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余談・思い出話「如来蔵思想は仏教にあらず」

2011-08-11 00:03:29 | 高森光季>仏教論・その他

 仏教に関する雑文を書いているうちに、思い出しました。
 もう一昔前になると思いますが、当時駒沢大学に所属していた仏教学者の方お二人ほどが、「如来蔵思想は仏教ではない」という説を発表しました。で、私はそれをリアルタイムで、外野から見ていました。
 「如来蔵思想」というのは、単純に言うと、すべての人に仏になる要素(「仏性」ぶっしょう)が埋め込まれている、ということでしょう。大乗仏教の中で生まれた思想で、中国・日本では広く受け入れられました。特に日本ではこれが仏教のベースとなったくらいの基礎的思想です。
 で、これが「仏教ではない」と言われた。論拠は、これまた単純に言うと、「釈迦の思想はすべての実在を否定している。仏性は実在論であるからこれに反する」「仏性を認める唯識派に対して、すべて空であるとする中観派は論争して勝っている。これによって中観派および空思想は釈迦の正統な思想であることが証明された」ということだったと思います。(きちんとソースを調べ直していないから、間違っているところもあるかもしれません。)
 けっこう当時の仏教界では話題になったように記憶しています。何せ、日本仏教全体(ほとんど)を、全否定するものだったからです。しかもそれが、仏教外部から出たのではなく、宗門大学の学者さんから出たわけですから、言ってみれば、カトリック神学校の神父が「キリスト教はイエスの直説ではない」(正しいw)と宣言したようなものです。
 「日本仏教を全否定するのか」「曹洞宗のお金で食べている人間が、パトロンを詐欺扱いするのか」といった声が聞こえました。
 ただ、真正面から反論した人がいたのかどうかは、記憶していません。あくまで私の印象では、
 ・空思想を仏教正統と捉えるのは正しいが(そう捉えていた人も多いと思います)、それに則らないものを「仏教でない」と言うのは行き過ぎ
 ・中観派自体が、釈迦の思想とは異なる特殊な哲学である
 ・仏教は一義的に定義できない
 ・組織を出てから批判しろ
といった反応があったようです。
 この後の展開は知りません。私自身は外野ですから、「日本仏教はどうもぬるま湯だから、これでちょっとかき回された方がいいかも」というひどい感想と、「空思想を取るんだったら一銭もお金をもらえない覚悟じゃなきゃ無理じゃない?」という下世話な思いでした(昔の話ですw)。
 で、今つらつら思い出して思うには、これはやっぱり近代仏教学の抱える問題ではないかな、と。確かにブッダに反実在論はあった。そしてそれを推し進めた中観派の思想は、仏教の抱えている難題ではないか。特に、その前提となる輪廻の思想が消去されたら、これが肥大化して前面に出てきてしまうのは避けられない。この問題提起が話題になったほどに話題になった反論がなかった(と思う)のは、近代仏教学の中で、空思想と他の主題を、うまく統合する枠組みが作れないことを示しているのではないか。だから、純粋に思想的な問いかけとしては、この“暴論”は意味があった、いまだに意味があるのではないか。仏教とは何かという定義への問いかけも含めて。

      *      *      *

 私が今思っているのは、「実在論議は人間には不可能」ということです。単純に言えば、人間は実在を捉えることができない。だから「実在はない」ということもできない。
 物理学では、実在を突き詰めていって、「ひも」だということになった(笑い。最近、「ひも」は語感が悪いというので「弦」と言うらしいです。超弦理論とか)。実在の究極の姿は、人間にはほとんど理解・把捉不可能なものであるようです。そして、この「ひも」、私たちの生きている現実とはまったく異なる。現実は幻想であるという説明もありますが、じゃあその幻想はどこからどうやって生じているのか。
 まったく逆の、スピリチュアリズムの立場では、「唯一の実在は神である」「高級霊界こそ実在であり、人間の生きている物質世界は影のようなもの」といった霊信があります。ここでも実在は人間には理解・把捉不能なものだということです。これはかなり「イデア」論に近い。物質的現われ(エイドス、形相)は実在ではない、その向こうにある「イデア」が真の実在なのだ、という考え方に通じるところがあるように思います。

