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【諸宗教の超簡単図解の試み】⑥初期仏教

2011-11-21 00:03:12 | 高森光季>諸宗教の超簡単図解の試み

 さて、ここからいくつか、仏教の他界観を見ていくことにします。ま、いろいろと非難・批判が生じるかもしれませんが。

 仏教のベースとなる古代インドの宗教観は、詳しく勉強していませんのでよくわかりません。ただ、どうもウパニシャッドなどの考え方だと、神々の世界を認めつつ、根源的な「ブラフマン-アートマン」(梵我一如)という見方をしていたように思われます。
 仮にそれを図にしてみると、こんな感じになるでしょうか。あくまで仮です。



 ブラフマンというのは、究極的一者で、神々よりも上の階層になるでしょう。で、人間は輪廻世界におり、神々を祭って加護を得る。しかし、人間が己の根源にある「アートマン」を知れば、そのアートマンは実はブラフマンと「不二=同一」であるので、輪廻界を脱して永遠の存在となる。
 このアートマンは神々と同レベルの存在なのか、神々とブラフマンはどういう関係なのか、「同一」というのは、アートマンはブラフマンの中に溶け込んで個別性を失うのかそうでないのか、といったことはよくわかりません。
 ただ、基本的には「現界=輪廻の世界」、「天界=永遠界」、そして絶対者ブラフマンという3層の構造になっているように思えます。

 さて、そのウパニシャッドを受け継ぎつつ、新たな展開を試みたのが釈迦だったわけです。ただ、前も述べましたように、ウパニシャッドの「真理を知る人々は不死の生命を得、そうでない人々は輪廻の苦に囚われ続ける」というテーゼはその前提でした。
 釈迦は、輪廻を超えるためにはどうしたらよいかを考えた。そして、輪廻をもたらす(輪廻界に縛り付ける)ものは、人間の欲望・執着(無明)だと知った。欲望・執着は「私」や「物ごと」を「永遠不変の実体」だと間違って認識するから起こるからだと知った。そこで、「永遠不変のものはない」と会得し、欲望・執着を断滅すれば、輪廻からは脱出できると知った。――これが一般的な釈迦のさとりのストーリーでした。(本ブログ「仏教論」の「仏教って何だろう」のシリーズもご参照ください。)
 そのストーリーを図解すると、こんなふうになるでしょうか。



 人間および生物は、現世の輪廻の世界に住んでいます。死すと一時的な浮遊期(中有)の後、再びこの輪廻世界に生まれ変わります(つまり、“死はない”わけです)。釈迦の時代には「六道」という考えは生まれていなかったようで、善い行ないをしていれば善い境遇(善趣)に、悪い行ないをしていれば悪い境遇(悪趣)に生まれ変わるとされました。人間は、善行を積めば、善い境遇の人間、あるいは天の神々の世界に生まれますが、悪行をなせば、畜生や地獄に生まれ変わります。
 しかし、釈迦の説いた真理を知れば、一切は実体を持たないものだと知り、この世(および欲望・執着)を離れることができます。さらに、「一切は縁起(因果律・関係性)によって成り立っている」という叡智を深め、正しい行ないをしていけば、煩悩も業(カルマ)も消えていき、輪廻界を半ば超越した心境に達することができます。ただし、この2つの境域に達しても、まだ生まれ変わりをすることがあります。そして、縁起を知り正道を行なって「煩悩や過去生からの業が尽きた」時に、ようやく「涅槃」に入る――もう生まれ変わらない――ことになります。
 この「涅槃」というもの、実はよくわかりません。「もう生まれ変わらない」というのは、消滅するのか、ブラフマンに融け入るのか、永遠の存在(神々を超えた存在)=仏になるのか、はっきりしません。仏になるのというのが後代の一般的な解釈でしょうが、「涅槃に入り、仏になって、○○する」という主張はないので、仏になるというのがどういうことなのかもはっきりしません。
 従って、基本的に「超越世界」は存在しません。「涅槃」という不思議な概念があるだけです。神々の世界は、そこでも輪廻を免れないので、現世の最もよい部分でしかありません。
 もっと端的に言うと、「叡智を得、正しい行ないをしていけば、涅槃=生まれ変わらないことが達成される。この涅槃=生まれ変わらないことが、至高の価値である」というのが釈迦の構図だったということです。
 釈迦は、どうしてこの世ができたのか、どうして人間が生まれたのか、といったことは論じませんでした。しかし、「輪廻世界」を生み出し、動かしているのは、「無明」だとしました。何か、無明は「叡智がない」といった状態のことではなく、不気味な動因のように思えます。生が苦であり輪廻があるのは無明ゆえだ、しかし無明は何を因としているのかは問われていない。まるで第一原因のようです。だからちょっといたずら心で、無明を別に立ててみました。(ちょっとカタリ派の「この世を創った悪の神」を連想させます。)

