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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

人のいないマチ

2009-07-16 22:12:05 | ひとから学ぶ


 午前5時の風景ではない。マチにはわたし以外誰も歩いていない。かつてならこれはまさに午前5時の風景だったのだろうが、今はこれが当たり前なのかと思うほどの午後6時前の風景である。この日、わたしは飯田にある部署の慰安旅行だということで留守番を仰せつかって飯田で勤務した。定時に会社を出て飯田駅前の通りである中央通りを駅に向かって歩いた。木曜定休の店もあるようだが、だからといって定休の店ばかりというわけではない。おそらくこの日定休日の店は一割にも満たないのかもしれない。「永らくお世話になりましたが…」という貼り紙がされてシャッターの下りた店が銀座通りに見えた。高校時代に歩いた駅までの道には、かつてと同じように営業をしている店もあるが、いっぽうでつい最近、高校時代にあった店が閉じてしまったという事実も知った。高校時代は帰宅部だったから、このマチをよく歩いてものだ。高校はマチの片隅にあった。今や飯田の丘の上と言われるマチの中に、高校は一つもない。地方といえば電車内を高校生が席巻するように、彼らや彼女らくらいしか賑わいを見せる影はない。その影がこのマチには無いのである。もちろんかつては高校生だけではなかっただろう。社会人もそこそここのマチに姿を現し、そして飲み屋ではなく店にその姿を消して行ったものだ。ところがどうだろう、このマチには大人が歩いていない。かつて路上駐車で迷惑だった中央通りも、その後パーキングチケットが導入されが、今はそのようなスペースも不要なほどにマチは車の姿も少なくなった。

 ここから駅まではそこそこの道のりである。電車の時間までゆっくりあったので、それこそあたりを伺いながらゆっくりと歩いた。かろうじて風越高校の女子高生と数人、私服だからどこの高校生か定かではないが、男子高校生の3人連れに一組会っただけ。それだけのマチである。人通りが多くて、怪しい店に足を踏み入れるには人目をはばかるなんていうような雰囲気はここにはない。子どものころにはマチというのは憧れの場所だったような気がするのだが、同じ気持ちを、今の子どもたちが抱くことはないのだろう。それにしても県の合同庁舎の西方に立ち並ぶ高層ビル。いわゆる再開発でできあがった建物であるが、そんな建物に人が集まるいっぽうで、駅前から東にのびるマチは情けない状況になってしまった。集約化したビルがなぜこのマチに必要なのか何度考えても解らない。分散したマチを「歩く」という楽しみはここにはない。駅のあるマチ、そして人が暮らすマチが再生のカタチだとわたしは思うのだが、飯田にはそれは見えない。

 さて、飯田駅から電車に乗る。ほぼ同じ時間帯に乗っている伊那市駅とは少し雰囲気が違う。駅に着くごとに高校生が乗ってくるが降りていく高校生も多く、予想通り飯田側を中心とした飯田線には乗客が少ない。大人の姿がそこそこあったものの、みななかなか降りない。飯田から乗る大人の乗客は比較的遠距離組が多い。ということはどういうことかというと、比較的飯田近在の人は電車を利用しないということになる。考えてみれば若いころ電車に乗るなどということは考えてもみなかった。どれほど近くても車を利用するというこの地域独特の感覚があった。「なぜ車を使わないんだ」みたいな。前述したマチのこともそうだが、地域のこと、基本的に発想を変えないと良いマチは作れないのではないか。
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改称したからといって解決しない

2009-07-15 12:30:07 | 民俗学
表記のこと」より

 かつてわたしは被差別のことを「」という呼称を取り上げて表記し、誤り訂正を出すはめになったことがあった。認識不足といわれればその通りなのだが、ときに一般に使われている呼称と公な場ではその扱いに注意が払われることがある。それは差別に関わらずそういう表記上の違いは現れるわけで、とくに「被」という単語はよりその立場を明確にする際によく利用される言葉である。しかし、通常ではあまりそのあたりは意識して利用されず、日本語においての曖昧表現の特徴的な捉え方ともいえる。時代は被差別を特別取り上げるような状況ではなくなりつつあるが、それはそうした差別にかかわる事例をあまり耳にしない地域に住んでいるということもあるだろう。かつてこの被差別についても触れたことがあるのでそのものについては譲るとして、わたしは同僚が盛んに口にした「」という言葉の背景を、彼にとって被差別とは何か、という意味合いで「」という呼称を前面に出して書いてしまったわけである。ただし「」=被差別ではないことは承知のとおりで、とはいえそのいっぽうで「」という呼称に対して日本人の多くが意識してしまったことも事実である。

 先ごろの飯島町議会において数年前まで町の要職を務めた方で議員になられた方が、「コーチという呼称はよそから移り住んだ人に違和感を与えるので、自治会などの呼称に改めたほうがよくないか」という質問をしていた。コーチとは地域の末端の集落のことをいい、漢字で書けば「耕地」ということになる。この発言の背景を少し考えてみよう。この意見をされた方がかつて町の職員だったということは、当然その表記などを意識する公の立場で毎日を暮らしていたという自負もあるだろう。したがってこうした意見を発する背景が十二分にうかがえるわけである。そしてそれがすでに町の職員を辞め議員と言うさらに職員の上に立つ者としての役割だと判断したのかは定かではない。何を言いたいかというと、もしコーチという呼称に問題視しているとすれば、なぜ町の要職についていたときにそれを問うことをしなかったのかということになる。もちろん本人はそういう意見を当時から持っていて、発する機会もあったのかもしれないが、いずれにしても最も公に組している場にいる人たちには、もし公の上で問題があっても、なかなか行動として発せられないという立場と職務上の問題もうかがえてしまうのである。そして公という場にいたからこそ、そうした視点をどこか内面に持ちえていることも事実なんだということをここから読み取れるわけである。実はこのコーチという呼称については、わたしが飯島町に住んでいたころからよそから移り住んだ人たちには抵抗が強かった。いわゆるミニコミ誌や新聞の投稿欄にそうした意見を見た記憶が何度かある。ただ飯島町そのものがあまり人口変動がなく、よそから移り住む人の絶対数か多くないということもその意見がそれほど改称するほどのものにはならなかったということはいえる。

