Cosmos Factory

地方は終焉を迎え、無秩序な空間は途方もなく宇宙まで続く。

西陽

2017-10-31 23:48:01 | つぶやき

 

 伊那市の新山川沿いにあった水田の様子である。平成の合併までの旧伊那市の中では、条件不利地をたくさん抱えていた新山である。後に高遠町や長谷村といった山間の村々が加わって、今ではこうした山間の水田は伊那市でも珍しくなくなったが、そこそこの傾斜地はあっても、比較的恵まれた地形条件下に伊那市の水田はあった。

 ようやく天候に恵まれる日が予想されているが、今週末である3日には再び「雨」という予報があって、こうした水田に残された稲はどうなるものか、と案じていたが、3日の「雨」も怪しくなってきて、もしかしたら天気が良いのではないかという予報に変化してきている。そうすれば、今週末あたりには、残されていたハザはもちろん、いまだ残ったままになっている水田の稲穂も、ようやくという感じに刈り取られることになるのだろう。秋のこれほどの長雨は、ちょっと記憶にないほどのもの。これまでにも何度も触れてきたように、水田に1ヶ月以上ハザ掛けされたままになっている姿もあった。悩ましい光景であったが、これほど雨つゆに晒された稲が、果たしておいしいのかどうか…。

コメント

できなかったこと

2017-10-30 23:28:59 | つぶやき

 昨日も記したように、記念号に原稿をあげようと思っていたが、実現できなかった。とりわけ「書こう」と思ったのは、これまで宿題にしていたものではなく、ある地域社会の姿からの今後を現わそうとしたもの。先ごろ日本民俗学会年会で唯一聞いた研究発表(危機的集落から見えた答えは)は、危機的集落ながら示したものは前向きな視線の上にあった。いいや、研究者が発表するにあたり、後ろ向きな視点で発表するわけにはいかず、前向きな視点で描いた構想かもしれない。しかし、現在の農村社会には、前向きにはとてもなれそうもない課題を含んでいる。だからこそ、前向きな、そして行政視線でゆけば模範的な方向で展開しがちな農村社会に、必ずしもそいった環境にない地域もあまたあるということをわたしは常々思っている。さもなければ、今後訪れるであろうこの社会の行く末など示せないと思っている。

 先ごろ訪れた集落は、周囲とは一線を画す集落だった。これほど多様化し、例えばそんな人々が会社で生業である仕事場で顔を合わせれば、能力という面で推し量る物差しは地域社会とは違った、素性とは無縁な等しい物差しにかかる。しかし、あちらこちらの集落を訪れると「この違いは、雰囲気は何なんだろう」、そう思わせることがよくある。もちろんそう思わせる景観は、裕福な景観である。そしてそれは自分が生まれ暮らした地域社会との比較の上に成立する。人は自分の見てきたものと「違う」ことに意識し、そして疑問を持つ。そして違う社会ではふつうに自分と同じように飲み交わす人々が、ひとたび家に帰ると、この景観をつくりあげた地域社会の人々とつきあっていく。そのつきあいにはいったいどんなものがあり、また、その地域社会でその人はどう意識し、人々と対峙するのだろう、そんな興味がわく。どれほど無縁化しても、地域社会と無縁というわけにはいかないのが現実。そうした地域社会が形成された背景には、ほかの地域社会とは異なった背景があるはず。もちろん今の世となってはその内面を露わにするような聞き取りはできないだろうし、多様化しているから皆が同じことを言うわけでもない。それでも何らかの地域社会を成す背景が読み取れれば得るものもあるのだろう。

 と、そんなことを思うが、実際のところ興味本位で塀に囲まれた世界に飛び込むことはたやすくない。ということで、とりあえず自分に密接な地域社会の現実を現し、地域社会の行く末を想像してみたいと思った。が、とりあえずこの宿題も来年に持ち越すこととなった。

コメント

記録を残す、ということ

2017-10-29 23:25:31 | 民俗学

 『長野県民俗の会会報』は、今年発行号(11月に発行)で40号を数える。言ってみれば記念号にあたるわけだが、そういうこともあって多くの会員に執筆のアプローチをした。少しくらいページ数が嵩んでも記念の号らしく仕上げたいという思いもあって、予定執筆者も多かったが、そのうちの一人だったわたしは、結局生業の忙しさに追われて執筆は叶わなかった。それでも多くの方々に執筆していただき、これまで発行されたどの号より厚い会報となりそうだったところへ、巻末に会の活動記録を掲載することになって、ふだんの倍のページ数を数えるほどの、まさに記念号になるという。

