

奥東京湾・香取湾が消滅し、縄文時代の幕を閉じる。

(p30~31)

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● 3~5世紀

僅(わず)かに浅草~豊島に続く台地だけが、奥東京湾の砂州として残され、東京湾(後に江戸湾⇒東京湾)が唯一の内湾となった。

外湾(浦賀水道)から縊(くび)れた内湾に海流が速く走り、海に近い武蔵の東の海辺(現在の東京・神奈川)は、水草(悪草)が生い茂る広大な低湿地帯となった。

関東に西から弥生人が侵入して来たのは紀元前後とされ、米の魅力と軍事力を持つクニ(国家)というものに抗し切れず、縄文人も変貌して行く。

低地の方に弥生人が住み着いたのは、3~4世紀であり、関東での弥生集落(部落国家)は、先ず、この頃、形成された利根川・荒川水系の山地で営まれる。

歴史時代(有史)の東国は、中心地から遥かに遠く、天ざかる鄙(ひな、辺境)であり、東国住民は、蝦夷(えぞ、毛人)と呼ばれ、倭国の征服対象なのだ。

「日本書紀」には、崇神天皇が皇族を派遣したと有るので、恐らく、5世紀の内に関東は征服され、以後、東夷(あずまえびす)の住む蛮地とされた。

「走水の海」が、相模・武蔵を征服した大和国家が、下総・上総・常陸へと進出する海の回廊(かいろう)となる。

(p33~39)

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● 8~9世紀

「万葉集」にも見られるように、大和国家には「防人」(さきもり)の制度があり、元は諸国から徴収されていたが、8世紀以降は殆ど東国からだけとなった。

関東の陸地化が進み、下総台地の井上(いかみ)~豊島ルートの、古代東海道の建設が始められた。

「伊勢物語」の在原業平は浅草の港に来ており、

武蔵と下総の中に、まるで海のような角田河(現・隅田川)という大河が流れる、と記述されている。

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ここで、 「古代の武蔵---稲荷山古墳の時代とその後」

[森田悌(てい、1941年埼玉県生まれ、金沢大学教授⇒群馬大学教授)・著、吉川弘文館1988年4月・刊行]

の p68~74 を引用し挿入させて頂く。

8世紀の東国には著しい渡来~帰化人の入植があり、武蔵の国に、

高麗人(こうらいじん、約1,800人)⇒高麗郡(こまぐん、現在の日高市・飯能市の一帯)や、

新羅僧(しらぎそう)等⇒新羅郡(現在の新座市・朝霞市・和光市・等の一帯)へと移住させて、律令制下の大規模な開発が始まった。

 

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● 11世紀前半

「更級日記」の菅原孝標の女(たかすえのむすめ)が旅し、

武蔵の湾岸は、さながら蛮地であり、浜辺には白砂がなく、まるで泥土。蘆荻(ろてき)だけが高く生い茂っていた、とある。

(p41~45)

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以下、江戸時代まで展開されている。(全p233)

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