 果たしてこのコーチという呼称に違和感を覚える人たちのために改称しなくてはならないのかどうかについては別の項に譲るとして、飯島町ではコーチという呼称のほかに「」という呼称もかつては利用していた。わたしの記憶ではコーチよりはむしろ「」の方がなじみ深い。ところがいわゆる被差別問題とに絡んで、こうした呼称は消えていくことになった。これは飯島町に限ったことではなく周辺も含めて全国いたるところで起きたことであろう。あくまでもこの地域には被差別という捉え方の集落がなかったということもあって、地域では「」を呼称に与えることはなんら問題のあることではなかった。しかし「」と口にすることに多くの人が抵抗を感じるようになっていく背景には、いわゆる同和教育があったと言えるだろう。ようは差別問題を解決するどころか自らを差別視の中に置かれてしまうのではないかという不安から発生する差別への逃避ということになって今を迎えているとも言えるだろう。はたして「こんな時代だから」といっている「こんな」とは何を意味するものなのか、わたしたちは逃げ口上として表記を単純に変えてきたに過ぎないのではないかと思われるのである。

 石垣氏の言うようにこうした問題には前面から対峙することが必要である。「民俗の表記としての民俗語彙は、民俗学の初発の動機であるとともに、今後の豊かな可能性をもった思想である」という石垣氏の言葉を、わたしはもっといえば言葉にどれほど差別視されたものがあろうと、それこそがわたしたちの築き上げてきた社会の本質が見て取れると思うのである。
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山の変遷

2009-07-14 12:22:35 | 歴史から学ぶ
 北原由夫氏が長野日報の長期連載において「寂れゆく山里」と題して自らが生い立ちし村の変容を追憶している。7/11付同紙では「三義中が高遠中と統合」という見出しをもって学校の変容を述べている。見出しの統合が正確には昭和何年のことか記述の内容からは定かではない。そこでこの経過を追ってみる。

○義務教育となって新制中学が発足-昭和22年/建てられたのは山室の宮原である。建設場所をめぐっては山室に対し、荊口と芝平とが通学距離の公平性を期すようにと主張し難航したよう。
○宮原は小豆坂峠を介して藤沢谷の板山に隣接する。ようは藤沢谷とはもっとも近い位置にあるといってよい。この小豆坂にトンネル掘削計画化具体化し、開通したのは昭和28年。
○中学校舎の竣工は新学制となって4年余の昭和26年師走。昭和27年1月には新教室で学び始める。
○新校舎で11年続いて昭和38年(計算上11年経過すれば38年と思われる)、バスが定期運行となる。「時折小母さん方とも一緒になる。ほとんど知り合いだから「がんばれよ」などと声をかけられる。応えて「ハィ、」と小さく頷く」とは北原氏の言葉。
○そんな歳月を送るうちに閉校。卒業生は開校以来数百人余り。

と言った具合に北原氏の文脈から経過を羅列してみた。卒業生の数、そしてその経過年からみるとここに中学が存在したのは10年の余ということになる。戦後の時代の速さは、そこに身を置かなかったわたしたちにはまったく理解できないほど速かったに違いない。「建築には多額の費用を要し、相当額を拠出している。その返済も終わっていない。耐用年数も十分あると考え、方法を探したけれど適切な用途がない」という当事の様子はその速さの中で翻弄された山間のムラの苦悩が見える。新制中学が発足し高度成長へ向かうなか、昭和の合併も押し進められた。後には過疎対策として移住という選択も山間には求められた。この日記で何度も取り上げてきた芝平はこの北原氏の追憶の舞台にもなっている。「ほとんど知り合いだから「がんばれよ」などと声をかけられる」世界は、先日触れたイタリアのトレント市の話に重複する。今のような地方にあっても隣の見えないというのとは違い、まったく毎日が変わることなく同じ顔で連綿と続く日々において、人々は変化を求めてきたに違いない。だからこそ、必要と思われて造られた校舎も、さほど月日を経たないうちに廃校の道を歩むことになる。廃村をめぐるHEYANEKOさんは、廃村の目印に廃校を目指すという。それら山間の廃校は、この三義中学と同じ道を歩んだことだろう。きっと速い変化に追いつけなかった山間だったのだ。あっと言う間に人は減り、山に来ていたよその人たちも来なくなったのである。一つのこともなかなか推し進められない現代の課題に、わたしたちは逆の意味で関心を寄せられていないことに気付いてほしい。

 小豆坂トンネルをくぐり、宮原で県道に交差したところがこの中学が置かれたところである。だいぶ学校跡という雰囲気は消えてきたが、ここに優良農地を潰して中学が建てられたのである。
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表記のこと

2009-07-13 12:22:55 | 民俗学

 石垣悟氏は「民俗を表記する」(『日本民俗学』256)のなかで民俗の世界で多用されるカタカナ表記を含め、その表記の問題について触れている。民俗語彙と言われるものはカタカナ表記されてきた。その理由は特定の漢字を当てはめることによってその意味が固定化されてしまうという資料のありのまま的な扱いに対応するものであっただろう。ようは言葉として発せられたものを書き留めたときにそれは漢字ではなくあくまでも発音上の言葉であって、人の口から発せられる言葉はそのまま漢字まで表しているわけではない。わたしたちは経験の上、そして標準語と言う学習の上にたって、言葉から漢字を浮かべているわけであって、意味不明な言葉、良い例は方言になるだろうが、そのような言葉に漢字を想定することはできない。もちろんその際に「漢字で書くとどういう字になるのですか」と聞くことはあるが、必ずしもその漢字がその地域で使われてきた歴史上において正確かどうかは判断しがたくなる。逆に言うと、言葉と言う明確ではない人の記憶に頼っているものには正確性というものが問われないという非学問的な批判を受けることにもなる。そうした証拠を厳密化していないということも、こうした曖昧な資料化を助けてきたとも言える。漢字を当てはめるために労力を費やすことの意味があるかないかということにもなる。そういう意味では民俗学は、とても合理的な方法としてカタカナ表記を定着させてきたといえるだろう。何度も言うが、漢字を正確に充てることに民俗として意図が見えれば必要だろうが、そこに意図を見出さないとすればそれは重視していないという意思表示にもなる。もちろん一般人にはなかなか理解されないかもしれないが、あくまでも発音は同じでも意味の異なる地方色が現れる可能性があるからこそのことなのだろう。もちろん漢字を当てはめることでその意味が想定し易くなる事例が多いことも事実で、資料として捉える場合も参考として漢字表記されていることは意味のあるものだろう。