 何より活動記録は昭和46年に結成されて以降の歴史が詰まるものとなる。まとめていただいたのは倉石忠彦先生。創設時の主旨はもちろん、時々の会の動きが『長野県民俗の会通信』からまとめられている。印刷物の発行の歴史、そして例会や総会の内容などもまとめられている。そんな活動記録のこの1年のみを事務局であるわたしがつけ加えたのだが、過去のまとめを見ながら同じようにまとめようとしたら、ちょっと悩むことが…。まとめ方が時代によって少し異なっていたりして、遡って見てみると人名などに誤記があったり。ということで、校正を別の委員さんが主になってやっていただいたようだが、わたしのところでも一通り目を通すことに。

 一気にまとめられたものではなく、徐々にまとめられたものなのだろう、確かに内容には不統一も見られる。とはいえ60ページにも及ぶ記録を細かく校正段階で修正するのも迷惑だろうと、最小限の確認にとどめた。そんな中で感じることは、時代によって内容が前掲の『通信』を紐解いてもよくわからないときもある。かつてすでに終了した例会について、「通信に今さら載せてもしょうがないだろう」と思ったとき、記録として紐解いた時に掲載されていないと困るから、たとえ終了していてもどこかに記すべきだと教えられたことがあった。しかし、まさに『通信』に記録のない例会がある。近年は編集担当の方たちの努力で、例会が実施されると必ず「例会報告」を『通信』に載せていただいている。これが仇となって「例会に出にくい」なんていうことを漏らす人もいるかもしれないが、例会報告が必ず掲載されるから、実際の例会の内容が確認できる。今回の活動記録はそうした例会報告を紐解いて記録するところまでは至っていないが、前述したように『通信』に記録のない例会については、例会後に発行された『通信』から例会報告らしいものを紐解いて埋め合わせた。それでも記録がない『例会』がある。最も会が低迷した時代だったと言えるが、周りの人たちが支えないとこういうことになる、そういう現象だったのではないだろうか。

 記録を見ていて気になったのは、総会報告の内容だ。総会の報告はほぼ例年通り、という具合に報告されているが、新年度の計画は具体的に記されているが、本年度の活動記録はほとんど記載されていない。前述したように、例会の案内は掲載されるが、実際の例会の項目はどこにも記されない。したがって予告した例会と内容が異なっていると、記録には予告されたものしか掲載できない。中には予告したものの中止された例会もあった。活動記録だから、実施されたものでなくてはならない。このあたりが、『通信』からは読み取れないのである。実際の総会ではそのあたりを報告しているが、総会に参加された方以外の会員さんには予告でしか活動の様子はわからないというわけだ。活動記録をまとめていて、総会報告の内容は検討が必要だと教えられた。

コメント

“しぶき除け”

2017-10-28 23:57:02 | 民俗学

 

 「伊那谷の土蔵・後編」で“しぶき除け”のある土蔵のことについて触れた。伊那谷にある土蔵を見たとき、妻の部分に板やトタンによって“しぶき除け”と言われる雨よけが施されている例が、上伊那に特徴的に見られる。この“しぶき除け”は、土蔵にだけ見られるものではなく、ふつうの民家に施されている例も、今では少なくなったが見られる。

 写真は箕輪町木下の国道153号沿いにある民家である。南面の妻部分に、“しぶき除け”が施されている。今時の民家ではこうした光景は見られないが、古い民家にはこうした装置が見られる。

 実はこの“しぶき除け”はまだ真新しい。民家は古いにもかかわらず“しぶき除け”は新しい。これは、南側にあった建物を撤去したため、妻部分が露わになってしまい、雨から防ぐために新たに設けられたもの。軒を連ねる民家は、隣同士が接近して繋がるように建てられていたため、これまでは妻部分は露わになっていなかった。隣の家が取り壊されたために設けられたものなのだが、この妻部分の“しぶき除け”は、取り壊した隣の家が負担して施したものだという。このあたりでは相手側の妻部分を露わにしてしまった方が“しぶき除け”を造ってあげるのだと言う。よそで同じ例で聞き取りをしたことがないのではっきりしたことは言えないが、木下だけで言われていることか、よそでも言われていることなのかはわからない。

