神道というのは、わかるようなわからないような、厄介な宗教です。
教祖も、教義・教学も、組織もない。ちなみに「神社本庁」というのは、民間の団体です。いかにも公共機関のような名前をつけているので、間違える人がいるようですが(こういう詐欺っぽいのはいけませんねえw)。
『古事記』『日本書紀』(記紀)を神道の基礎教典のように見なす人も多いですが、あれは政治文書ですから、全然あてになりません。
中世には吉田神道、両部神道、三輪神道といった宗派教学ができましたが、これはありていに言えば仏教(特に密教)をパクって神道哲学風にしたもので、それぞれ面白いですが、「これが神道だ」と言えるようなものではありません。
だから、神道は習俗であって宗教ではないと言う人や、いや、言葉や形にならないけれども日本人の心の奥にある「見えない宗教」だと言う人や、いろいろなことが言われます。
まあ、あまりここでは深入りはしません。
(ただ、神道界が知的にはまったくお粗末だということは確かだと思います。「神道言(こと)挙げせず」を免罪符にして、思想的・哲学的鍛錬を怠っているとしか言いようがありません。「婚前交渉をするとDNAが汚れる」というようなトンデモ発言をする神主すらいて、それが堂々と通っているのだから呆れます。仏教界の方がはるかに知的水準は高いです。)
神道の一番の特色は、「土地霊・自然霊との交渉」だと言えると思います。土地霊というのは自然霊と重なるところがありますが、小さな「産土神」から大きな「国魂」まで、特定の地域を守護するカミです。自然霊は、天候、水、土といったものから、稲魂など細かな生物の霊、さらには山や海の「怪」「魑魅魍魎」まであります。ネイティブ・アメリカンなど古態の(「原始的な」)宗教にはこうした要素が強くありますが、それをいまだに保持していることは、注目されていいことです。
もともとは人間の霊魂も交渉の対象だったはずですが、仏教という舶来ピカピカの巨大な宗教が入ってきて、どうも人間問題はそちらに取られてしまったようです。まあそれでも死者霊・未浄化霊との交渉は、時々は神道の役割になったりもしますが。
思想的・哲学的にまったくお粗末な神道ですが、一部の実践的(霊的)神道家は、霊の世界を多様・多層だと捉えています。これが神道界全体の考え方だとは言えませんが(というよりただの職業神官は何も考えていないでしょうが)、それを図解すると、次のようになるでしょう。
最高位にあるのは、「高い神の世界」で、記紀神話を援用して「高天原」とも表現されます。この上部か一次元上に、「根源神」を想定する考え方もあります。根源神は「アメノミナカヌシ」(古事記)「クニトコタチ」(日本書紀、中世神道)「アマテラスオオミカミ」(近代神道)などとされますが、流派あるいは部族によって異なり、多分に政治的な意味を帯びます(政治的な意味を帯びるというのは、他の神々の神名も同じです。記紀に載る有名な神名は権威があり、周辺的な神名や記紀外の神名は、蔑視されることになります)。高級神霊というものはなかなか実感できるものではないので、抽象的思弁や政治的イデオロギーが入りやすい領域だと言えるでしょう。
一般的に祭祀の対象になるのは、諸国のカミ、諸機能のカミ、自然霊、産土神、祖霊(集合的)といった神霊です。
諸国といいましたが、昔は藩とか地域を国としていたわけで、それが拡がっても日本くらい。外国のカミは考察対象外ということでしょう。産土神はもっと狭い地区・村の守護神です。ただし、人々を直接守護するのは産土神で、お宮参り・元服といった成長儀礼や願掛けは、産土神にお詣りに行くのが正しいわけです。(年に一度、人が押し寄せる有名神社に行って、100円ばかりのお賽銭を投げて福運を願っても、まあ、叶うわけはないですw)
「諸機能のカミ」というのは変な表現ですが、「ムスビ(産霊)【補注】」=豊穣や生命力増加を司るカミ、「浄め」のカミ(いわゆる「祓戸の大神たち」)といった、特殊なカミがいると考えられてきました。お酒を醸すカミもいます(松尾大社)。「稲荷神」は、豊穣や金運を司る強力なカミで、実利も多いけれどもしっかりと祭らないと祟りも大きいと言われています。キツネは稲荷神の「眷属(けんぞく)」(使者・家来)であって、キツネ自体が神ということではありません。
自然霊は、山・海・川のカミ、動物を司るカミ、植物を司り豊穣をもたらすカミ、といった神々です。けっこう恐ろしい神々で、豊作などの実利をもたらすかと思えば、一方で大災害などを起こして平気で人を殺す。山・海・川では、何やらわけのわからない姿で出現したりもする(竜は自然霊の中でも非常に高い位の神だと言われています。見える人には見えるようです)。そういう恐ろしい相手に、何とか交渉しようとするのが、神祭りの本義だと言えます。
祖霊は、一定の年月を経て、個人性がほとんどなくなり、集合的霊(霊団?)として、一族や地域を守護する霊と考えられています。ただし、氏族が強調されると、特定集団の守護神として、政治的な意味合いを帯びることもあります。
こうした神々の下に、種々雑多な霊がいます。死者の霊、動物霊、「物」の霊、そして神々の眷属である動物霊など。一般的な死者は、死後比較的現世に近いところで霊として成長し(生者と同じような成長儀礼がある場合もあります)、やがて個人性を薄めて集合的な祖霊に融合していくと考えられたようです。生まれ変わりもあるとは考えられたようですが、あまり明確な考え方はなかったように思われます。
問題は、小さな神々が祀られずにいたり、非業の死を遂げた人間が恨み辛みを抱えていたりして、「祟る」存在になることです。「荒神」はいろいろな意味に使われる言葉ですが、十分な祭祀を受けられずに荒れているカミのことも指します。地域の祭祀ではこうした「荒れるカミ」がいないか占い、いた場合には手厚い祭祀を促すという形式があります(天皇の神事にもこうした形式はあります)。さらに、戦などで残酷に殺された死者や、夭折した者、出産で死んだ母子などは、怨んで祟らないようにすることが重視されました。いわゆる「怨霊信仰」で、こうした営為は日本の宗教行動のかなりの部分を占めています(葬式も広く考えれば「死者に祟られないようにする」儀式だと言えるでしょう)。
こうした「恐ろしい霊的存在」の世界は、上位霊界というよりは、現世に半ば重なるようにしてある境域だと言えるでしょう。また、あまり言われることはないですが、現世には、こうした世界に似た「暗黒の境域」(魔界)があると思われていた(今も思われている)とも言えます。これらの世界・境域は、現世よりも下の地獄というものではなく、現世と重なる、あるいは(力量的に)少しだけ上の世界・境域に位置づけられると思われます。死者の一部は地獄に行くのではなく、こうした「迷いの世界」に入ると考えられたわけです。こうした魔界の悪影響を封印することも、神道の重要な役割だと言えます。
要するに、神道とは、低い霊的存在からの「祟り」を除き、高い霊的存在からの「守護」を願うという、きわめて単純な霊的営為であるわけです。逆に言えば、「それだけやっていれば人間は基本的にOKなんだよ」という大らかな(性善説の)宗教だということです。思想的な発展があまりないことや、内面的な信仰をあれこれ言わないことも、要するにこういった基本構造のせいだと言えるかもしれません。
【補注】「ヒ」は「霊」のことで、「ムス」は「生える、増える、発酵する」などの意です。「人(ひと)」は「霊(ヒ)」が留まる「ト=場所」ということだと言われます。
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