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【出発点に戻って】死は終わりではない⑥

2012-04-11 00:05:18 | 高森光季>死は終わりではない

 「人間の個性は死後も存続する」というと、「じゃあ、どうなるの?」という問いが当然出てくるわけです。
 実はこれ、「はっきりとしたことは不明」としか言いようがないのです。おおまかなこと、標準的と思われることはありますが、「こういう仕組みがあって、こういう場合には必ずこうなる」というようなことは確定できない。
 というのも、人間の魂というのは、千差万別だからです。成長度合い、嗜好、課題(解決・学習すべき事柄とその多い少ない)など、みんな違うからです。だから、死後のあり方も千差万別です。
 一般的には、

 ・「地上に近い世界」に行き、直前の生の回顧反省をしたり、叶わなかった欲望を夢の中のような状態で満たしたり、つながりのある魂たちと会ったりして、一定の期間を過ごす。(これは実に多様。)

 ・未解決の課題やさらなる成長のために学ぶべきことがわかれば、それを学ぶために再生を選択する。

 ・何度も再生をして十分に成長した魂は、地上に戻ることなく、より高い世界へ行く。

 とされています。ただ、地上に非常に未練を残した魂や、重大な悪行をなした魂、捨て鉢で自殺した魂、悪に染まり切ってしまった魂などは、また別のプロセスがあるとされています。これはかなりつらい、望ましくない境域のようですが、宗教で言われているような「永遠の拷問を味わう地獄」ではありません。また、稀には、十分な成長を終え、人々を導くために生まれ、死後「地上に近い世界」を通り抜けて高い世界へ戻る魂もいるようです。
 しかし、その細部はわからない。この人は必ずこういう道に行くだろうという判断もできない。そういうことは「人間にはわからないし知るべきではないこと」とされています。

 「そんな曖昧なものなど信じるわけにはいかない」と言われるでしょうが、仕方ありません。むしろ、宗教のようにこうだと断言することは、人間の分際では不遜であるし、余計な固定観念を生むだけで害になると言われています。そうだと思います。

 スピリチュアリズムというものが、思想としてあまり人気がないのは、この「曖昧さ」にあるのではないかと思ったりもします。
 宗教というのは、ある意味単純です。「××をすれば必ず○○する」と言い切る。この単純さに安心して、信じる人が多い。
 でも、そうは行かないのです。魂にはそれぞれの成長段階や課題というものがありますから、万人に有効な「なすべきこと」というのはほとんどあり得ない。シルバー・バーチさんも「万人にあてはまる教えというのはないのです」と言っています。
 また、魂が成長したのか、課題を果たせたのかは、人間には理解できないものなので、誰それは何をしたから必ず高い霊界へ行くというような判断はできない。何かの宗教を信じて「××した」からといって、必ず「○○する」わけではないのです。
 頼りにならないと感じられるかもしれませんが、それが現実なのだからしょうがないわけです。

 もちろんスピリチュアリズムの霊信に、「大まかな勧め」はあります。「他人に奉仕しなさい」「道徳的な生き方をしなさい」など(本ブログ「スピリチュアリズムの『勧戒』」参照)。
 でも、それを絶対化はしない。それを破ったらこうなるぞと脅しはしない。そしてやったから必ずこうなるぞと請け合いもしない。
 やっぱり頼りないけれども仕方がない。何せちょっとやそっとのことでは、人間は「輪廻を脱して高級霊になる」などということはできないからでしょう。

 思想としてつまらなくても仕方がありません。それが現実なのだから。
 華麗な概念を並べて、神秘的な論理を繰り広げ、かっちりした行動プログラムを用意するといった神秘主義思想に、多くの人(特に知的な人)は惹き付けられるかもしれませんが、真実は案外単純で素朴なものなのかもしれません。
 ただ、われわれは「自らが霊魂として永遠のものだと知り、より高い境域への成長を願って生きる」ことができるし、それこそが一番の真実、一番の救いだと喜ぶことができる。それだけで大変な幸福ではないでしょうか。


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