コメント

ゴミを出す、人々

2017-10-27 23:48:27 | ひとから学ぶ

 先週のこと、当番で地区のペットボトルと瓶の回収の手伝いを行った。地区には環境衛生担当の方がおられるが、一人では大変だということで、回収日に隣組長が当番で手伝うことになっている。今時だからとりわけペットボトルが大量にゴミとして出る家は多いが、「今回は少ない」と衛生担当の方は言う。なぜならば回収時間の最初から冷たい雨が降っていたからだ。ゴミが家によって特徴的なことは想像するとたやすい。生活の姿がゴミとして現れる。ゴミ袋に収まっていればゴミの姿はそう目に見えるものではないが、露出して収集するようなものは、傾向が見えたりする。

 たとえばペットボトルを買い物袋に詰め込んでいくつも持ち込んだ方、2人住まいなのになぜ「こんなにたくさん」、そう思った。もちろんため込んでおけばたくさんになるのは当然だか、その方は毎回収集日には持ち込むという。では、この大量なペットボトルは「何!?」と。

 瓶は色ごとに分別される。茶色い瓶の主だったものは、ドリンク剤の類。1ヶ月に1度程度の回収日とすれば、これを持ち込む人はたいがい本数が多い。誰でも飲んでいるわけではないだろうが、ゆえ出される家の様子がうかがえる。そもそも顔を合わせて回収しているから、持ち込む方も少しはそんなところが気になるもの。これを1年中うかがえる環境衛生担当の方は、地区内のゴミを出す家の様子がわかってくる。回収時間は1時間、回収時間が過ぎて片付けをしていると、瓶やペットボトルを手にやってこられた女性がいた。聞くところによれは、毎回時間ギリギリにやってくるという。自治会を脱退された方だから、他の人たちと顔を合わせたくなくてぎりぎり、というか終わったころにやってくるのかもしれない。今日は自治会を脱退された方も2人来られた。ゴミの関係で脱退しても協力金を支払えば、ゴミは出せるようになっている。もちろん手伝いでやってきているわたしには、協力金を支払われているのかどうかなど知る由もない。

 我が家ではペットボトルや瓶の回収日にそれらを持ち込むことは希だ。ペットボトルは別の回収ボックスへ、瓶はそこそこまとめて出している。したがって回収日がいつなのか、そもそも忘れていることが多い。

コメント

水の都

2017-10-26 23:40:18 | 農村環境

楽寿園 縄状溶岩

 

源兵衛川

 

 世界かんがい施設遺産、とはいえ、著名なかんがい施設がそれらに登録されていることは言うまでもない。長野県内でも登録されている施設はあるが、誰でも認知している施設であるということは共通している。そうしたよく知られたかんがい施設に限らず、“水”を導く施設のあり方は、農業がより一層厳しい状況に陥っていく今後、さらに広報していくことは必要になることは言うまでもない。先ごろある施設の管理者から、急遽「ここを直したい」という話があった。理由は用水路の脇に造成された宅地の法尻が湿気って困るというもの。漏水による湿気りが問題とされているわけで、原因者である管理者になんとかしろという苦情からくる。対策をしても継続するようなら裁判にするという、言ってみればこれ以上ない通告を受けたという。もともと造成地は水田。農業用の水路は水を掛けるために設けてあるから、土地よりも高いところを流れるのは当たり前。したがって漏水もごく自然の成り行きなのだが、それでは無関係な人々に理解はされない。これはコンクリートの製品を利用して整備されていた水路で、土水路でのことではない。ときにはコンクリートの水路で味気ないと言われた時代もあったが、そのいっぽうで漏水を一滴たりとも許さないという論理もある。こうした混在社会でかんがいするという実情は、さまざまな憶測や、駆け引き、妬みや嫌がらせ、そんな人の内面を垣間見ることになる。「嫌な社会」だという思いは消えず、いっぽうで良いところばかりを掲げて、言ってみれば虚像を創り上げる。世間などこんなもの、と諦めざるを得ないが、より一層そうした嫌な思いを内に込める時代になりつつあるのは、とりわけ農業を支える社会なのかもしれない。

