Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

傀儡子

2009-05-16 21:41:41 | ひとから学ぶ
 傀儡子(かいらいし)という言葉はかなり専門的な言葉だ。わたしもこの言葉を知ったのは民俗芸能でいう人形芝居を知ってからのことである。「人形遣いの古称」というのがこの言葉の意味である。ここ2日ほどこの「傀儡」という言葉が囃された。この難しい言葉がきっとこの2日間ほど辞書で引かれたに違いない。鳩山由紀夫はよゆうは人形使いに使われているという意味でこの言葉があてられた。ようは小沢一郎氏の操り人形ではないかという揶揄なのである。盛んに鳩山氏は「そんなことはない」と口にする。もちろんそれを証明するためには今後の鳩山氏の行動によるのだろうが、どう考えても小沢一郎氏の傀儡というものではないだろう。ただし小沢系の行動に一致していたことは確かだろう。したがって顔は変わっても小沢一郎氏が説明責任を果たさなかったイメージはそのまま残る。さらには小沢一郎氏の処遇しだいでは「なんのために小沢一郎は代表を辞任したのか」という怪しい雰囲気はよりいっそう深まる。戦いやすいと口にする自民党の気持ちも解らないでもない。逆を言えばその怪しさが払拭できないのだからそこを突かれても仕方ないということだ。だからこそ小沢氏と距離を置いていた岡田氏が代表になるよりイメージが重なっても仕方ないことなのだ。

 代表当選を果たした鳩山氏は「岡田さんは立派な政治家ですから」というが、「立派な政治家」なんていう言葉を掛けられるとよりいっそう腹立たしくはないだろうか「岡田さん」。実は言葉として表される単語を並べていくと、どうみても鳩山氏の方が曖昧というか意味不明な点が多い。ようは現実には目を伏せ、選挙目的で国民のニーズに合わせようという意図が見えみえなのだ。「政権交代後の日本を、愛のあふれた社会に築き上げたい」という鳩山氏の「愛のあふれた」とはなかなか見事な言葉である。「いったいそれは何」と誰もが疑問に思う。「友愛というが友愛のイメージがつかめない」という質問に「友愛という言葉が死語になっているところが日本の最大の問題ではないか。そのように、私は真剣にそう思います。従って、友愛外交とか友愛の経済。ボランタリー経済というようなものが、私はひとつの友愛の経済学だと思います。あるいは、コミュニティーソリューション。これはちょっと、なかなかはやらない言葉でありますが、コミュニティーで問題を解決していく経済、あるいは社会保障。こういったものが、ひとつの友愛の形だと」言う。きっと多くの国民は鳩山氏の言葉から具体的なイメージはつかめないだろう。そして強いて言えば、本当は鳩山氏の言うところが大事なんだろうが、おおかたの国民はその次元に至っていないというのも事実。意図は解るが、この方法はむしろ混乱を生むことになる。やはり曖昧な人ということになるだろう。世の中は白黒はっきりさせる時代である。もちろんそれが良いというわけではないが、もしの話であるが民主党が政権をとって鳩山首相が誕生しても「長くはない」というのが現実の姿かもしれない。そしてそれを長らえることができたとしら、日本国民は本当の意味で「変わった」といえ時なのかもしれないが、一長一短に変わるものではないことを、誰もが知っているし、誰もがそこまでは望んでいない。時代と国民の求めるものを政治家は認識していないし、国民も自らのことしか考えていない。
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農村を助ける社会へ

2009-05-15 19:42:52 | 農村環境
 「わたしたちの選択②」において、農業とりわけ小規模に営む農家には情報を共有できる場や発信してくれる人たちがいないというようなことを述べた。実はまったくないわけではなくわたしの周辺を見ても身近なものとして営農組合があり、営農の係というものが自治会単位の中で役付けされている。しかし、わたしの認識ではその組織が発展的なものという印象は持っていない。係とはいえ兼業を営んできて、それもすでに社会的には高齢の部類に入る人たちや退職後の農業を営んでいる人たちが形ばかりの組織に重点をおくケースは稀ではないだろうか。農業をささやかながら行っている人たちの背景がさまざまで一様でないなかでは、そういう人たちが集まっても基本的なことが語られるだけであり、それぞれの立場に応じたサポートは望めないのである。