 さて、石垣氏は博物館で自ら経験した「いざり」についての顛末を事例とし、差別問題と民俗学について説いている。「展示資料の中に魚沼地方で使われたイザリバタと呼ばれる機があった。このとき館内の職員から「イザリバタには『いざり』という差別用語が含まれているから、展示資料の名称として表記してはいけない」と言う指摘を受けたという。そして「『地機』と表記するのが正しい」ということになったが、果たして「イザリバタ」を「地機」と言い換えることが可能かと考えたという。結論的には「言葉として表現する際に差別用語と受け取られる可能性の高い用語を使うことは断固反対である。たとえ自身に差別の意識がないとしても、自らの言語表現において受け手に蔑視を汲み取らせてしまうような言葉をわざわざ使う必要は全くない」が、「イザリバタ」を使ってきた魚沼地方の生活に「地機」は存在しない。ここではイザリバタはあくまでもイザリバタであり、これを展示で「地機」と表記することは魚沼地方の人々に背を向け、あるいは差別することにならないか」といい、言い換えることなく、ありのままで表記し、注釈を入れることで差別と向き合っていくというものを導いた。「差別から目を逸らすのではなく向き合うことでしか、民俗学が差別問題に正面から取り組む道筋を示すことはできないと考える」と石垣氏はいう。最もなことなのであるが、一つ気になったのは事例の場合は、魚沼地方ではこの「イザリ」という言葉に差別意識はないというが、果たして差別意識がある中で使われている例ではどうなのか。石垣氏の文脈からいけば、言い換える必要があるとも捉えられる。

 世の中には差別用語と限定されたものもあるのだろうが、差別そのものは言葉から始まる。そしてそれを差別と思うか思わせるかも含め、正確さに欠ける用語もある。校正上で書き換えられてしまうほど背景は簡単ではなく、またそれを書き換えずに使用するのも捉える側はさまざまである。批判を恐れているのではなく、無知なことを学ぶべき方法として、隠すことなく表記をする必要もあると思う。

 続く

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中心市街地の役割

2009-07-12 22:03:43 | 農村環境
 7/5付「長野県政タイムス」の「鈍行列車に乗って」において扇田孝之氏は、「商店主の目先の利害得失が先行する中心市街地は、やがて滅んでいく」とイタリアのトレント市における中心市街地の事例を上げて紹介している。このトレント市は人口11万人でイタリアの県庁所在都市を対象とした「生活のしやすさ総合評価」において第1位を獲得したという。その生活環境とはこうだ。平日は閑散としている市街地が休日になると賑やかになるという。「お昼近くになると、レストランはどこも家族連れや若者のグループ、ガップルで満員御礼の盛況。広場や小粋なブティックなどが立ち並ぶ通りは、買いものやウインドウショッピングの人波で溢れている。この賑わいは3時ごろやや静まるが、夜の9時過ぎまで続くのである」といい、そうした状況でもけして市街地が自家用車で渋滞するということはほとんどないという。その理由を次のように扇田氏は解説している。「人口の少ない山間部方面のバスを10人乗り程度の小型バスに転換した。そして、どんな地域へも、昼間は30分から40分に一本程度の間隔で運転している。さらに、市街地でゆっくり過ごせるように、最終バスを午後10時前後に設定」しているようだ。扇田氏はこれを「中心市街地の役割」という表現をしている。この現象をトレント市の関係者がこんなような言葉にしている。「周辺には、人口が数十人、数百人単位の小さなムラがたくさんあります。四六時中同じ顔を見ながらの生活は息が詰まってしまう。中心市街地は、狭いムラの暮らしで溜まったストレスを発散する場でもある」と。扇田氏は「中心市街地の大切な要件は、顔見知りと出会う確率を最小にする広さと雑踏、何度も足を運びたくなる多彩な選択肢と新鮮な情報をつくりだすこと」と言う。そして冒頭の結論に行き着く。

 利用しやすいというのはもちろんだが、これは中心市街地とその周辺との役割分担があるとも言える。そして当然のことであるが、どちらも欠けてはならなんいということになるだろう。ようはどちらも自らの立場を上下関係で見てはならないのである。このあたりが日本にとって最も問題なことなのである。しかし日本の歴史上の関係からすれば、このようなトレント市のような関係はなかなか持ち得ないだろう。11万人といえば長野県内では飯田市がちょうど等しい位置にある。そして同じように周辺に小さなムラが分散している。しかし、その中心市街地という立場はどうだろう。現状を見る限り郊外型大型店に席巻され、中心市街地という空間は閑散としたものである。もちろんかつては違った。おそらく昭和50年代が最後だっただろう、そういう関係は。その当事までは「マチ」という存在に憧れ、毎週と言うようにマチを訪れることはできなかったが、催しがある時を狙って周辺のムラ人は出かけたものなのだ。そういうマチは、ムラとの関係を維持していたとも言える。ただ、そこには上下関係は存在していたに違いない。それが後に関係を悪化させていく用件になっていく。もはやマチもムラも中心市街地に求めるものは損得ばかりなのである。そして扇田氏が言うように、利害ばかりに明け暮れてやがて関係はもちろん地域は滅んでいくのである。こうした物語をいたるところで繰り広げているのである。
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法則

2009-07-11 23:40:49 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんは「通勤時間は短縮しない」と言う。「大昔は職場である山や畑には歩いて行ったのだろう。恐らく30分とか1時間かけて。やがて電車やバスが出来て歩かずに済むようになったけど勤務場所は畑ではなく工場。そして通勤時間はそのまま変らず30分とか1時間。新幹線通勤なんてのも出て来た。でも15分で行けるようになったかというとそうではない。在来線では時間がかかり過ぎて行けない所からの通勤なのでまたしても通勤時間は30分とか1時間で変らず。サラリーマンは電車が速くなっても関係無い」と通勤時間のことを解析する。ようは高速化したといっても通勤時間は変わらない、というものだ。都会では1時間なんていう通勤時間は当たり前で、2時間だって珍しくない。でも実は誰もがそうなわけではなく、中には15分で通える人たちだっているのだろう。しかしいずれにしても混雑を緩和しようとして策を施しても、ますます集中したりする。ということは予測が甘いということになるかもしれないが、人間は苦労を好まなくなった。「そんなの当たり前だろう」といわれればその通りなのだが、人間は本能的に自分に火の粉が舞ってくるようなことをしない。頭脳が高等化したのか、進化とでも言った方がよいのだろうか。