 超越的な存在が人に働きかけるという構図はありません。釈尊伝には、神々が釈迦を助けるという話がずいぶん出てきますが、釈迦の宗教には神々を祭祀せよという教えはないようです。神々にいくら祈っても解脱はできない。「自灯明、法灯明」で、頼るものは自分と法(真理)だけです。「え、ちょっと恩知らずじゃない?」と言いたくもなります。(神祭祀はバラモン教の独占なので、それに反旗を翻したのかもしれません。なお、「仏法僧に帰依せよ」というのは、敬い支えよということで、助けを求めよということではないと思います。)
 上からの助けを求めないのなら、一切の宗教儀礼は必要なくなります。何かを拝む必要もない。何かに祈る必要もない。
 ひょっとすると、これが釈迦の仏教の最大特徴かもしれません。「上からの助けを期待するな。自分で切り拓け」。徹底した自力です。釈迦以前に「徹底自力=他力否定」を主張した宗教があったかどうか。
 大乗仏教になると、これが大転換します。「仏や菩薩からの助けが必ずある」。だからそれを「信ぜよ」と。
 そうした視点から見ると、釈迦の仏教と大乗仏教とは、まったく違う宗教だと見ることができるかもしれません。

 改めてこうして見ると、「仏教は神仏(仏というのは変ですがw)も霊魂も否定した宗教だ」という言い方が生まれるのも、無理はないなあという気がします。
 しかし、霊魂を否定してしまうと輪廻が成り立たなくなりますし、仏=永遠の存在を認めないのなら、何のためにこうしたプロセス(しかも相当しんどいプロセス)が必要なのかわからなくなってしまうのではないでしょうか。霊魂がないのなら生まれ変わりを恐れる必要もないし、生が苦なら早く死ねばいいだけでしょう。いったい、仏教は何のためにあるのでしょう。【補注】

 実にわかりにくい、奇妙な宗教だな、という感じがします。


【補注】「何のため?」という問いは、しばしば必要な問いです。「仏教は何のために?」というと、今はたぶん「さとりのため」という答えが返ってくるでしょう。で、「さとりは何のために?」と問うと、「よりよく生きるため」「動じない心を持つため」とか。あるいは「喝!」とか(笑い)。
 釈迦の宗教は、「生まれ変わらないため」だと言えるでしょう。「で、その先は?」と問うと、「無記」となる。
 もちろん、この問いはどこかで「そっから先はわからん」という地点に行く問いです。子供がお父さんに「なぜ学校へ行かなきゃいけないの?」「××だから」「なぜ××なの?」と問うていくと、最後は答えられなくなるのと同じです。
 キリスト教は、「天国に生まれるため」の宗教です(まあ、厳密に言うと、キリストが再来して、この世が転覆して神の国になる時、そこで永遠の生命を得るため、ということでしょうが)。
 で、「何のために天国に生まれるの?」」と問うと、「そっから先は知らん」ということになるでしょう。


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