 これまでも何度も触れてきたことであるが、農業生産物に対して水を利用して品質の向上を求めれば壮大な水利というものが必用となる。山間のわずかばかりの水田に水を供給するのに、延々と何キロも山腹を用水路で導水するケースはる図らしくない。たとえばたった1ヘクタールもない水田を継続使用としても、河川から水を取り、山腹の水路を維持し、それでもって耕作をし、獣への対策を施す。当然であるが遅霜への対応をしたり、旱魃への対応をしたりと気候との戦いもある。この労力と経費を会社的発想に変えれば、まずもって供給不安定な水を求めることを避け、延々と続く管理施設を捨て、気候の変化を受けない農法を採用することになるだろう。もちろん水をただで供給してくれるというのなら万々歳だろうが、そうでないとしたらかつてのこんな山間の農業は採算が取れないとすぐに解るはずで、ただでそのトータルの施設をいただけるといっても引き継いでくれる人たちはいないだろう。環境として山間で営むとしたら違う方法をとるに違いない。

 「人生を説く」において飯島吉晴氏が岩澤信夫氏の次のような言葉(『生きものの豊かな田んぼ』日本放送協会出版 2008)を引用した。「不耕作起と冬期湛水をくみあわせた自然農法の田んぼは生き物の楽園となり、多種多様な生物の働きで地力が高まり、雑草もはえにくく農薬や肥料を施さなくても、そこではイネは野生本来の力を発揮し、どこよりも立派なコメができるという。諸経費や労力、環境の点からもいいことずくめで普及してよいはずであるが、農機具や農薬・肥料メーカーの利害のほか、周囲に気兼ねが多く保守的で情報に疎い農村には容易には普及していないようである」と。そして「われわれは、うわべだけのニセモノの氾濫する世界ではなく、大地に足をつけた本物の生き方を構築し探求していく必要がある」という示唆を受け止めて農村社会が変化するような構造にないことか現実である。確かにこれまでも前述したような水利を捨て、違う方法で水を求めることはたくさん行われてきた。しかし、長年の経験と暮らしの変化への対応に不安を感じる人々も少なくなく、個人施設ならともかく共同施設でそれを実現するのにはその地域が一つになる必要があった。こういうケースでそれらをまとめ上げるのは、地域の役員であったり有力者であっただろう。ところが今はそういう場に立つ人がいない。年々変わっていく役員が担うには勇気とともにどうその意志を引き継いでいくかという問題も加わる。事業化するということが困難になりつつあるという事実をどれだけ行政も認識しているだろうか。行政はいざとなると「受益者が申請するものだから」という特定の人たちに特別扱いができないという公の言葉を発する。天秤にかければどちらが良いかなどということは解っても、それが容易にはできないことを第三者はあまり知らないだろう。それこそ環境を旗印に生態系だとか否コンクリートと口にする部外者にはまったく知る由もない。

 行政がそれぞれの立場に情報を発せられないとすれば、そうした役を担う人たちがいてもおかしくはない。もちろんそれは官民関係なくそうした人たちが現れてほしいものだ。採算は取れないだろうが、時には介護的な役割も持ち、時には人材センター的な役割も持ち、そして情報を把握して個人の情報を持ちながら地域をコーディネートしていく。そんなトータルな情報源的な人が必要だとは思わないだろうか。
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水際で防ぐ

2009-05-14 12:34:08 | 民俗学
 「水際で阻止する」とは最近よく聞く言葉である。新型インフルエンザが世界的に流行りそうななか、日本に患者がいないうちには「水際」で止めようという対策がニュースに盛んに流れた。そしていよいよ患者が出ると、水際が病院へと場面が以降していく。すっかり新型インフルエンザも水際という映像も慣れてきているこのごろである。

 妻が「水際という言い方は日本だけのもの?」と口にした。一般に水際というからには海外から入ってくるものを浜で阻止するというイメージを持つ。しかし実際は空からほわとんどの人がやってくるから水際という例えは日本固有のものとすれば正しくなくなる。

 この水際についてはインターネットの質問ページなどにけっこう登場してくるものの明確なものは見受けられない。「上陸させない」という意味で「水際」て防ぐということになるだろうから、やはり{水」をイメージしていることは確かである。日本人には{上陸」という言葉のイメージに「海上からやってくる」という形を想像するだろう。質問ページにもあるが、日本というひとつの国になっていなかった時代には、国境が地続きだったから今で言う「上陸」というイメージはなかっただろう。そして地続きだったから「水際で阻止する」という言葉もなかったのかもしれないが、海ではなく川に置き換えてみれば、確かにこれも水際であることに違いはない。ただし国境が必ずしも川にあったわけでもなく、そのあたりはどう捉えられるだろう。いずれにしても第二次世界大戦において海軍優位だった日本にとっては「上陸」という言葉も「水際」という言葉もそれらしい言葉に映る。ようはこの戦争のもたらした言葉が今も盛んに使われているということになるのだろうか。