 合理的とか先進性というものは、つまるところ人間社会に紛れ込んでしまえば人間そのものの生活には変化を与えないということだろう。その要因は人間は悪知恵をいつまでも永久に考え続けているからだ。環境が変化してもそこに合わせるように違う種を植え付ける。だからそれまでなかった仕事が増えていく。この時代の構造はまさにそのとおりだろう。きっと知恵を持ったと錯覚しているだけなのかもしれない。「通勤における法則」とボッケさんは解いたが、通勤に限らず人間社会の法則なのかもしれない。何が正しいか答えが出せない政治のように、またそれに翻弄されてあたかもこれが正解と思われる評論を耳にしながら惑わされる。確かなるものと思われながらもそうでない。例えば6ヵ月前に麻生総理を選出した自民党議員が、世間の顔色を見て「降りろ」と合唱するあたり、結論的には何が正しいか自らが理解していないということに違いない。その原因が道半ばに放り出してきた「首相」という座に着いた人々の無責任でも何でもない。何が正しいか見出せていないこの社会の問題なのだ。

 ところで電化されていない路線沿線では一般的に「汽車」と呼ぶ。どれほど時代が進んでも、さらには「汽車」など走っていなくとも「汽車」と呼ぶ意識がとてもいい。そういえば飯山線沿線でもそう呼ぶ。飯山に暮らすようになってこの「汽車」という言葉を聞くようになってはじめはとても違和感があった。もともと電化されて開通した飯田線沿線に暮らした者には、何をもって「汽車」なのかさっぱり解らなかったのだ。人は暮らしの中でイメージしたものを積み重ねていく。当たり前のようで当たり前ではないこと、それがそれぞれの人の暮らしなのだ。
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終焉へのプロローグ

2009-07-10 12:24:04 | 農村環境
 「農家」の捉え方を先日した。農家といえるかどうか怪しいほどに「農家」という存在は明確ではなくなった。農外収入に依存する「家」が多くなるとともに、そもそも農家という存在はどういうものなのかという曖昧なものに変化した。もちろん農家たる基準はあるものの、それでは納得できないほどにそう呼ばれる家の生計は多様化したともいえる。生計のうち農業に依存している比率が高いという捉え方をすると、農家という存在は特に少なくなるのだろう。そして山間にいけばそのほとんどは高齢者の家ということになる。わたしも含めてふだんの生活を農外に求めている者にとっては、農業などというものはほとんど理解できていないのが実情であって、もっといえば農家という空間を知らずに生まれ育ち、そしてすでに子どもを育てている。都会の子どもたちが農業体験をすると同じくらいに地方の子どもたちも農業には触れていない。だからといって体験すればすべてよしというものでもない。このあたりでよく行なわれる中学生の職業体験ではないが、具体的な仕事を体験するだけでその仕事環境まで体験できたというわけではない。

 たやすく農家を、そして農村を体験するなどとは言えなくなった。生活と密着していた生業はその仕事だけ体験すれば終わりというものではない。生活のすべてが生業と絡んでいた。会社に神棚はあってもその神様に関連した行事はない。会社に仏壇もなければ墓地もない。ところが農業はそうしたもろもろのものすべてを包み込んで営まれてきた。

 高齢農家が農業から身を引いたとき、どれほどの後継者がふたたびこの世界に戻ってくるだろう。今危惧されているのは、農業を営んできた人たちの定年(定年というと定められた時期に引退するようにうかがえるが農業の場合は必ずしも定められた時期はない。これもまた生活と密着している生業のなせるものであって、おそらく死期が強まるころになるのだろう)後のことである。耕作放棄地解消に向けて国は施策を前面に出しているが、現在農業を営んでいる人たちの定年がこれから増えてくる。そのときにはもはや今の施策では補えない事態に陥ることになるだろう。

 わたしたちは民俗という視点で農業を中心に地域社会を捉えてきた。しかし、農業の消えつつある空間においてかつての暮らしは用をなすのだろうかというところまできているともいえる。すでに高齢者に聞き取りをしたところで農業を営んできた人は数少なくなりつつある。ましてや農業体験的なレベルで満足できる「農業」に陥っている以上、そこから暮らしまで連携されたものが見えにくくなっている。ようは民俗誌を開いたところで、現代人には骨董品にしか映らないのではないだろうか。さらにいけないのは農業ばかり書き綴ってきたことである。今やマチにおいても農村同様に定年を迎えるとともに消えるものが控えているように思う。高度成長とともに大きく変化を遂げてきた地方は、本当に終焉を迎え、新たなところに行き着くのか、それとも農地ではなく世間が荒廃していく姿をかろうじて最期まで耐えつづけるのかというところにきているのだろう。
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洗い物

2009-07-09 12:20:14 | つぶやき
 朝の慌しい台所で、朝飯をとった茶碗を洗う。かつてはしなかった行為である。家を出る時間までほんのわずかな時間でも、時間があると思えばなるべく洗うことを心がける。その理由は夕方真っ先に家に着くのが自分だからである。間もなくほかの者が帰って来るならともかく、それから数時間は誰も帰ってはこない。遅くに帰ってきた妻が、流しにたまっている洗物を洗うのもしのびないと思うと、結局自分が洗うことになる。そうした毎日が続いてくると、帰宅したときに荒いものがたまっているか、そうでないかはそのときの自分の思いに影響するものだ。もちろん流しに洗物がたまっていれば落胆を覚えるもので、その量によってもその落胆さには差が出る。洗物が流しに置かれた器から溢れるように賑わいでいると当然落胆は大きい。いっぽう何もなく綺麗に片付いていると、ずいぶんと疲れが癒される。ようは妻が慌しく家を出て行くのとそうでないのとでは、流しの風景は大きく変わり、そしてわたしの帰宅の際の気持ちにも大きな差となって現れる。とはいっても流しに洗物が何もないほど綺麗になっていることはほとんどなく、必ず洗物がたまっているものだ。したがってその洗物が少しでも少なく、そして器から溢れんばかりでなければ、それだけでわたしの心の重さは晴れていく。できるかぎり少なくすることが、わたしが帰ってきた時の落胆さを軽くする要因にもなるわけである。だから1分2分という慌しい朝の時間にでも、少しでも洗物を少なくしようと心がけるのである。残しておいても「結局自分が洗うことになるのだから」という想定される結論への配慮である。とくに苦になることでもないが、自らが努力すれば結果的に自らに戻ってくるという日々の暮らしの中での学習である。

