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【出発点に戻って】死は終わりではない④

2012-04-09 00:05:12 | 高森光季>死は終わりではない

 私は唯物論的な世界観を捨ててから結構時間が経っていますので、その世界観がどんなようなものだったか、よくわからなくなっています。で、前にも、唯物論に対する疑問を書いたことがあります。(「純粋な唯物論者は多いのか」)
 そこにも書いたのですが、唯物論者でも、まったく「価値」を設定していないわけではないだろう、と。例えば科学者たちは、次のように思っていないでしょうか。
 ――人間は、物質が偶然生み出した生命体の中で、もっとも知性が発達した(ただし偶然に発達した)種である。そして、その知性は、いまや自分たちを生み出した宇宙そのものの真実を探ろうとしている。これは驚くべきことである。宇宙は、人間の知性というものを通して、自らを再発見しようとしているのだ。だから、宇宙の秘密を探究している科学者こそが、この宇宙が生み出した最高の精華である。科学者万歳! 自分たち万歳!
 これを裏返すと、宇宙の真理を探究しない人間、科学の進歩に貢献しない人間は、別に他の生物と変わりのない存在であって、生きている意味はない、ということになりはしないか……。

 まあ、それが本当かどうかはともかくとして、果たして唯物論から、「価値」というものが出てくるのかどうか、よくわかりません。物質的な真理や数理論理的な真理というものはあるのでしょうが、一般的に言われる「真・善・美」は果たしてあるのか。道徳や倫理は成立するのか。
 「生存」を目的とした功利的な命題は成立するのかもしれません。悪を行なってはいけないのは、それは一時的な利益をもたらしても、社会(種)全体を非効率状態に向かわせ、結局的に生存に不利になるからだ、と。みんなが泥棒をし出したら、社会は混乱状態になり、結局その社会は非効率的で立ちゆかないものになる。だからそういうことを防ぐために、遺伝子だかの中に「泥棒は禁止」という情報が含まれている、と。
 本当でしょうかね。
 でも、唯物論を突き進めれば、すべては物質的現象に過ぎないのだから、別に生存にも種の存続にも意味や価値はない。どんな非道を行なおうが、それによって種全体が滅びようが、それもまた物質の戯れに過ぎない。そういうニヒリズムに陥らないでしょうか。

 物質は確かに重要な要素です。反唯物論者といっても、別に物質があることや、物質の法則があることは否定しているわけではありません。スピリチュアリストは別に念力でお湯を沸かそうとは思っていません。ただ、それが「全部」ではないよ、と。むしろ大事なことはその上にあるものだよ、と。
 ごく単純素朴に考えて、われわれは、物質的生活を送りながらも、心理的なことや精神的なことを生きているのではないでしょうか。われわれの人生を「物質の流れ」に還元してしまっていいのでしょうか。例えば、歴史を理解するということは、その時代の生産・経済活動を分析することだ、ということなのでしょうか。

 もし、万が一、人間が霊魂だとしたら、それを「物質の戯れ」と見るのはとんでもない間違いにならないでしょうか。「人が犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて許される。しかし聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」という言葉がイエスにあります(マルコ3:28)。「神を否定しようが、宗教的教義を否定しようが、そんなことは大した問題ではない。だがお前自身が霊魂であることを否定するのは、許されざる自己否定だ」という意味だと私は解釈しています。
 自分を「物質の戯れ」に過ぎないと見なすなんて、悲しくはないんでしょうか? 「私の愛も幸福も思想も、単なる脳内の電気信号」――ほんとにそれでいいのでしょうか。

 余計なお世話だと言われるかもしれませんが、「私は脳の産物であり、死後に意識が続くことは絶対ない」と固く信じていると、死後に困ったことになるという情報もあります。死んだことを認めず、現世をうろうろしたり、自分が紡ぎ出す思いに閉じ込められたりして、よろしくないというのです。死後の世界はあるというのはお前らの妄想に過ぎないのだからそんなことはあり得ないと言われるでしょうが、まあ、そうおっしゃらず、億万が一のために、あんまり頑なに「死はおしまい」と思わない方がいいですよ、0.1%でもいいからそういう思いを入れておくのは、損じゃないと思いますがね、と。

 まあ、あまりこういうことを言っても意味がないのかもしれませんけれども。


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