 さて、世界かんがい施設遺産のひとつでもある源兵衛川を三島市に訪ねた。三島の中心市街地の中にある源兵衛川は中郷用水土地改良区などによって管理されている。源兵衛川の源は楽寿園である。三島駅のすぐ近くにある自然公園で、国の名勝ならびに天然記念物にも指定されている。この楽寿園内にある小浜池が源兵衛川の源流なのである。なぜここに源流があるかは、園内を歩いてみるとわかる。園内にある「縄状溶岩」は、富士山が1万年ほど前に噴火した際に流れ出したもので、このあたりまで流れ出して止まったというもの。末端部であるからこそ、富士山の伏流水もここまで流れてきて地上に姿を表すというわけなのだ。そうした湧水で成されるのが小浜池で、この池の水位は日々変化するとも言われている。とは言うものの、今はなかなか満水になることはなく、訪れた今日も渇水状態の池を見せていた。にもかかわらず、源兵衛川には豊かな水が流れている。これは「水の都・三島」の取り組みが成せたもので、「グランドワーク三島」の名はかなり世に知られている。グランドワーク三島のホームページにもあるように、「住民・企業・行政のパートナーシップを仲介することを通して、「水の都・三島」の原風景を再生し、子どもたちに受け継いでいくことを目指す」、そんなNPO法人なのである。写真のような自然流を下ること1.5キロ、そこに中里温水池があり、下流216ヘクタールほどの農業用水となっている。この用水路を起こしたのが地域の豪族であった寺尾源兵衛であり、小浜池に湧く富士山からの湧水を室町時代に引いたのだという。ところが現在の源兵衛川の水はとりわけ冬期などはそのほとんどが東レから供給されているという。安定的水源確保のためいろいろな案が検討され、そんな中から現在の東レからの供給水が実現したのだという。もちろん東レにだけ頼るのではなく、湧水の保全活動も行っているようだ。

 マチの中にもかかわらず清流が下る。脇のすぐに家々が立ち並び、「水の都」というイメージを醸し出している。ある意味、こうした取り組みが登録の原点にあるのだろう。

コメント

冷たい“雨”

2017-10-25 23:14:11 | つぶやき

 週間天気予報でしばらく晴れマークだったのに、いきなり雨である。それも朝から。この季節の天候不順は、近年の傾向だろうか。梅雨の時期より梅雨っぽいこのごろの秋である。これが収穫に影響する。我が家も「これが最後かも」と思って決行した脱穀を終えたのは、10月11日のこと。それ以降、おそらく脱穀をした人は翌日の12日を除いていないだろう。いまだハザに掛かったままの稲が、ちまたに点々と見られる。もちろんハザ掛けをほとんど見なくなった上伊那南部地域を除いてのことだが…。今週末も傘マークが見られ、今年ハザ掛けをして、いまだ脱穀ができずにいる農家には、頭が痛いことになっていはず。以前にも触れた我が家より早くに稲刈りをしたものの、台風でハザが飛ばされて脱穀を先延ばしにしていた家では、先週末の台風21号の強風で再びハザが倒れてしまったという。それでもってこの天候だ。ハザ掛けされた稲ばかりではない。ちまたにはいまだ稲が田に残っているところもある。

 今日は仕事の関係で雨の中を沼津に向かっている。山梨県に入ると、まだまだ水田に稲がたくさん残っているし、静岡でも残っているところが多い。遅い品種なのだろうが、天候不順による影響もあるのだろう。せっかくの富士山の裾野を走っているのに、富士山どころか近在の山々も霧の中である。

 さて、会議後の懇親会の席で「文化財と堰」で記した改良区の理事長さんに声を掛けさせてもらった。この会議に参加されると聞いていたので、今日の主目的のひとつだった。先ごろの文化財審議委員会の席で、文化財指定の見送りが決定し、市から理事長さんのところにも説明をされると聞いていた。今は使われなくなった堰を「大事にしたい」「後世に伝えたい」、そうした思いを結実すべく、地域では子どもたちにも学んでもらっているという。そうした思いがあるから、市では期待に応えたいという思いもあって、現地調査もされた。素掘りの隧道に担当の先生にも随行していただいて潜られたという。しかし、指定したとしてもどのような保存をしていくのか、課題が多いということはわたしの経験上から述べさせてもらった。地域の取り組みも重視したいから、今後の課題として認識した上で見送られた。そのことをわたしの観点として補いたいと思って話をさせていただいた。こんな席で、という意外性もあったのだろうが、理事長さんには感謝していただいた。とりわけ近年は、こうした施設の文化財意識は高まりつつある。明日はそうした事例のひとつでもある世界かんがい施設遺産の見学もある。単純に施設が残った、というものではなく、いかに地域がそれらに関わってきたかという背景を大事にしたい。そしてその視点を展開する手助けができればと考えている。