 まあ、そもそも「実在」の定義が難しい。
 ブッダは、「常住でないから実在ではない」という論理を使いますが、常住=永遠に変化しないもののみを実在とする定義は、かなり特殊な定義ではないか。(ブッダはアートマンとブラフマンは否定していなかったという説もあります。)
 現代科学の実在定義は、「それ以上分割できないもの」ということになるのでしょうか。素粒子も「ひも」も変化しないものではないでしょうから。それとも、もう実在自体が否定されてしまっているのでしょうか。素人にはよくわかりません。ただ科学は普通の「物」も実在だとしているように思いますけれども。

 あー、ごちゃごちゃしてきた(笑い)。
 要するに、実在論議は不毛。答えなし。
 だから実在論議としての「空」理論は、やっぱり無意味。存在の一様相としての理論としては立てられるけれども、それを基盤にするのは無理。実在は把捉不能なのだから。
 限定的な知しか持ち得ないわれわれ人間には、心も実在、目の前にあるコップも実在、そう捉えるしかないでしょう。
 間違ってますかねえ(笑い)。

(あ、そうか、実在論議ではなく「思想」なのか。思想だったら何でもありですね。正邪をつけることも不要。思想は人を超えて伝達されることもないw)

      *      *      *

 前にも引用したことがありますが、末木文美士『思想としての仏教』(トランスビュー、2006年)から引用します。末木氏も、無我論には無理があると考えているようです。

 《◆ドグマとしての無我説の問題
 ところで、苦や無常が少なくとも現象のレヴェルでは誰もが観察し、体験することで比較的常識的にも理解できるのに対し、無我はかなり哲学的な議論が入ってきて、それほど分かりやすいものではない。それはアートマンという、現象を超えた実体が問題になっているからで、このレヴェルまで問題が進むと、はたして永遠のアートマン、あるいは霊魂が存在しないと本当にいえるのかどうか、それほど確かではない。五蘊や十二処・十八界の説は、確かに現象世界がアートマンなしでも説明できることを証明しているかもしれないが、だからといって現象を超越した実在が絶対に存在しないとは証明していない。あえていえば、無我説は一つのドグマであるといってもよいであろう。仏教の立場は徹底した現象論をとり、超越的な実体を排して、あくまで現象世界の問題を現象世界の枠の中で説明しようというのである。
 このことを明確にするものに無記という考え方がある。無記というのは説明できないということで、現象世界を超越した形而上学的問題に対して、解答を拒否するのである。それらの問題とは、世界は時間的に有限か無限か、空間的に有限か無限か、霊魂と肉体は同一か異なっているか、如来(=ブッダ)は死後も存在するか否か、というような問題である。この態度はしばしばカントの先験的弁証論と対比され、我々の存在の問題を徹頭徹尾、現象世界の枠の中で解決しようという態度が明白である。
 もっとも、ここにもやはり問題は残っており、後述のように、実は最後の如来の永遠性については曖昧なところがある。また、もし無記説を徹底して形而上学的な問題をすべて拒否したら、「アートマンがある」とも、「アートマンがない」ともいえないことになり、その立場からは無我説もまた主張できないことになる。徹底的に形而上学的存在を導入せずに問題を解決することができるのかどうか、このあたりにもどうも曖昧さがありそうである。
 なお、もう一つ無我説をめぐっては解釈上の問題がある。それは、最初期の仏教、恐らくブッダ自身においては、確かに超越的な実在としてのアートマンは否定するが、我々の存在の主体性そのものの意味ではアートマンを認めていたのではないか、といわれている。すなわち、アナートマンは「アートマンがない」ということを意味するのではなく、「アートマンでない」、すなわち、アートマンでないものをアートマンと認めてはいけない、という意味だというのである。その意味で、原始仏教のアナートマン説は、無我説ではなく、非我説だといわれる。そして、このような非我説が比較的早い時期に、先に述べたような無我説に転じたと考えられている。
 このように、無我説は原始仏教、あるいはそれにとどまらず仏教思想の中核をなすものでありながら、実は非常に問題の多い、かつ曖昧なところのある思想なのである。》(58-60頁)

 私は上記引用の考え方は非常に同感するものがあります。
 無我説や「無記」に関して、ブッダは不完全な、非常に誤解を招きやすい教えを残したように私には思えます(それを言えば、「解脱」に関してもそうです。解脱した後はどうなるのかはまったく不明です)。2500年も前の人に言っても仕方がないですけれども、仏教は初期条件付けがそもそも偏り過ぎているのではないかと(とんでもない暴言ですが)感じないでもないのです。


