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【人生の苦悩】(3) 性格という宿痾

2010-11-15 00:40:56 | 高森光季>人生の苦悩

 人生というのは、食べていく、生き延びていくだけでも大変なものだけれども、往々にして人は自らそれをもっとややこしい、難儀なものにしてしまうようだ。性欲や権力欲・名誉欲などの「無駄に大きくなりすぎた欲望」もその要因だが、さらに手強いのが「性格」というものである。
 人の性格にはいろいろとある。十人十色、千差万別。「性格」を持っていない人はいない。ただ、それが当人や周囲の人を苦しめる場合もある。単にあるというより、けっこう多い。

 性格のタイプ分類は古くからあるようだが、精神の機能を根拠にして、8つのタイプ分類をしたのがC・G・ユングである。ユングは次の三つの二項対立セットを設定した。
  外向的 vs. 内向的
  直観  vs. 感覚
  思考  vs. 感情
 ここでは個々の細かい説明はしないが、2の3乗で8つのタイプができる。さらにこれにもう一つの二項対立(判断型vs.受容型)を加えて16のタイプとし、テストによってそれを診断できるようにした「マイヤーズ・ブリッグス・タイプ・インディケーター(MBTI)」という、ちゃっかり商売にしたものもあって、入社試験などにも採用されている。
 ちなみに、性格タイプ分類の話をすると、ものすごく感情的に反発する人がいる。「勝手に人にレッテルを貼っている」「そんな分類は人間の尊厳に反する」というような反論なのだが、どうも私にはよくわからない。タイプ分類は「あいつは××だぜ」とレッテル貼りをすることが目的なのではなく、それぞれの心がどういう得意・不得意を持っているかを自覚し、よりバランスを取れた成長をするためのサジェスチョンを得ようとするものである。血液型のような遊びっぽいものはもてはやすが、心の問題になるといきなりむきになって反発するというのは、何かそこに不思議な問題が隠されているようでもある。

 ユングは、内向型と外向型は「互いに理解し得ない」ものであり、社会・文化行動の面でも、決して相容れない二つの方向性を示すと言っている。
 で、問題なのは、ユングの言う「内向タイプ」は、基本的に「生きにくい」人生を送るということである。
 「外向タイプ」は、「価値が外側にある」人である。彼らは外に出て行き、外にある価値を得ることが好みであり、得意である。
 それに対して「内向タイプ」は、「価値は内側にある」。外側の世界はどちらかと言えばどうでもよいものであり、外側の秩序にはどうしてもなじみにくい。
 この二つのタイプを戯画的に描き分ける譬えがある。「有名な美術館に二人が行った。外向タイプは、ガイドブックに紹介された名作を手際よく回り、チェック印をつけて『俺はこれ全部見たぜ』と自慢する。内向タイプは、何となく勘で歩いて行き、気に入った作品を見つけたらその前でじっくりと時間を過ごす。館全体に何があったかは覚えていない。」
 近年言われている、「引き籠もり・ニート・オタク・負け組」は、要するに「内向タイプ」の病理である。彼らにとって外界は、「こわい」「きたない」「がさつ」「無意味」なものである。外向タイプのように、人とうまく渡りをつけて、世界を巧みに泳ぎ回ることなど、彼らには到底無理である。
 内向タイプは、人口的には少数派で、25~35%くらいではないかと言われている。彼らは生きていくのがへたであり、奇人に見られることも多く、「負け組」になりやすい。
 つまり、世の中の3割ほどの人は、性格的に「生きにくい人生を生きるよう定められている人々」だと言うことができる。
 けれども、絶望することはない。外向タイプは、多様な経験を誇り、社会的成功を容易に手に入れるのにもかかわらず、内面が貧相であることがしばしばあるのに対し、内向タイプは内面的精神生活という面では、豊かな人生を生きていることが多い。
 だから、内向タイプの人々は、「しょせん俺たちは外向タイプのようにうまく生きることはできない」と割り切り、さらに「しかし俺たちの生き方の方が、はるかに精神的に深い人生を送ることができるんだ」と開き直ることがいい。「偉大な芸術や、独創的な試みは、内向タイプのみがなしうるのであって、われわれが文化の担い手なのだ」とうそぶいてもかまわないだろう。何せ、少数派で負けがちな人種なのだから。

 内向の問題だけではなく、このタイプ分析では、偏り過ぎることによる不都合(神経症的症状や生きる苦しみ)という問題もあるのだが、それはまた。

      *      *      *

 性格が生きていく上で問題になるという点では、近年よく言及される「人格障害」というものが、典型的なケースだろう。
 「人格障害」(personality disorder)というのは、昔はなかった概念で、頻用されるようになったのはこの10年ほどではないだろうか。精神分裂病(統合失調症)や躁鬱病、てんかんといった古典的な疾病には分類できないが、社会生活に不適合をきたす、「心のあり方」の病である。
 ウィキペディアから引用すると(DSMによる分類)、