コメント

ものさし

2017-10-24 23:03:04 | つぶやき

 これまでの自分を振り返ると、より深いハードワークの時期を2度経験している。もちろん自分の経験としての印象であって、推し量るものさし上のものではないが…。

 ひとつはまだ社会人になる前のアルバイトだった。このことは以前にも触れているが、親戚の石材プラントで働いた経験である。大きなもので控え35センチほどの石、それ以下の石を何種類かに分ける仕事を素手で行った。親戚で働かせてもらったということ、一緒に働いた伯母さんがとてつもなくよく働く人だったこと、そんな環境で高校生とはいえ、ろくでもない仕事はできないと必死に働いた。今ならあまりに危険な仕事で、高校生に任されるような仕事ではないだろうが、あの時代には不思議なことではなかった。それぞれたった1ヶ月余りだったが、夏休みと冬休みの2度、働かせてもらったが、あのハードワークは身体への負担という面ではその後なかった経験である。

 ふたつめは平成10年前後、松本市誌の原稿提出期限が迫る中、社会人になってから最も忙しい時期を迎えていた。これもまた以前記したことだが、午前6時の開門と同時に会社のある建物に入って、閉門となる午後11時まで仕事を続け、それから帰宅すると原稿を午前2時くらいまで日々書いた時期もあった。忙しいからこそできたのかもしれない、不思議な時代だった。もはやどちらのハードワークも今ではできないこと。もちろんこのふたつのハードワークの時代以外にも忙しい時をいくつも経てきたが、身体的には前者を、精神的には後者を超えるような経験はない。

 故だろうか、何事も「できないことはない」と思い込んで引き受けると、近年は消化できずに迷惑をかけることも多い。経験値を現実の生活の中に表すことができずに尺度のズレを覚える。単純に年齢だけのこととは思わないが、かつてのような強い意志がないという証明なのかもしれない。そして何といっても「これこそ障害」と思うようになったのは視力の問題だろうか。近くが見えない、という誰しもやってくる年齢上の障害が、より仕事をする上で影響するようになった。致し方ないことではあるが、そんな障害は年齢とともにいろいろ発してくるのだろう。ものさしを少し修正しないと、そう思っている今である。

コメント

天秤の上の心うち

2017-10-23 23:34:12 | ひとから学ぶ

 「小池ワールド」の冒頭にも記したが、これもかつて記したことと同じかもしれない。

 結果的に予想に反せず、自民党が大勝した。とはいえ、そうとも言えないのは得票数でわかる。このことは報道等でも盛んに言われていることだが、あえて同じことを繰り返す。長野県の場合民進党系が強いから、全国的な流れとは言えないかもしれないが、比例代表の自民党票は約287千票。これに対して立憲民主党は227千、希望の党は212千、共産党115千、維新と社民合わせて88千にのぼる。公明党分104千票を合わせた与党票は約39万票、野党の64万票には遠く及ばない。世間が論じているように、確かに野党共闘であったならば、与党大敗なのである。しかし、希望の党が発し、民進党の右側と左側をわかりやすく分離したことでもわかるように、右左という分け方をすると、県内の与論は今回の選挙に限って言えばそれぞれ半々くらいといったところ。こう考えてみると、実は自民党の大勝の裏では、明らかに大敗も見て取れるのだが、今の選挙制度ではこれが現実なのだ。世の中には北朝鮮の驚異に対する考え方や、改憲に関しては現在の与党側の考えに賛同する者は多い。しかしながら、実際のこの票数をみると、必ずしも与党を支持しているわけではないことは歴然としている。ということは、実際のところ、「自民党を支援して下さい」と応援しても、抵抗感が世の中には強いことを忘れてはならない。このことを自問自答しながら、謙虚に、そして冷静に世の中を判断しない限り、天秤の上で自民党が浮かんでしまう時代も、そう遠くないということを暗に示しているのかもしれない。

 自民党支持者の皆さんこそ、このことを肝に命じることだ。

コメント

四十九日法要

2017-10-22 23:33:27 | つぶやき

 妻の母の四十九日の法要だった。1週間後は実の母の四十九日の法要である。

 妻の母の葬儀には結局出られずに、母を見送った。その際にも触れた通り、妻の母の送っていただいたお寺さんに、母の葬儀の伴奏をしていただいた。生家の旦那寺は、伊那谷の臨済宗の寺では最も檀家を多く持つ寺。鎌倉時代から戦国時代と、この地の豪族の檀那寺として栄えただけに、格式も高い。この時代でも専業で寺を維持して十二分に生計が立つ典型的な寺である。いっぽう妻の母を送っていただいた寺は、先代はサラリーマンをしながら住職を務めたほど、檀家数は少ない、それだけで生計を立てるにはけっこう厳しい寺。したがって生家の旦那寺のような大きな寺の伴奏として出向き、生計を立てる。大きな寺はこうして伴奏を小さな寺にお願いするが、自分が伴奏でよその寺の葬儀に出向くことはないという。

