スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

人類の進化(2)

2011-03-28 00:35:54 | 高森光季>人類の進化

 スピリチュアリズムでは魂(霊的存在も含む)の成長・進化を非常に重要視します。けれども、人類の進化史とか今後の進化像といったものはあまり説かない。これは「個々の」成長・進化が問題であって、地上世界という「幼稚園」自体は進化しないと捉えているからかもしれません。
 とはいえ、幼稚園自体も、ただあればいいというのではない。いい幼稚園と悪い幼稚園があって、悪い幼稚園の卒園生は、小学校へ行くと苦労するかもしれない(なんという譬えだw)。
 今の世界は、あまりに物質的なものばかりを追いかけている。自分が魂であることさえ忘れている。そんな悪い幼稚園だと、卒園することがなかなかできないし、その後も苦労する(?)。

 なんでそんなことになっているのか。今来学人さんから「(スピリチュアリズムの言っていることが正しいなら)人類はもっと精神的に進化成長しているはずでは」というような指摘がありました。
 この問題は重要です。昔の人はもっと霊的な考え方をしていたし、霊界や霊的存在と親密に交渉していた。この二千年、そして特に近代に入って、人間はそうしたものを否定してしまった。それは成長ではなく堕落ではないか。

 このような人類の霊的発展の歴史を、自己の高次体験(霊視)によって記述したのがシュタイナーでした。私はよくわからないのでアンチョコ(A・P・シェパード『シュタイナーの思想と生涯』。birch99氏より戴きました。感謝)に頼ると、超古代には、人類は「内面生活において人間は意識的に霊的存在者の導きを受けて」おり、自我は充分に発達しておらず肉体も自我の適切な道具となるようには発達していなかった。それがギリシャ・ローマ文明期頃から、自我や感覚が優勢になっていき、「人間は物質界について知りそれを享受するという点で上昇したが、霊的な起源と環境から完全に切り離され、霊的な運命とは無縁になるという悲惨な下降を体験しなければならなかった」(pp.146-7)。さらに15世紀(ルネッサンス)以降は、「対象を意識する」「自意識の時代」となっていった。しかし、これからの時代は、感覚と思考をより純化することで、科学と霊的なものが再び結びつくようになるだろう。――まあ、細かいことはばんばん省くとこのような感じのことを言っています。
 まあ、この霊的史観に関しては、論評は控えます。そうかもしれないしそうでないかもしれない。なるほどと思うところもあれば「?」と思うところもある。一個人の霊視という「単一の情報源」のみではいささか信憑性に欠ける嫌いがありますし。
 ただ、古代の人類が、霊的な能力を持っており、霊的存在と密接に意思疎通し、それに導かれていたということは、けっこう多くの人が考えていることだと思います。遺跡・遺物などを見ても、「これは絶対、上と“何か”をやっていたな」と感じる人は多いでしょうし、古代文明が宗教中心だったことは明らかで、それは気休めや権力の見せびらかしなどではなかったでしょう。
 そして、世界の宗教史を見ていくと、2500年くらい前から、宗教は次第に「霊的存在との交渉」を排除していく道程をたどっていることが明らかです。キリスト教は、個々の信者が直接に霊的存在と交渉することは厳禁していきます(その果てが「魔女狩り」でしょう)。霊的交渉は教会が独占しようとしたわけですが、その教会自体が霊的交渉能力を失っていきます。仏教でも、当初は暗黙の前提だった霊界・霊的存在へのまなざしは、次第に哲学的・心理学的な教学にとって代わられるようになります(その中で「もう一度霊的交渉能力を復活させるぞ」と決起したのが密教だったと私は思っているのですが)。
 この「下降」とは一体何なのか。

 シュタイナーも言っているように、それは、「意識」「自我」「(個人の、物質環境への)感覚能力と知性」の発達のためだった。それはその通りのように思えます。
 ただ、一部には、この「下降」は悪神の奸計だったとする考え方もあります。シュタイナーも「ルシファーとアーリマン」という悪神の影響みたいなことを言っているようですし、昔のカタリ派(キリスト教異端)は、「この世を作ったヤハウェは悪の神で、人間の魂はそれに拉致監禁された」とも言っています。さらに遡れば、グノーシスでは、創造主の弟子のような存在(アイオーン)の一人が出過ぎたことをしてこの世は誕生したと考えていました。こうした考え方は西洋にはずっとあるようです。一方、旧約創世記の「人間は知恵の実を食べたため、エデンから追放された」という神話は、意識や自我を獲得することで霊的本源から離れるということを巧みに表わしているとも考えられます。)
 いずれにせよ、どうも人類は霊的能力を失ったようです。私たちは「霊」から切り離され、私たちの目には「死んだ宇宙」しか見えない。