 さて、妻が見ていなければ洗物の際に水を加減することはない。妻は必ず節水を口にする。勢いよく蛇口から水を出したまま洗物をすることを嫌う。良いことなのだが、そこまではなかなか配慮できないのが男なのだが、実は毎日のようにこうした洗物をしていると節水に対しての意識も高くなるものだ。しかし、蛇口ではなく水栓の今は、それを上手に止めることはなかなかできないもの。上げるか下げるかという行為はけっこう調整の難しい好意なのである。そこへいくと廻す行為はその動きの大きさによって水量が変化するた、あまり意識しなくても水量はその時々によって変化す。人間の腕というか手の動きというものが、上下という単純な動きには慣れていないということなのかもしれない。つまるところ人間の動作を簡単にさせて使いやすくしたところで、必ずしも人間の動作には向かないものもあるということだ。こと水洗に関しては捻りタイプのものの方がわたしには合っている。しかし、人間は今後こうした動きに対応して進化、もしくは退化していくのだろう。

 付記 こんなことを書いてから流しの前に立つと、なぜか上下の途中で止まるようになる。人の意識とはこんなもので、きっと明日にはもとに戻ることだろう。
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結婚支援を考える

2009-07-08 12:30:51 | ひとから学ぶ
 6/25発行の長野県政タイムスのマルチシンクでは結婚支援ネットワーク事業に触れ、「乗り出したからには成果を期待」と見出しを立てている。この見出しを見る限り結婚支援に行政が乗り出したというその新聞の特性からも理解するわけだが、実は読んでいくとどうも話は異なる。記事もそうであるがその支援事業そのものもいわゆる少子化に対する支援という雰囲気が伝わってくる。

 記事の冒頭にはこのように始まる。「…「これはという主要な団体・機関」が顔を揃えて、今年度からスタートした「ながの子ども・子育て応援県民会議」の「結婚支援ネットワーク」事業。端的にいえば、自分自身で自ら「相手」を見つけることが出来ないような人達に「地域を越えての出会い場や情報を提供」し、結婚への「後押し」をしようとする結婚仲介業である」と。もちろんのことそこまで行政が手を出すのかという意見に対しても記事はサポートしているが、この冒頭の書き始めからすれば、まさに「結婚支援」と理解するのだが、記事はしだいにトーンダウンしていく。「結婚」から「子ども」へと主点が変化を遂げ、結論的な本年度の事業内容をみれば①病院・緊急預かり体制の整備」、②ながの子育て家庭支援パスポート事業、③男性の子育て参加促進事業、④結婚支援ネットワーク事業、⑤県民会議ホームページの開設というもので、そもそも記事に言う結婚支援はその一部ということのようだ。子どもを増やすには結婚しない人が多いと妨げになる。それを解消するためにも結婚支援も重要な点であるということなのだろう。

 ということでこの記事は「行政がそこまでやるのか」という意見を交えてはいるものの、大きな見出しを掲げるほどの事業ではないことが読み終えるとよく解る。県政を主眼においた新聞であるからその中心には「県」があるのだろうし、同会長が知事であるというところからも理解できる。子育て支援をするにも子どもがいなければ目的が達成できない。子どもを増やすにも結婚しない人が多ければ難しい。とそんな流れでそれぞれはリンクしているのだろうが、目的は人口減少をくい止めるというところにある。第二第三の関連事項ではなく、そもそも婚姻促進をという主眼であったならまだしも、結局は付属の付属といった印象は否めない。

 かつて長野県といえば中国へ青年の船というものをおくっていた。夏になると毎年そんな船に乗る人たちが募集され、また役所に関係した団体には参加枠のようなものが割り当てられた。田中康雄長野県時代を迎えるころにその船は渡ることはなくなったが、その費用にずいぶんとかかっていたから終焉した事業である。もちろん中国と交流をするという当初の目的が達成されていたことも事実なのだろうから、いつまでも続ける事業ではなかっただろえう。ただ、その青年の船に参加して結ばれた人たちがけっこう多かったという話は聞く。実際に行くまでの準備期間、中国での滞在期間、そして帰国後の報告期間とけっこう長い期間まったく縁のなかった人たちと関わる。それが交際へと結びつくことになったのだろう。経費はかかっていたが、ひとつのそういう場を提供していたことは事実である。経費のかかったのはどうでも良い人たちがその団員に加わっていて、そういう人たちの経費を要していたともいえる。そもそも役員なのかどうかは知らないが、準備期間にしても何にしてもそこに加わっていた役人のような県職員の待遇は特別なものだったようだ。時代は変わった。したがって今同じようなものが求められるかどうかは知らないが、今ならもっと意味ある催しが実現できるのかもしれない。子育て支援が盛んに叫ばれるが、「勝手でしょ」と言われても婚姻という形あるものをまず促進させることは大事な視点であることは事実である。そんなプライベートな部分をネットワーク化して個々のお世話をするのは行政の仕事ではないだろう。付属の視点ではなく主目的としてそうした流れを行政ではなく社会が持たなくては、ますます結婚しないという流れは進んでいくことだろう。もちろん婚姻しなくとも子はいくらでも産み育てられる時代にはなりつつあるが。
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「止まる」という意思表示

2009-07-07 12:33:50 | ひとから学ぶ
 「止まれ」の意味は奥深いものとわたしは思う。先日も踏切を突っ切ってから停まった車から高校生が降りてきた。電車の時間に間に合うようにと急いできた母親が、踏切で一旦停止もせずに突っ切ったわけだ。踏切などというものは停止しようとしまいと、警報機が鳴っているか、遮断機が下りているかどうかというあたりで容易に通ってよいかどうかの判断はできることである。とはいってもそれらが故障しているとも限らないわけで、そのために停止し、教習所的に言えば窓を開けて確認するわけだ。停止したとしても窓まで開けて確認する人は教習所ではともかくとして、一般道で拝見したことはない。