【クラスターA】
  風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
   * 妄想性人格障害 Paranoid personality disorder
   * 統合失調質人格障害 Schizoid personality disorder
   * 統合失調型人格障害 Schizotypal personality disorder

【クラスターB】
  感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込む事が多い。
   * 反社会性人格障害 Antisocial personality disorder
   * 境界性人格障害 Borderline personality disorder
   * 演技性人格障害 Histrionic personality disorder
   * 自己愛性人格障害 Narcissistic personality disorder

【クラスターC】
  不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
   * 回避性人格障害 Avoidant personality disorder
   * 依存性人格障害 Dependent personality disorder
   * 強迫性人格障害 Obsessive-compulsive personality disorder

 こうした「病気」は、どういうわけか、その人が持ってしまった「性格」による病気である。なぜそういう「性格」になったのかはわからない。器質的な要因があるのか、遺伝や生育歴に問題があるのか、偶然それを選び取って異常に発達させてしまったのか。(あるいは過去世の影響か。)

 この中で特に注目されたのがクラスターBの諸タイプである。一時、どういうわけか、心理療法家のクライエントに「境界性人格障害」(いわゆる“ボーダー”)が急増した。振り回されてぼろぼろになったセラピストが続出したとも言われ、「ボーダーを扱えれば一人前」といった冗談も言われるほどだった。(こういう「病気の流行らしき現象」は興味深いものである。多重人格などもそうであったらしい。)また、「モンスター・クレイマー」に見られる「反社会性人格障害」、実力と不釣り合いなプライドを持ち、注意されると猛烈な逆ギレを起こす「自己愛性人格障害」といったケースもよく聞かれた。
 こうしたケースの怖さというのは、ごく普通の人と思って接していたら、突然、とてつもない情緒的混乱を出現させ、周囲を巻き込むということである。まさしく「地雷を踏む」という表現がぴったりで、うっかり踏んでしまうととてつもないことになる。
 もうひとつ怖いのは、このクラスターBの諸タイプは、果たして当人が異常を自覚しているか、その異常に苦しんでいるのか、非常に疑問であるところである。クラスターAは、病識があるかどうかはともかく、当人はかなり苦しい。Cも自らが苦しむパターンである。ところが、クラスターBの諸タイプは、どうもそのあたりが怪しい。傍目で見ていると、むしろ彼らは得々とそういうことをやっているというような印象すらある。また、人から異常を指摘されても、おそらく認めないだろうと思える。(近年の臨床家はクライエントに「それは異常ですよ」とストレートに言わない傾向がある。)
 もしそうだとすると、これはかなり由々しき事態である。性格(心の活動パターン)によって周囲と軋轢が生じ、それによって苦しむことは、それ自体、修正作用であるし、成長の契機である。ユングのタイプ論でも、たとえば「外向思考」にあまりにこだわることで「内向感情」が劣等となり、そこから神経症などの不都合が起こると分析されており、そうした偏りを克服して全的な成長をとげることが意義あることとされている。ところが、このクラスターBの人々は、軋轢の存在を認めず、苦しむことも回避されているとすれば、修正作用も成長の契機も阻害されているということになる。
 よくわからない。めちゃくちゃをやりに来て、それがめちゃくちゃであることも自覚せず、周囲をめちゃくちゃにするだけ、という人生があるのだろうか。その人の魂は、死後にその非道を悟るのだろうか。

 人格障害は、治すことが非常に困難な病気だとも言われている。ボーダーの事例でも、極端な行動を回避できるようにはなるが、心のあり方を変えることはかなり難しいようである。
 ただ、心理学的な病気は、まずきちんと病識を持つことが必要だと言われる。自分の心の状態、その異常を、しっかりと把握することが、治癒の基本条件ということである。性格――心のあり方――を変えることは困難だとしても、その長所短所を知ることで、軋轢や苦悩は回避することが可能になっていく。

 性格というものは誰もが持っているものである。つまり、「完全に円満な性格」がいるわけではなく、誰もが偏りを持ち、それなりの軋轢や苦悩を味わうということである。従って、性格ゆえの苦悩は、人間の宿命であり、誰もそれを逃れ得ない。
 おそらく、それを解決する方法は、苦悩は偏りがもたらしていることを知ること、自らの偏りをしっかりと認識することなのだろう。「汝自身を知れ」――この古い哲学的命題は、このことを言っているのかもしれない。
 「明るく、素直で、人を思いやる優しさを持った性格」が、人に愛され、結局は社会的にも成功を勝ち取る最善のものだということは、多くの人が知っていることである。だが、人には性格があるから、誰もがそれをできるわけではない。ブラックに言えば、皆がこういう人格になったら、人類の奥行きはなくなってしまうかもしれない。
 でも、だからこそ、自分の偏った性格を「はいはい」となだめつつ、「明るく、素直で、優しい性格」を、少なくとも表に立たせられるように、誰もが努力すべきなのかもしれない。


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