 ちなみに「水際作戦」という言葉はこの戦争からきているもので、大辞泉によれば「上陸してくる敵を水際で撃滅する作戦。転じて、病原菌・害虫・麻薬などが国内にはいり込むのを防ぐこと」という説明が見られる。そもそも海の上に浮かぶ国に対して攻め入る方法は、飛行機のなかった時代には船しかなかっただろう。そういう意味で元来この国にやってくる敵は海からやってくるという意識が備わっていたはず。もちろん前述したように国というものがどういう枠のものであったかも含め、今とは考え方が異なっていたとは思うが、海端の地域にとって国とはいわずともその村が外敵から攻められるとすれば海からやってくることが予想されたわけである。水際はようは境界線のようなものなのだ。当然のごとく日本がひとつのまとまった国ともなれば、この境界線を越えられるのは一大事だったのである。そして同じような意識を地続きの国に当てはめれば、やはり水際ではなく「国境」ということになるのだろう。そして海の上に浮かぶ国でなくとも海岸線を有している国なら、自ずと水際という意識は理解できるものと思われ、日本特有のものであるとともに、他国にも同じような言い回しがあっても不思議ではないということだろうか。いずれにしても周囲を海で囲まれている暮らしには、国だろうが村だろうが、そして島だろうがこの意識が存在し、さらには海岸線という意識を強く持った文化が生まれるのだろう。

 とはいえ、実際の国境が海岸線というわけではない。よく言われる海域という意識からみれば実際海端で暮らしている人たちは海岸線が国境とは誰も思っていないはず。そうすると地続きの国の「国境」とわたしたちの意識している「水際」ラインは明らかに意味が違うことが解る。ようは「水際で防ぐ」とは、国境を越えてきてもこの一線が越えられることは一大事なのだというぎりぎりの線ということになるだろう。そういう意味では飛行機でやってきた外敵は、すでに国境を越えてきているわけで、それを防ぐラインが空港の入り口ということになるのだろう。伸縮性があるもののこれが最後というライン、それが「水際」ということになるわけだ。
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警笛鳴らせ

2009-05-13 12:51:12 | ひとから学ぶ

 どんぐりさんのエッセイを読んでいたらこんなことが書いてあった。「クラクション・・・私が車には不要だとおもっている機能のひとつである。都会のドライバーはとかくイライラしている人が多い。必要もないのにクラクションをブーブーと鳴らす人ばかりである」というものだ。ご存知の通りクラクションは、見通しの悪いような場所で鳴らすものであって、歩いている人に意図的に聞かせる道具ではない。そして歩いている人ばかりではなく、前を走っている車に解らせようと鳴らすものでもない。もっといえば、譲り合ってくれた相手にお礼の意味で鳴らす道具でもない。そう考えてみると、かつては「警笛鳴らせ」という看板を地方や山の中で見受けたものだし、専用の規制標識もあった。しかしどうも最近とんと見たことがない。なぜかといえば地方でも道路がだいぶ整備されて、警笛を鳴らさなければならないような見通しの悪い箇所がなくなったということだろう。当然見通しの良くない場所は地方の山間ばかりでなく都会の真ん中でもあるのだろうが、看板の氾濫している都会に「警笛鳴らせ」などという標識はいらない。

 ということでどんぐりさんが言うように、クラクションはもはや無用の道具なのである。わたしも久しくクラクションを鳴らしたことがない。わたしが免許を取ったころは譲り合いのお礼にクラクションを鳴らすというのが当たり前だった。ところがそのうちに手で合図するようになって、さらにはパーキングランプを点滅させるなんていうのも登場した。ますますクラクションの必要性が低下したわけである。あまり利用しないからとっさに鳴らそうなどとすると失敗したりする。どんぐりさんもそのことを言う。「私も小さい音でお礼のクラクションを鳴らしたいのだが、これがなかなか難しい。力加減がよくわからなくて全く鳴らなかったり、うっかり大きな音が出てしまったりする」と。これは意外にだれにも経験があることだ。鳴らそうと思ってハンドルのど真ん中を押しても音がしない。せっかくお礼をしようと思ったのに相手を不愉快にさせる。そうかと思えば鳴らなくて急いでもう一度押してとても大きな音が鳴ったりする。こんなことで焦って事故でも起こしたら大損なのだが、実はこんなことで事故を起こすなんていう事例もないことはないだろう。「これだけ電子化されているのだから、クラクションのボリューム調整やバリエーションがあってもいいのではないか」と言うのも最もだ。今でもクラクションの構造は大昔と同じなのだろう。車の中でけっこう昔と変わっていない部位の一つかもしれない。ただし、これを電子化なんてすると、世の中に改造してさまざまな音を鳴らす輩が登場するかもしれない。そもそも譲り合いのお礼のためにあるものじゃないのだから、なくなってもちっとも問題のない道具だとわたしは思う。