 踏切はともかくとして、では一般の道での「止まれ」はどうか。「止まれ」の停止線は一般的には交差点からは数メートル手前側に設置されている。この停止線を意識してその線を目安に「止まる」人はほとんどいない。おおかたは停止線を越えた交差点の間際で止まるケースとなる。そして当然のようにおまわりさんがいなければ、半数以上の車は止まらずに徐行程度で交差点を出て行く。正式にいえばこれは「止まれ」ではなく、おまわりさんが見ていれば切符を切られるのは致し方ない。それでも「止まれ」に対しては完全に止まった状態を維持していなくても捕まらないことも多い。そして「止まる」位置に対してはさらにおおらかなものだ。

 なぜ停止線は交差点より手前側に引かれているかということになるだろう。わたしも多くの人同様にほとんど徐行状態で交差点を抜けることがかつては多かった。しかし、最近は次のような理由で必ず停止線に止まろうという意識は持っている。必ずそうしているとは言い難いが意識は持っているというところで留めておくことにする。幅の広い道を走っていて、横から出てくる車にぶつけられた経験がかつてあった。こういうケースでは当然狭い道から出てくる方が分が悪いわけだが、ぶつかる際に「あの車、もしかしたらそのまま出てくるのでは」と思うことはよくある。それは停止するともしないとも曖昧な状態で動きながら交差点に入ってくるからである。本線側を走っている車は相手の意識を想定することになる。そこには「もしかしたら」という予想が生まれてくるわけで、とくに本線側の運転手にとってはそこに気を取られることで左前方、あるいは右前方に意識が集中する(とくに左側からやってくる車には意識が高まることは言うまでもないが)。ようは停止線に「止まる」ということはこのまま交差点内には入り込まないという意思表示なのである。本線側を走っている車に無用な注意を起こさせないこと、そして必ずこちらは一旦停止するという意志を表明するためにも停止線は明確な意志判断の機能を持つ。どれほど急いでいても、本線側に車が走っていればかならず停止するという意識を相手側に与えないと、相手が迷ったことで中途半端になって場合によってはブレーキをかけたことにより後方を走っている車が追突するなんていうこともありえない話ではないのである。急いでいても「止まる」意志は見せ、止まったらすぐに出るという方法はだらだらと徐行して交差点内に入り込んでいくよりは明確なはずである。
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「合法」と言う危うさ

2009-07-06 19:15:20 | ひとから学ぶ
 YAHOOニュース7/3版に「定期券分割して買うと、なぜ安くなるのか」という見出しが見えた。それによると、「通勤定期券を東京─横浜間で購入した場合、6カ月で6万5020円。これを東京─蒲田、蒲田─横浜と分割購入すると、3万240円+3万240円=6万480円。6カ月で4540円が浮き、年間(6カ月定期×2回)で実に9080円! しかも合法」と述べられている。最後の「合法」というところは違法ではないというだけであって、この世の中の合法性を主張する時代性のようなものを感じる。そもそも定期券は自宅と目的地を往復するために特別料金になっているものであって、定期券申し込みの際に○をする目的選択にない理由では定期券は手に入れられないと思うのだが果たしてどうなのだろう。例えば遊興施設へ頻繁に通うために定期券は購入できるのだろうか。結局目的を偽れば良いことになるのだろうが、では申込書になぜ勤務先名を書かなくてはならないのか、ということにねなる。まじめな人はそもそも目的外に利用するのは「いけないこと」と思うものだ。したがって分割して買うということそのものが目的外という捉え方がされ、まともにそんな申請をすると駅員ともめごとになるというようなことも聞く。

 分割した方が安いことについては以前「電車賃の不思議」で触れたことがある。2分割どころか3分割なんていう捉え方もできる。記事よれば「裏技」について「乗車券分割プログラム」(http://bunkatsu.info/)なるサイトがあることに触れている。そこには安くなる理由について次のように触れられている。

JR本州3社の幹線運賃 営業キロ 運賃
 1~3 キロ 140 円 (140-46.7)
 4~6 キロ 180 円 (45-30)
 7~10 キロ 190 円 (27.1-19)
 11~15 キロ 230 円 (20.9-15.3)
 16~20 キロ 320 円 (20-16)
 21~25 キロ 400 円 (19.0-16)
 26~30 キロ 480 円 (18.5-16)
 31~35 キロ 570 円 (18.4-16.3)

 上の表の「11~15キロ」と「26~30キロ」の運賃に注目してみてください。 「11~15キロ」の運賃は「230円」ですが,その倍の「26~30キロ」の運賃は「480円」です。 つまり,「11~15キロ」の区間の乗車券を2枚買えば「460円」で最大30キロ乗車することができる……というのが分割すると安くなる理由の1つです。

というものだ。カッコはわたしが表示したものであるが、料金が一定距離間同一でランクアップしていくからどうしてもこういうことが起きる。カッコ内は1キロ当たりの料金である。11~15キロまでは1キロ当たりの料金が安くなってくるがそこからはそれほど大きく変化しなくなる。加えて一定区間距離が2キロ、3キロと下りてきてここから4キロになる。このあたりが料金を設定した側にも当然そういうことは仕方ないことという了解があったはず。とすれば分割して購入したいというお客の主張は間違いではないのである。これを法の抜け穴みたいな解釈で合法という言葉を当てるとしたら、虚偽という判断はできないものの、どこかに嘘が発生することは間違いない。

 あるページにはこんなことが書かれていた。「通学定期券は「自宅最寄り駅~学校最寄り駅」間しか買えないため「安くなるから」という理由で分割購入することはできません」というものだ。これは通勤定期に対しても同様と思うがどうなのだろう。冒頭述べたように、本来特別料金にしている理由はその目的に対応してのものである。分割という意図は目的からそれたものである。確かに違法ではないのだが、だからといって若干なりとも嘘がある購入は「違法ではない」という判断だけのものであって、これが「合法」といって横行する世の中であってはならないと思う。
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草寄せ