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5 コメント

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仏教の多様性 (今来学人)
2011-08-11 10:54:30
確か批判仏教の主役たちはチベット仏教におけるツォンカパの思想を最高のものとみなしていたように思います。ゲルク派における空は中観の帰謬論証派に基づくものでdhatuvadaのようなものは一切認めていなかったはずです。この空性の理論的理解がなければ密教の実践を有効なものとすることはできないらしいです。
あくまでゲルク派の場合です。

しかしことツォンカパの密教の解釈中における空性理解は顕教の空とその意味合いが若干異なることも指摘されつつあります。

いずれにせよチベット仏教徒(ゲルク派)における空は密教の扉を開く上で無用ではないように思います。チベットではインド後期の仏教思想が流入していってますので、日本や中国の仏教に比べるとよりその原型を留めているのではないでしょうか。もちろんポン教などの土着思想との習合もあるかもしれませんが。
仏教の多様性というものから肯定的な評価もなされてよいようにも思いますが、いかがでしょうか。
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今来さまへ (高森光季)
2011-08-13 23:45:22
ああ、そうだったみたいですね。ツォンカパ、ゲルク派は小生は全然勉強してませんので、何もわかりません(当時はニンマ派とポン教の関係の方が面白そうに見えた記憶があります。別にN氏の影響ではありませんw)。

>チベット仏教徒(ゲルク派)における空は密教の扉を開く上で無用ではないように思います。

そうなんですか。常々ゲルク派を最高権威とするチベット仏教がなぜあんなに密教ばりばりなのか、まったく不思議に思っていました。もし素人にわかるような部分がありましたらご教示ください。

ええと、当時思ったのは、
・帰謬論証は一種の懐疑論であって、「強烈な懐疑論の前では何も論証され得ない」(梅原伸太郎)のではないか。西洋哲学における「ヒュームのお化け」と同じではないか。
・それともからんで、「論争での勝利は真理であることを証明しない」のではないか。
・こういう哲学論争は際限がないなあ(フーコーだのデリダだのをちょびっと囓った後の「こりゃワシには無理」という感想の延長w。私にはローティの「プラグマティズムが健康でええやん」という方が共感できましたw)

多様性はいいことだと思いますし、「哲学」もおやりになりたい方々はどんどんおやりになればと思います。小生などが空思想に噛みついたところでそれはびくともしないでしょうし、「阿呆が戯言を言っている」くらいのものでしょう(笑い)。
前も言いましたけど、小生は哲学や思想をやっているつもりは全くなくて、単に「霊魂という事実」と、そこから見える風景を書いてみているだけで、そこから見ると、「空思想はちょっと本末転倒じゃないかしら」と思えるわけです。
(まあ、ついでに言えば、哲学や思想は人間精神の営みとしては大切なものであろうけれども、人間の知である以上限定のあるものであって、絶対真理などを標榜するのはおこがましいのではないかと思っています。もう一つ言えば、宗教は哲学に還元できないのではないか、と。)

ですから、「空が密教の扉を開く」というお話はびっくりで、ぜひお教えいただきたいと思う次第です。

変なレスになったかもしれません。失礼がありましたらお許しを。
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ゲルク派の空 (今来学人)
2011-08-15 13:32:16
高森さまの場合、空を即座に何か哲学的な難しいものと考えておられるように思います。確かにそういう部分もありますし、以下にあげるゲルク派の解釈も難解です。ただしゲルク派においては空の哲学的理解が実践的な瞑想を行うためには必要不可欠とされています。私はゲルク派の瞑想法を行ったことがありませんので、ここでは斉藤保孝『チベット密教 修行の設計図』を参考にさせてもらいます。斉藤氏はチベット仏教普及協会(ポタラ・カレッジ)の事務局長をされている方で自身もゲルク派の瞑想法を実践されておられる方のようです。彼によれば、本尊瑜伽(つまり仏との入我我入)を行う場合、「私は空であり、本尊も空でなければならない」とします。この「空」とは、たとえば私というものは手・足・身体というように確かに存在している。しかし私を私たらしめているものなんて徹底的に突き詰めていけば-推論を重ねること-存在していない(縁起しているから)。それが中道だといいます。本尊もそれと同様に考えるべきだと。
斉藤氏は自身のブログ(http://rdor-sems.jp/index.php?FrontPage)で