 できれば妻の生家の檀那寺に葬儀をやって欲しい、そう思わせる理由は妻の母の葬儀の際にも触れた。戒名の意図を説明された際に、通夜に居合わせた誰もがジーンとした。そして四十九日の今日、住職は再び四十九日を迎えたことに対して話をしてくださり、さらには「縁」ということについて思うところを話された。しまいにはわたしの母の葬儀の伴奏に行かれたことも「縁」のなし得たものとして語られ、まさにこちらもそこに「縁」を感じたわけである。

 寺が小さいこともあって、寺には墓はないという。今の時勢では墓を維持することもままならなくなっている。そうした中、共同埋葬を求める人も今は多い。そのあたりの考え方なども、後の宴席で聞くことができたし、同じ臨済宗の関わりある寺との話も聞けた。とりわけ生家の檀那寺の陰口を展開すると、いっぽうでお互いが助け合っている部分もあると、その寺を庇う様子も見られた。上下関係がけしてひっくり返らない世界での姿を垣間見たような気もした。台風21号の接近する雨中の法要であった。

コメント

延々と続く生垣

2017-10-21 23:24:32 | 民俗学

 

 古い町には町割といって間口が狭いものの、奥が深い屋敷構えの家が見られることはよく知られている。地方の今ならど田舎のような店が1軒もない集落にも、かつての町を思わせるそうした割地が見られ、かつてそこに町があったことを教えられることもある。こうした間口が狭くて奥が深い割地は、町にだけ見られたわけではなく、洪水によって流されてしまうような河川敷の割地慣行も珍しいことではない。

 写真の生垣は、伊那市のある段丘上に展開する東西800メートルにも及ぶ道沿いにあるもの。延々と生垣が続くさまはなかなかのものだ。もちろん屋敷の入口はその生垣が途絶えるが、ほぼ連続してこの光景が続く。これは生垣でもあるが、主旨は防風林である。段丘上ということもあって北風がもろに当たる。それを防ぐために形成されたもの。

 それだけなら生垣だけに目が留まって終わるが、実はこの集落は道沿いに800メートルほど並んでいる屋敷の間口は50メートルほどと、けして狭いわけではない。ところが間口に対して交わる方向に道を挟んで水田が広がり、屋敷の割と同じように北へその水田が続く。その奥行たるや400メートル近い。50メートル×400メートルとしたら、2ヘクタールにも及ぶ。さらに屋敷そのものも南へ100メートル近くあり、間口50メートルに対して奥行500メートル近い、とんでもない短冊割なのである。同じ地域の別の地に暮らす方で、話をされた方の家も、けして狭いわけではなく、立派な家構え。そんな方がこの地の家々を「オダイジン」と言うくらいだから、特別な地域なのである。聞けば高遠の殿様がこの段丘上に水を引いて、家来を住まわせたとか。あくまでも聞いた話であるが、このとんでもない生垣を目の当たりにすると、なるほどと思う。

コメント

奇石

2017-10-20 23:53:48 | 民俗学

 伊那市美篶の青島諏訪神社境内の脇に、神社から見れば背を向けた道路側に表を向いた石碑群がある。とりわけ「庚申」の文字碑が目立つのだが、摩耗しているものの、明らかに男神と女神の違いが解る道祖神が建っている。顔は摩耗のためかのっぺらぼう状態であるが、なぜか表情に温和さが漂う、そんな道祖神に思わず立ち止まってしまう。これほど男神と女神がはっきり解る例は少ない。摩耗しているにもかかわらず。それがはっきりするのは背の高さによるもの。背丈だけではない。身体の大きさもずいぶん向かって右側の像と左側の像には差がある。彫りは単純にもかかわらず、豊かさを印象づけるのはどこからくるかと考えると、やはりこの体型の違いのある二人が寄り添っているからそう思わせるのだう。背面には「宝暦十庚辰天正月吉日」とある。1760年銘というから、このあたりの道祖神の中では古い方にあたる。のっぺらとした顔には、当初はしっかりとした彫りがあったものなのか。背面の年号がしっかりと深彫りされているのとは対照的である。