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わたしたちの選択②

2009-05-12 12:27:46 | ひとから学ぶ
「わたしたちの選択①」より

 「NECのある街、出水です。NECの発展は出水の発展となります。出水はNECとともに未来へ向かいます」という挨拶をしていたという出水市の市長。企業の税収はもちろんのこと、企業があることによる雇用維持はどこでも求められるものである。すべてが好循環を見せる源のひとつが優良企業の招致ということになる。それをどこの地域でも目指したものだが、出水市のような現象はこれまでも何度も繰り返されてきたこと。規模の問題であって、山間の小さな村にとっては銀行の支店がなくなったり、農協の支所がなくなっただけでも痛手となった。そして最近では役場がなくなっていわゆるその地域の大企業を失ったような風景を描いているはずである。そこには高齢者しかいなくなる。中間層の崩壊など小さな空間では今に始まったことではない。

 地方では相変わらず企業誘致に期待をかける。ある地域に企業がやってきてもその周辺には恩恵を受けない地域が存在する。結局はすべてが競争原理ということになるのだろうが、それを日本全体で捉えたところでそれは格差の上に存在しているだけのことであり、満遍なく人々が満足いくものではない。そもそもそういうものなのだ。どれほど借金をしても100年に一度という不況を乗り切ろうとするが、すでにそうした視点が破綻しているはずなのにそれを見直す気配はない。もしこの100年に一度と囃されるときにかつての小泉体制だったらどうだろうか。こんな政策を出しただろうか。景気浮揚と言われて出費されても現状を打開する策になっていないのではないだろうか。今求められているのは確かにその場しのぎの対応なのかもしれない。だからこそ高速道路1000円乗り放題がなんら大問題にもならない。どちらかというと好意的な受け止めが多い。定額給付金にしても同じだ。そもそも雇用増大を目指して税金を出すとしても地方交付税に上乗せして補助残を配布するなどという策は路頭に迷っている人たちのなんら対策にもなっていないような気がする。短期的対策は必要であっても長期的な対策をおろそかにしておいては最悪な将来が待ち伏せるということになる。

 出水市の市長が口にしたような企業によってこの市は成り立っている、将来がある、という考え方はもはや避けるべきではないだろうか。とすればどうするべきか。国民の意識が変わらない以上、この従来の方向にも変化はないのだろうが、競争原理が変わらないのなら、よそに頼らないという視点が必用だろう。まず身のまわりで収支を合わせる方法を原点におき、その地域の付加価値からどう外貨を継続的に求めることができるか上乗せをしていく。もちろん従来の考え方は払拭できないところをどう地域で補っていくかという精神的サポートも必要だろう。そういう意味では少なくなったものの必ずいる農業で生計を立てている人たち、また兼業で農業を営んでいる人たち、老後に農業を営んでいる人たち、といったさまざまな農業と関わっている人たちの連携、情報の共有化が必要だろう。どの業界にも同業種の人たちの情報を共有する場がある。ところがかつては農村社会がその場となっていた農業に関する情報交換の場は、もはやなくなったといってよい。個々の農家が隣の農家とも連携がとれずそれぞれで農業を営む。「いずれは辞めることになる」という状況で農業を営んでいる人のなんと多いことか。単純に農業人口だけでは計れない、将来の危うさがそこにはある。そもそもそこには個々の農家を結ぶものが失われている業界という構図があるのではないだろうか。本来そうした連携を促す人たち、あるいは集団がいても不思議ではないはずなのにいざとなると分裂している。集落営農というものが始まっているのに、その目的はあるいは内容は連携とか情報共有化というものにはなっていないようだ。まず地域空間を形成している大きなもの、地域空間にいる人たちの多くが向いている方向性、そういった地域把握の上にたった地域再生から始まらなければ長期的な策は見えてこないというわけだ。
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厳しい空間を作り上げたもの