2009-07-05 22:27:23 | 農村環境


 「ススキ化した土手の管理」で刈った土手を今年はすでに二度刈っている。二週間ほど前に刈ったこの土手にはすでに気の早い草が伸びている。刈っただけで片付けていなかった草を片付けるにあたり、今のうちにといってもう一度伸びている草だけを刈るという妻。「わたしでも刈れる」と言って妻はその伸びたものだけを紐式の刈払い機で草を刈った。わたしはその後の草の片付け、草寄せ担当である。紐式の刈払い機ではとてもススキや茎の太い草は刈れない。だからふだんはこの急斜面はわたしの役割である。いわゆる鋸式の刈払い機が登場するのだが、急な斜面ではけっこう危険な仕事となる。思い起こせば数年前に足を挫いたのはこの土手の草を刈っている時だった。法尻に溝が掘ってあって、その溝に足が取られてひねってしまったのだ。写真はその土手すべてを収めていないが、手前のコンクリート擁壁の上に細長い田んぼが一枚あって、幅が狭く耕作しづらいということもあって今は荒れている。そこは我が家の田んぼではないが、そこから上の我が家の田んぼまでが我が家で管理しなくてはならない大きな土手なのである。草寄せをした草かきを土手に置いてみた。長さが1.5メートル弱、土手の長さは6倍くらいあるだろうか。刈ったまま今まで草寄せができずにいた。刈ったからといってそのままにしておけば土手は弱くなる。草寄せはとくに急斜面で長い土手には不可欠なのである。

 実は草を刈るより草寄せの方が面倒なのである。前述したように下の土地はもともとは田んぼであって、それも我が家のものではない。人様の土地だからいくら荒らしてあってもそこへ草を寄せるわけにはいかない。かき上げるには無理があるからどうしても「寄せる」とは言っても掻き下ろすことになる。その下ろした草は今度は横へ寄せ集めていかなくてはならない。そしてさらにその草を集めて置いておく場所まで一輪車で運ぶのである。草を刈るには半日でできるが、草を寄せるにも同じくらいかかる。ようはこの土手の草刈りには1日要すのである。最近身体が思うように動かないとともに、なかなか疲れがとれない。そんな中でのたかが草寄せ、実は大変な重労働だった。妻はひたすらほかの場所の草も刈っている。草を寄せながら思うのは、このとてつもない土手はずっと面と向かって対話することになるのだろうということ。

 生家では刈った草は乾かしておいて焼くという。妻の実家のあたりでは焼いている家はない。寄せた草を運ぶ手間まで考えると「焼く」という方法も「いいかも」とは思うが火を入れたからといってそのまま「ばいばい」というわけにはいかない。やはり手間のかかる仕事であることに変わりはない。
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ドアを挟んでの攻防

2009-07-04 20:55:30 | ひとから学ぶ
 都会の混雑している電車に降車客より乗車客が先に乗る光景は見ない。それは混雑しているということもあるのだろうが、常識の世界である。何度もそんな愚痴をこぼしたかもしれないが、飯田線ではそれが違う。ドアが開くのを待って乗り込もうとしている人の多いこと。高校生ならほとんどが「先に乗っても良い」と思っているほどわれ先に状態である。最近はそんな行為を戒める意味の放送もされない。しつこいほどに同じことを繰り返し言うべきだと思う。高校生ばかりではなく、大人でも同様になる。ドアの向こう側に何人もの降車客がいるというのに、先に一歩を踏み込むのは乗車客という姿は常態化している。その理由にローカル線の列車のドアは自動には開かないというところにもある。ドアを開ける人は当然先に動くことになる。このドアを開けるのが外にいる者なのか内にいる者なのかというあたりが第一歩に影響していく。

 不思議なことなのだが、内にも外にも窓越しに顔が見えていると、ドアを誰が開けるか一瞬の間が生まれるものなのだ。それはそもそも手を掛ければ動かざるを得ないという身体に染み付いたドアと行動の関係が存在している。そしてこれもまた不思議なことなのだが、開き戸を手で開けるようにする列車と、ボタンを押して開ける列車があり、ボタンを押して開けるタイプの場合、必ずしも「開く」という指示を出したからといって身体は動き出さないのである。ようは自動ドアの感覚といって良いだろう。エレベーターが目的の階に着いたからといってすぐには開かない。自動ドアの場合は当然開くまでのタイムラグがあることを誰もが知っている。したがってボタンを押すのは必ずしも降りようとする人でなくても押すことはあるのである。ドアの近くに立っている人が、降りようとする人の代わりにボタンを押す、という行為は混雑している列車ではよくあるケースである。ところが手で開けるタイプで無関係の人が開けてやるということは見たことがない。もちろんドアは両開きであるから中央から開けるということになるから、おのずと脇に身体を寄せた人にはよほど「開ける」趣味のある人以外は起こさない行動である。

 以上踏まえると、ボタン式のドアの列車よりも手で開けるタイプの列車の方が降車客より乗車客が先に乗るケースが多くなるということになる。さらには「自動ドア」のことに照らし合わせれば、都会のように必ず自動に開く列車では開くまでの間が秩序を作っていっているのかもしれない。もともとは自動で開くなどということはなかったのに、この時代は不特定多数の人が行き来する場所は多くが自動化されてきた。それが人々の秩序を継続しているとすれば、不思議な現象といえるのだが、逆を言えば自ら行動を起こすことに対しては秩序が失われているということにもなる。たとえ行動をしたとしても、常識をしっかり認識していさえすれば、どちらが先にドアを開こうと、優先順位はそれに左右されないはずなのに。
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生きる資格

2009-07-03 12:23:55 | つぶやき
 長野県民俗の会の例会を計画するにあたり、開始時間を何時にするか考えていた。行事の日程に合わせるというこが前提のため、いつになく通常ではありえない時間設定であるということが、例えば午前からなら「10時から」とか、午後からなら「1時から」という具合にピッたしの時間がすぐに思いつかなかった。思いつかなかったというのは嘘かもしれない。夜の見学時間を前提に割っていけばタイムスケジュールは自然とできあがる。しかしそこで浮かんだのは会場までの足のことである。前回の例会にはわざわざ電車で駈け付けてくれた方がいた。まったく予想もしていなかったことで、企画者の思い込みを思い知らされた。そういうこともあってもし参加する場合に公共交通を利用する人がいるかどうかということも念頭に置く必要にかられるような場所で今回の例会は開かれる。もちろんこの時代だから考えたとしても利用者はいないかもしれない。前回思い込んだように、通常はそのような参加者が極めて稀だということがそうさせた。