 しかし、この「下降」によって、人類がたくさんのものを獲得したことは確かです。
 物質に関する知識とそのコントロール力。これは近代科学がその精華ですね。
 「個人」とその「自意識」。
 物質という万人共通の基盤。
 様々なレベル・霊統の魂との出会い。
 我欲の戦闘状態とその解決方法。
 自己の「心」に関する知識とそのおぼろげな操縦法。
 自由な想像・創造力。

 フロイト以来の心理学は、人間の自意識や自我が、精神の総体からすると非常に狭小で脆弱なものだということを明らかにしました。古代人と現代人の意識や自我を比べることは不可能ですけれども、ひょっとするとかなりあり方が違うかもしれない。自意識や自我は近代になるに従って、精神総体からよりはっきりと分立してきたように思えます。そして、ユングは、意識がまだ捕捉できない領域があって、意識が非常に偏向すると、その無意識が警告を発し、それによって神経症が起こる。人間のなすべきことは、無意識の部分をできるだけ意識化し、意識を広く強くすることだ。そう捉えていたようです。つまり、意識の無意識領域への拡大発展史が、人類の進化史なのだ、と。

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 古代から現代へと進んでくる歴史の中で、個人というものが突出してきたことは疑いのないところでしょう。個人は独立した存在として、自らのみの利益を追求する主体として、強くなっていきました。当然これは個人個人がぶつかり合う戦闘状態を招くわけで、それをどう宥和するかというのは、人類自身が考えなければならない課題としてせり出してきました。権力の制限、法治主義、人権思想、思想信条と表現の自由などは、その中で獲得された人類の叡智だと言っていいと思います。民主主義は非効率でしばしば愚かなシステムで、賢王の支配に劣るかもしれませんが、王政は愚王が誕生するととてつもなく悲惨になるわけで、それを防ぐにはやむを得ません。法治主義は、もともと王権の制限の意味があったものですが、事前に規則を定めることで社会の効率化を促進するし、何よりも人が決定権を持つ人によってひどい目に遭うことがなくなるわけで、これなくして近代社会は成立しません(いまだに法治主義を理解していない国もかなりあるようですがw)。「人権」という概念は、政治的に利用されたりしてだいぶ地に墜ちた感がありますけれども、奴隷にも異邦人にも同じ尊厳を認めるという基本理念は、人間の平等をもたらし、民族間・人種間同士の争いを鎮める力となったでしょう(自民族中心主義だった西洋がこれを自ら獲得したのは偉い。もっともまだ白人優位思想は残っていますがw)。
 そしてもちろん科学の発展。それが人間の生存を苛酷でないものにし、個人の自立や、想像・創造活動を自由に開花させたことは疑いありません。
 霊的な源泉から切り離されたにしろ、人類はそれなりに進化していることは否定できないように思います。

 個人の自立と自由は、多様性という果実ももたらしました。多様性は宇宙の(神の)本源的指向性の一つではないでしょうか。そして、人間社会は、非常に多様な個人を生み出したわけです。そして多様な個人が、それぞれに想像力・想像力を発揮しました。精神やイデアの表現としての芸術は、現代では古代の「テラ」倍になっているのではないかと思われます。