 さて、双体道祖神の脇に、大きな凝灰岩系の自然石が立っている。かつて『長野県中・南部の石造物』を発行した際に、同書内に掲載した長野県道祖神一覧について、『伊那谷の石仏』を著された竹入弘元氏に、奇石を一欄から外したのは道祖神として認めていないということか、と指摘をされた。実はあまり注目されていないが、道祖神は文字碑と双体どちらかに分別できてしまうわけではない。山梨県のような丸石や石祠型の道祖神も少なくはない。そして何といっても奇石、あるいは陰陽石を道祖神として捉えておられる地域も多い。とりわけ竹入氏が昭和55年にまとめられた『長野県上伊那誌民俗篇』の中の道祖神一覧をみてみると、「奇石」の道祖神がずいぶん多いことがわかる。

 全景の写真でもわかるように、双体道祖神の右側に背の高いごつごつした石が立っている。奇石という形態の道祖神を知らない人は、これを道祖神と考える人は少ないだろう。それほど奇石の数は多くともメジャーな存在ではない。前掲の『長野県上伊那誌民俗篇』における道祖神一覧を見てみても、かつては奇石の道祖神が多かったことがわかる。ちなみに双体道祖神に向かって左手に立つ「庚申」のさらに左側にも道祖神の横に立つ奇石と同様の石質と思われる自然石が立っている。これも奇石であったかは分からないが、こうした奇石が道祖神とともに並んでいる例は多い。いっぽうでかつてはたくさんあった奇石が、今はずいぶん姿を消してしまっていることも事実である。

コメント

小池ワールド

2017-10-19 23:01:01 | つぶやき

 以前にも同じようなことを書いた記憶がある。これは図られたものではないか、と。衆議院選挙に絡んでのことである。

 小池東京都知事が新たな党を起こして、風を吹かせようとした。あっと驚いたのは、野党第一党の民進党が候補者を出さずに希望の党に合流するということだった。希望の党側にしてみると「合流ではない」と言ったが、傍目にはそうは見えなかった。このあっと驚く民進党の分離劇が小池ブームを後退させていったのは、今の流れをみれば歴然としている。世論調査では当初の流れに反して自民党圧勝の雰囲気すら漂う。世論調査があまりにも安倍政権寄りになるから、それに反して逆の流れがあればまだしも、そうした感じはない。

 もともと自民党にいた小池東京都知事。そして自民党の政策とほとんど変わらない。これってもしかしたら自民党が負けないように仕組まれた策なのでは、と思われても仕方ない。民進党を壊滅させるための策、といった方が良いだろうか。あの自民党が下野した時代に、わたしたちはずいぶん当時の政権政党にいじめられた。そのことはけして忘れない。だから二度とあの人たちには返り咲いて欲しくないと思っているが、確かに最近の安倍首相はおかしい。そしてこの選挙序盤のテレビにおける討論を聞いていると、ちょっと病にかかっているんじゃないか、そう思わせるほど発言もおかしかった。ところが後半に入って希望の党失速の流れが大勢を占めてくると、あの安倍さんのうろたえた顔は消えていた。もしかしたら安倍政権末期になるはずだった解散劇は、意外にも小池ワールドによって復活したのだ。

 繰り返す。同じようなこと、かつてもあったように思う。

コメント

車線規制の原理

2017-10-18 23:45:35 | ひとから学ぶ

 久しぶりに長野まで行った帰り、すでに午後7時を過ぎていたが、高速を伊那へ向かっていた。往路でもそうだったが、中央自動車道は伊北と岡谷ジャンクションの間で再び大規模リフレッシュ工事が始まるようで、規制が始まっていて少し混雑していた。長野道を走っていると「岡谷ジャンクション―伊北インター間渋滞」という表示があって、上り4キロ、下り2キロという表示が見えた。それほどではないだろうと思ってそのまま進むと、岡谷ジャンクションの入り口からすでに渋滞。どこから規制区間に入っているのか、そこまでどのくらい距離があるかは解らず、どこまでこんな状態なんだろうと不安が募る。そもそも長野道から中央道へは本線である中央道に左側から合流する形式。したがって本線2車線が渋滞していれば、長野道からの入り込みは譲ってもらえないとできない。もちろん渋滞しているから本線上の車も譲ってはくれるが、どうしても「入りずらい」という意識は長野道側に重くなる。なんとか本線上に入るものの、ほとんど車が前進しない。時おり進むものの、すぐに停止して、「なぜ動かないんだ」そう疑問符ばかりわく。