 そもそもわたしたちは不特定多数の人が集まるような会議の開催時間を、そのようなことを念頭に置いて設定しなくなった。都会のように公共の交通網が整備され、また分おきにやってくる電車ならなんら問題はない。しかし地方にあっては1時間に1本、場合によっては2時間近く待つこともある。そういう環境を踏まえれば、車ありきの思想は反省しなくてはならないことだと思うのだ。「仕方ないのだから遅れて入ればよい」などという意見もあるが、開始時間を決めたからには遅れればそれなりに視線を浴びる。会議に遅れるということそのものが本来なら足を理由に許されるものではない。以前会社の継続的会議に出席する際、午前10時という開始時間は電車で行くとちょうど良いというものがなかった。1時間近く前に着いて待っているか、少し遅れるかというものである。最も遠くからそこへ参加する自分は午前4時半起きになるか6時起きになるかの違いになる。頻繁に開催されたその会議に、わたしは後者をよく選択したものだ。主催担当者は理解していたが、参加者にはいつも違う理由で説明していたようだ。そこにいって10分程度、そして10人程度の会議なのだからこちらの時間に合わせて始めてくれればよいのだが、そういう考えは今の時代にはない。ようは「車ありき」なのである。その会議は長野市でいつも開かれたのだが、「電車で来た」と言うと近在の人は当たり前のように電車を利用してやってくるのに、遠くの人(伊那谷のような)には「車じゃないの」みたいに珍しいものでも見るように言う。それほど時間に追われている人が車を前提に考えるのなら、自動車て駈け付ける人は遅れないかと思えば「渋滞で」とか「事故で」といって簡単に認められる。人間が退化しても仕方のない構造なのである。

 こうした会議にかかわらず、今の地方での催しは車ありきが前提のような節がある。例えば学校のPTAの集まりであっても、車を利用せずにやってくると人は100メートルくらいの半径ならともかく、そうでなければほとんど車でやってくる。狭いスペースに建っている学校でも必ずそうした駐車スペースを考えなくてはならない。そこには「自動車は控えてください」という意見は成り立たない。「駐車場くらい用意しておけ」とばかりの車がたくさん集まるのだ。もちろん学校であるからグランドがある。そこが駐車場に変わるわけであるが、これではきれいに草を取ったとしても、それを踏みにじるような車の波を見たら、とても子どもたちが「大事にするところ」とは思えなくなるだろう。これほど車ありきが当たり前になると、車があって当然であってなければ正常な人とは捉えられなくなる。それも仕方のないことで、免許の無い人に働き口はない。まさに「生きる資格」とも言えるのだろう免許、そして車というものは。

 さて、企画した例会はこちらに紹介されている(日記書き込み時はまただアップされていない)。結局ここでは車が無ければ行き着くことのできない場所ということになるが、配慮は怠らないことにしようと思っている。
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高校生専用列車の行く末

2009-07-02 12:27:46 | つぶやき
 高校の文化祭のシーズンになる。この地域では進学校から文化祭が始まる。かつては専門系の学校は秋に文化祭が行なわれていたものだが、今はほとんど夏休み前に行なわれる。伊那北高校が文化祭を終え、振り替え休日になったその日、たった一校のことでありながら車内はずいぶんと空いてしまう。駅に到着してもホームには夏休みかと思うほど待ち人はいない。電車内の風景というのは気にせずにいれば毎日それほど変化はないのだが、毎日を確実に捉えているとけっこう異なっているものなのだ。

 その日のわたしの乗車した車両には、いつになく大人の姿が見えた。ここしばらくはわたしが目的地の駅に降りてもわたしの乗車していた車両からは高校生しか降りてこない。そんなことを思った翌日意識して車内を見渡してみると、いつも顔を合わせる常連の大人が1人か2人いるがあとは高校生しか乗っていない。高校生専用車両のようなもので途中にある高校のために出入りがけっこうある車両である。以前にも述べたが高校生は知らない人が1人がけしているシートにはめったなことでは座らない。それが相向かいのボックスシートであってもだ。したがってこの車両はもっとも空いている車両ともいえる。あまり出入りがなく入ってくるだけの先頭車両からしだいに後方へ移動してきたのもそういう理由からである。ワンマン電車はともかくとして、そうでない車両なら下りは先頭ほど、上りは後方ほど混雑するというのが飯田線の上伊那区間なのである。これも以前に触れたが必ずしも改札に近い方に混雑度が高まるわけではないのである。それでも数年前のようにわたしが乗車すると乗客が1人とか2人、あるいは無人などということはなくなった。それは何を意味するかと考えると、高校生の郡境を越えての通学が多くなったこと、そして一般社会人の通学の電車利用がせ増えたということも言えるのだろう。日によっては無人ということもあった先頭車両は、今やわたしが乗る際にもそこそこの乗客の姿が見える。便全体の乗客数に変動があるのかないのかはその当時の後方車両の状況まで意識していなかったため定かではないが、一つ言えることは、高校生のパターン変化がうかがえる。ようは数年前のわたしの乗る駅で降りる高校生は、学校に近い側の先頭車両に多く乗車していて、今は逆に学校からはもっとも遠い後方車両に多く乗車している傾向がある。わたしが乗車したときに1人か2人という状況は、今の後方車両であって、かつてはそれが前方車両だったのである大勢の同一高校の生徒が乗車する車両にほかの人たちが乗らない傾向というものがある。その証拠に今のわたしが乗車する車両は、家の近くにある高校の専用列車のごとく彼らが、彼女らが降車すると空っぽの風景になる。越郡して通う高校生の姿は、その車両には少ない。すべてが一校の生徒で占有された空間に、他人が入っていくのもしんどいものである。もちろん高校生というだけで同じ高校だと認識していればのことであるが。

 今や進学校の定数はそのまま、そして不人気校の定数は削られる。いずれ高校の生徒はさらに減っていく。この空間の状況はどんどん空気の量を増やしていくのだろう。そう考えると、かつて満員で体が触れるような状態で立ち尽くして乗っていた高校時代の景色は遠いものである。とくに越郡して通っていただけに、当然郡境域では空っぽになりそうな状況に陥ったものであるが、懐かしむ術もないほど時は経ているということなのだう。たまたま今は、かつては乗ることはなかった中学生が郡境域を賑わしている。定員が削減されていない高校が休めば、これほどその高校の生徒がいたんだと気がつかされる。まさに高校生専用列車の満ち欠けのようなものなのだ。
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