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 ちょっと話が脱線しますが、こうした「個人の自立と自由」は、現代に入って、また違った様相を見せているように思います。それは、「有名」や「権威」がなくなっていくことです。かつては、代表的な思想家が出て、誰もがそれを学びました。有名な芸術家の影響は広く及びました。秀でた一握りの人々が創造活動をし、ほかの人々はそれを享受する、そうした「分業」がありました。
 しかし、今の時代、そうした「巨人」は少なくなっています。現代を代表する思想家、芸術家という人がいなくなったわけではありませんが、「小粒」になっていることは確かでしょう。その代わり、一般の個人が、独自に創造活動をして、それが比較的狭い範囲で享受される、というような状況になっています。
 これは、私が尊敬するある「人間探究者」の人(ご迷惑をかけるので名前は挙げられませんが)から教えられたことですが、かつて有名な業績を残した魂が今生まれ変わっているが、その魂は今まったく知られていない、どうも現代の課題は有名になって広く影響を及ぼすということにはないらしい、と。
 知の「業界」においてもそういうことは起こっているようです。かつては学会には専門ごとに「大先生」がいて、その人の書いた教科書は下っ端がみんな採用した。それが今は個々人が書いたり、それぞれ勝手にいろいろな方面から選ぶようになった。そういう話はずいぶん前に聞きました。というより、アカデミーそのものの権威が、もう輝きを失いつつあるようにも思えます。昔は帝大教授というのは殿上人で庶民から崇敬を受けたものですが、今の大学教授は(以下略)。いや、そんな下世話な話ではなくて(笑い)、社会への影響力という点でも、今のアカデミーがそれほどの力を発揮しているとは思えません(科学は別として)。そして、アカデミー外から、時代を引っ張るような面白い研究者や思想家が出ています。(まあ、もともと日本やアメリカのアカデミシャン[科学を除く]は、ヨーロッパのそれに比べれば、勉強の積み重ねの度合いが全然違うわけで、権威の下にある実力が、いや、やめときますw)
 こういう話は情報メディアにも及ぶわけで、かつては新聞とテレビが情報提供を独占して権威になっていた。ところがインターネットの普及で、個々人が情報や意見を発表できるようになり、マスメディアの力と権威は今、猛烈な勢いで崩壊しつつあります(2ちゃんねるやブログなどを見ると、「マスゴミ」批判が熾烈で、これは当然だし、よいことだと思います)。

 これらの現象は、「個」がどんどん独立して力を持っていくという、長い人類「進化」の一断面のように思えます。「個」」は集団やシステムや有力者に従属しない、自由な想像・創造活動を展開するようになっている。
 話はどんどんそれますが、私が楽しんで読んでいるブログがあって、その主は非常に独特の感性と思考を持っていて、しかも特定の思想の「使徒」ではない「独歩者」なので、あっち行ったりこっち行ったりしながら、しばしば「おおっ」というようなことを書く人です。その人の文章に、こんなものがありました。
 《読まれている方にも、よくわからない、あるいは同意できない部分はたくさんあると思います。それらも、今の話が進行中であるということと、あるいは、「人によっての宇宙は様々である」ということなどをご理解いただけると幸いです。/今、「あらゆる今までの表記上の学問が消えつつある」ことを感じます。自分の考えというものが自分にとってすべてである時代が登場した可能性もあります。宇宙の誕生も歴史も生物の進化も物理の法則も、すべて「60億人それぞれのもの」という時代になっていく可能性さえあります。/つまり、「すべてのあなたのすべての考えは、あなたにとってすべて正しい」。そうとしか言えない時代が来たのだと思います。もはや、議論や討論や是非は消滅し、それぞれが自問しながら歴史の中を進んでいき、外面的に存在している「社会」の自動的な運営と共に生きていく。そして、死んだ宇宙と死んだ生命の機械的で自動的な運営を、もう一度宇宙の中で「再起動」させるために人類が関わることができるチャンスに巡り会っている可能性を感じます。》(「In Deep」http://oka-jp.seesaa.net/article/191758293.html)
 これは独我論の一種と言えば言えますけれども、ある種、時代の趨勢というものを敏感に受け取り、それを見事に表現したものと言えるように思います。
 彼はさらにこんなことまで言っています。
 《「人間はひとりひとりが違う好み」を持っているという事実こそが、「人類はひとりひとりすべてが神様と同義だ」ということの証しなのかもしれません。》
 想像・創造活動をするのが神の本質(の一)なのだとすれば、われわれもまたそれをなすことによって、神の創造のごく微細な一部を担っていると言えるのかもしれません。

 ただし、こうした傾向は、「孤独」を代償として要求します。人がそれぞれ違い、それぞれの道を歩んでいるという事実は、いくら「それを超えての共同」を唱えても、基本的には魂は孤独であるということを意味します。地域共同体からも親族共同体からも無縁になっていくのは、その必然かもしれません。孤独はつらいものですが、私たちはそれに耐えることを要求されているのかもしれません。