 見ていると道路脇には「交互合流」という表示板が間隔をおいて立てられている。ようは1車線に規制になるところでは、交互に譲り合ってください、という意味。ところが追越車線側の車の方が進みは早く、走行車線側の車の方が進みは遅い。追越車線側を後ろの方からやってきた車が、徐々にではあるが前へ進み、わたしたち走行車線側の車を置き去りにしていく。規制区間に近づくと気がついたのは、左側車線側(走行車線)に収束しており、右側を走っている車が左側車線に入り込んでいくという規制形式。にもかかわらず左側より右側の方が進んでいく。「交互」と表示されているのに「交互じゃない」と不思議に思って見ていると、その理由がわかった。

 規制箇所まで200メートルほど手前までくると、右側走っている車が左折の方向指示器を点滅させて左側に入りたいと意思を示す。すると左側にいる車は意思表示した車を入れてあげる。ところがまだ200メートル手前ということもあって、規制箇所まである空間に前進していって同じように意思表示をする車がいる。ようは空き空間ができるから、そこにどんどん後ろから車が詰めていく。意思表示すると左側の車が入れてあげるから、随時右側を走る車は左側車線にどこかで入れる。けして走行車線の人々の方が「お人よし」だというわけではない。これは右側へ収束していれば、おそらく左側車線の方が流れが良いはず。もちろん追越側を走っている人の方が、気が荒いかもしれないが。

 ということで、たった4キロほどの渋滞なのに40分くらいかかってようやく規制区間に入ることに。ところが1車線になったにもかかわらず、車の流れはとても悪い。時には止まるようなときも。「なぜ」とほとんどの人が思うだろう。そしてその「なぜ」は解消されない。規制区間残り3キロほどまで進むと、車は急にスピードが上がり、100キロくらいまでになる。どうして流れが詰まるのか、まったく意味不明である。

コメント

伝えられない“術”

2017-10-17 23:40:42 | つぶやき

 あるため池の管理組合の方からこんな話があった。「ため池に土砂がたまってしまって困っている。底樋かを開けたら土砂が排除できるような仕組みがないか」と。この日記でも何度も触れている通り、我が家の稲作はため池に水源を頼っている。そして先月末にしたように「ツボ採り」と呼んではいるものの、本来ため池の水を干してため池の状態を確認する意味でこの作業は行われている。ところがツボを採ることが優先されて、ため池の管理の方は二の次にされてきたことは事実だ。毎年泥が溜まってきて、ため池の様子が変わってきていることは解っていても、それをどうこうするだけの状況ではない。ため池の浚渫というのはため池にはつきものではあるが、実際にそれを行うには大金がかかるし、我が家の稲作の水源であるため池には、車の入れる進入路がないことから、容易ならぬことはみんな解っている。したがって放置されてしまうというわけだ。もともと人力がすべてであった時代には、それをどうにかして処理する方法を会得していたのかもしれないが、今はその方法を知る人もいない。

 冒頭の話、もしかしたら従来の施設でも泥を吐く術があったのかもしれない。底樋とはため池の一番深いところに付けられると「泥吐け」とも言われた施設である。通常は円形のヒューム管なるものが入っていて、ため池の堤体を貫いて、外側の法尻まで底の水を誘導することのできる施設だ。ゲートによって普段は締められているが、ため池の水を払う際には、これを開いて水を逃がすわけである。したがって頻繁に底樋の口を開いて管理すれば、それと同時に少しずつ土砂を排除することができるが、1年間に溜まった土砂は簡単に排除することはできない。これが何年も溜まっていけば、底樋から排除するだけでは処理不能となる。年々の管理の際に、何らかの策を講じていれば、それなりに土砂を排除できるのだろうが、結局今のわたしたちため池利用者には、その術が伝わっていないということになるだろうか。

 先ごろある土地改良区で雑談をしていると、かんがい期間に「水番」と言われる人たちの「姿が見えない」という話になった。「水番」は井の掛け排はもちろん、井の様子を日々確認して、問題がないように処理して回る人々をいう。同じ改良区のエリア内でも、地域によってその役割は異なるようだが、用水路の状態を確認する役割は共通している。そしてそういう人たちにはそれなりの報酬も支払われているというが、その人たちがふだんの水田空間から消えてしまっているというのだ。そもそも「水番」なる者の役割すら伝達がちゃんとされていないのではないか、という話になった。

 時代は耕作の集約が進み、かつて農家と言われていた地権者も、まったく稲作に関わらない人たちが多くなった。何でもない慣習、あるいは技術の伝達がされなくなっているとも言える。それはこと農耕にかかわらずとも、ふだんの生活の中にも現れているに違いないのだが、あまりに小さいことで、気づかないことも多いのではないだろうか。

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****