ラマが「生起した本尊は、空だから実体が無く、幻のように顕現している」とおっしゃったのを聴いて、「本尊や曼荼羅は、心にイメージしただけのもので、実際に存在しているわけではない」と思ってしまうのは、正しくありません。「実体の無い空」であるのは、自分自身も同じです。もちろん自分は、実際に存在しています。だからこそ、あれこれ考えたり行動したりできるのです。けれども、自分の実体を徹底的に追求すれば、「これだ」と掴めるものは何一つありません。それで、「空」や「無我」と言うわけです。
本尊や曼荼羅も、同じです。実体を徹底的に追求すれば、何も得られません。だから、本尊や曼荼羅は空です。しかし、そのように実体性を追求しなければ、本尊や曼荼羅は確かに存在します。

高森さまからすればこれは達人たちの仏教といわれるかもしれません。しかし東密においては入我我入の内実についてはそれほど明瞭に伝わっているわけではありません。法を伝える阿闍梨によって様々です。そのため本気で仏との瑜伽を行いたいと思う行者にとって、チベット密教の瞑想法は極めて明瞭で参考になります。
仏教学者はチベットの中観思想を哲学の範囲内で論じようとしますが、チベットの僧侶はそればかりで理解するとは思えません。やはり実践を前提にした上での中観があるように思います。その点、西洋哲学とはやや趣きがことなるようにも思います(否、そういう観点を持ち合わせた哲学者もいたというのならば教えてください!)

ちなみにゲルク派ではまず自身が仏とならなければ他者を救済することはできないらしいです。菩提心という視点からみると自らがまず仏陀となり、そのあとで生きとし生けるものすべてを悟りの境地へ導くのが「王者の菩提心」、あらゆる生き物とともに悟りの境地へ渡ろうとするのが「船頭の菩提心」、全ての他者をまずは悟りの境地に赴かせ、最後に自分が悟りに向かうのが「牧夫の菩提心」というらしいのですが、ゲルク派は本当に実践可能なのは「王者の菩提心」だけであり、それを追及すべきだということです。ますます達人たちの仏教かと失笑されるかもしれませんが、私は極めてあたりまえのことを言っているような気がして妙に胸に落ちるのです。「牧夫の菩提心」は今の真言宗の布教者が言いそうな文句ですが、自身が悟っていないのにどうして他者を仏の道に向かわせることができようかと懐疑の念を抱かざるを得ません。真言僧侶にとっては(一座の行法であっても)まず仏になることが重要なはずです(私本気で言ってます。笑われるかもしれません)その場合、ゲルク派における空の理念も積極的に学ぶ必要があるように思います。
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無我説 (今来学人)
2011-08-15 13:36:07
ちなみに無我説については、末木氏に言わせれば曖昧なものなんですが、他の人に言わせればそれが中道と解釈される場合もあります。仏陀はいわゆる無記の文脈で「アートマンが存在するとすれば常住論に陥るし、存在しないとすれば断滅論(虚無論)に陥る、それゆえ(私は)沈黙したのだ」と語る場合があります。こう言っている以上、無我説でもなければ有我説でもありません。そもそも仏教は無我説だという教義もこの一節を見ると採用できません。色々な含みを持たせているため、色んな解釈が出てくるんだと思います。「問題の多い、曖昧」とはあくまで色んな解釈が出てくることを知った上で批判文献学的な視点を持つ現代人(=学者)らしい意見やと思います。仏教徒として末木氏の見解を採用することは憚られます。
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今来さまへ (高森光季)
2011-08-15 21:07:19
真摯なご批判とご教示、ありがとうございます。いささか千鳥足の暴論にお付き合いいただき、これほどのレスをいただいて、本当に嬉しく思います。ブログをやっていた甲斐があったと感じました。
「無を哲学的に解釈しすぎている」というご批判は、まったくおっしゃる通りです。実は、昨日、瞑想の中で、ちょっと違う側面からですが、「上から」のお示しがありまして(こんなふうに書くとアヤシイ感じですがw)、小生自身も、その点は間違っていたなと感じていた次第です。そしてそれを別の側面から教わった感じがします。(これもシンクロニシティかもしれませんw)
その他、いろいろとご返事しなければならないことがありますが、それはまた長くなるので、別のエントリとして立てさせていただくことにします。ありがとうございました。
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