 政治的(笑い)な話をすれば、知の権威の沈下ということは、「死後存続を主張する陣営」からすれば、好ましいことかもしれません。これまで「科学主義唯物論」が、アカデミーの正統権威として君臨してきました。物質以外の基盤を措定する知(唯物論にあからさまに反論する知)は、いっさい排除されてきました(この熾烈な闘いについては笠原敏雄編『サイの戦場』参照)。
 しかし、一般の人はますます「アカデミーの権威? そんなのなんぼのもんじゃい」という気分になっています。まあ、唯物論がすぐに崩れるとは思いませんが、反唯物論的な研究方法も、多少市民権を得ていくのではないか、と(もっとも、スピリチュアル経営哲学みたいな怪しいものもすでに出ていて、そういう怪しげなものが跋扈する可能性も大ですが)。
 スピリチュアリズムや「死後存続説」陣営には、「権威」などいませんからね。まあ、かつてSPRやSAGBといった権威っぽいところはありましたが、アカデミーの権威に比べれば、それほど力を持っているわけではない。むしろ霊魂説はいろいろなところでゲリラ的に活動を繰り広げてきたわけで(われわれだって吹けば飛ぶようなゴミみたいなものでしかありません)、それは今後も続くでしょうし、唯物論の権威からの圧迫が少なくなれば、もっとゲリラ活動は拡がっていくかもしれない。だから、スピリチュアリストの皆さんは、権威になろう・加わろうなんてあきらめて、あちこちでゲリラ活動を展開することをめざしましょう、とこれは政治的プロパガンダか。
 まあ、もう一つ願うことは、宗教宗学も、もう唯物論という権威にすり寄ったりしなくなってほしいものだと。へたをすると唯物論とともに沈下しますよ、と。
 「個々が自由に」ということが広まっていけば、まさしくフィオーレのヨアキムが予言したように、「一人一人に聖霊の導きがある」ような信仰が主流になっていくのかもしれません。スピリチュアリズムでは「守護霊信仰」という考え方があって、それぞれが守護霊に祈ってその導きをもらうのが一番よい。仏教だと「一人一寺」(実際にそういう主張をした人もいました)「一人一宗」。ただし、とんでもない方向に行ってしまうのを避けるために、大まかなガイドラインとして、スピリチュアリズムの霊信とか、諸宗教の宗典とかを参考にはする。そんな形でもいいのではないでしょうか。
 インペレーターの言葉にこんなものがあります。
 《われらは未知なるものについて全く同一の理解をもつ魂は二つと存在せぬことを知っている。いかなる魂も大なり小なり他の魂と同じ見解を抱いてはいても、決して同一ではない。》(『霊訓』11節)
 勝手気ままに信仰しろということではないですが、それぞれなりの信仰とその表現があるのは当然なのかもしれません。

 こうした「個人の自立とバラバラ化」という話は、まあ別段新しい話ではありません。個人主義の極限化やそれに伴う「無縁化」は、社会学の評論などでよく耳にすることです。
 世には「引きオタニート」(引き籠もり・オタク・ニート)が増えています。何か先日来日したアメリカの有名予言者が、「日本にはパソコンだけにつながっているゾンビのような若者がたくさんいるが、そういう人たちがそのうち活動の中心を担うようになる」というような予言(というか励ましのメッセージ)を発したらしいですね。2ちゃんでは「俺たちはゾンビかよ」「さあ、出番だぞw」「出かける服がない」などと半信半疑で自嘲していましたが(笑い)。
 引きオタニートは、ゲームやオタク世界や2ちゃんにはまってまったく不毛になっている部分が大きいでしょうけれども、確かに、もしかしたらその中から、これまでの権威にはまったく染まらない、新しい思想・表現・運動が出てくるかもしれない(かなあ?w)。
 独我論的世界、自足した世界は、成長のない沈滞に陥る危険性があります。我流の探索は「魔境」に行き着くかもしれない。ただ、誰もが何らかの形で外とは繋がっているし、また「上」とも繋がっている。それがあれば、そうした孤立した個々は、一律的で巨大な権威に参加するのではなく、ネットワークで繋がるのか繋がらないのかわからないような形で、これから何かを生み出していくかもしれません。
 ただ、ネット上で行き来するのは文字情報なので、身体的なもの(技法・儀礼)といった非言語的領域(人間の直の交流でのみ伝わるもの)は、伝承が不可能になります。そうしたものは、「フリー・スクール」のようなものができていくのではないでしょうか。アカデミーの権威(お墨付き)とは直接関係なく、伝えたい人と受け取りたい人が自由に集まって学ぶ「小さな自由学校」は、今もずいぶん生まれていますし、これからも増えていくのではないでしょうか。ついでに言えば、宗教の活動というものは、もともとこういう「フリー・スクール」であったのではないでしょうか。

 ……と、またまた変なところへ入り込んだようで、全然進みません(笑い)。続きは明日。


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1 コメント

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独り言 (今来学人)
2011-03-28 11:55:55
今の宗団を引っ張る陣営が唯物論的思考の方々ばかりだからなぁ。なにかいっぺん落ちるところまで落ちないと次の展開は見えないんだろうなぁ。。次世代、またはもう一世代後の方々がそれに気づいて次のステップの準備をして頂きたい。
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