2009-05-11 12:34:25 | 農村環境
 「割に合わない」土地、そんな土地を懸命に耕作してる妻のぼやき。昨日触れた土手の草刈りはまさにそれをわたしにも教えてくれる。しかしながら解っていて大昔に手に入れた土地なのだからそれも宿命かもしれない。大きな土手下の道路はもともとはなかった。車を利用するようになると車が当然のように集落に入れないと困るため、新たに道が開かれた。この道路の下にさらに大きな土手がついているが、その土手も道路のあるところも、もともとわが家のものだったという。そして道路は村のものとなったが、道路下の大きな土手は村のものとはならずにわが家のもののままである。ところが道路の土手が崩れれば復旧は村がやってくれる。機能上はほとんど道路のものなのに所有は個人なのである。こういうケースは当たり前のようにたくさんある。このように土地を持っていても土手ばかりということになる。

 この昔のままの整備されなかった空間にもほ場整備の話がかつてあったという。自分の家の田んぼまで車がいけないほど道が狭いどころか、道すらなくて人の土地を通っていかなくてはならないような状況ではいずれ問題も起きる。当然のこと耕作を続けていくには必要不可欠なものである。空間を構成する耕作者の間で整備へ向けて同意したにもかかわらず、同じ空間で比較的道沿いに土地を所有していた人が「うちはやっても必要がないから」といって反対したという。反対したというよりも整備したいという意向を役場にあげなかったのだろう。なぜならその反対者が当時区長をしていたという。いわゆる昭和40年代から50年代はほ場整備が盛んに行われた。そして道路が狭いところではほ場整備は行われなくとも道路整備が行われた。それを行わなければ後の時代に暮らせない空間になるという危機感は誰しも持っていただろう。そんななか、自ら金をかけて整備をしてあったり、あるいは前述のように条件のよいところに土地を所有している者には迷惑な話だったのかもしれない。しかし、少しばかり考えれば解ることなのだが、自分がそこに加わらないことで地域社会のトータルな整備は遅れる。いや遅れるくらいなら良いが、妻の実家の空間ではそのまま過去を引きずっている。今更ということになるが、その思いがこの空間を形作ることになる。

 当時反対した人は、車道を広げるという話が集落内にいくつかあったとき、自分は通らないといって負担を逃れたことが何度もあるという。道沿いの条件の良いところにかたまって耕作地があったためにそれを逃れる言葉を使ったのである。その人の土地に隣接して奥の水田に入る細い道があった。奥に所有している3軒で道を自力で広げたというが、入り口のいつも反対する人は「自分は使わないから」といって協力しなかった。ところが世代が変わり今になれば息子は使っている。そのことを知る人も少なくなったのだろうが、思いは複雑である。「言っても無駄だから」と思うが、結局時代を経ることでそういうことも忘れられていくが、この地域を作り上げた歴史はそんな思いが関わっている。

 ちょうどほ場整備の話があった時代、この地域で豪雨災害が起きた。三六災害(昭和36年梅雨前線豪雨)以来といわれるようなものだったが、その災害で妻の実家のすぐ下の家の元の屋敷は崩落した。現在地からは数百メートルほど離れた場所にあったのだが、予期していたわけではないが、災害の起きる少し前に危険箇所だからということで補助金をもらって移転をしたという。自分の土地で車道に隣接している場所は、妻の実家の下くらいしかなかったのだろう。しかし屋敷にするには少し狭かった。今でもその狭い土地に暮らしているが、もしほ場整備が実現していたら、きっともっと良い条件の土地に家を造ることができたはず。現世帯主はどこまでこの地域の経過を知っているか解らないが、ほ場整備が実現していれば耕作地はすべて車道に隣接することになったし、災害危険箇所という理由から整備された土地に家を建てることも可能だっただろう。そしてそういう条件が後々その家に跡取りが暮らしてくれるかどうかという条件にもなっていく。もっといえばその地域空間が維持されていく条件整備は個人のものではなく、トータルなものだったということにもなる。いずれにしても区のトップにいた人の考えがこれほど条件の悪い空間を作り上げてしまったことは事実なのである。妻は言う。「それを暴けなかった地域のほかの人たちが馬鹿だった」と。この空間の現在が、人の思惑で左右され、そしてそれぞれの思いの中に歴史化していることを思うと、やはり地域とは簡単には語れないものなのだと思うばかりである。
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ススキ化した土手の管理

2009-05-10 23:49:04 | 自然から学ぶ
 「みどりの日の草刈」で触れた土手は大きな土手で管理しにくい土手のため、、ふだんの管理に該当しない土手になっている。ただし、車道の脇の土手ということで、草ぼうぼうともなると見た目はもちろんのこと、車の障害にもなりかねない。昨年はすっかり草刈をさぼっていたわたしは、この土手の草を刈った記憶はない。土手の頭は妻が頻繁に草を刈るものの、45゜を越すような斜面に立って草を刈るには危険を伴う。ということで昨年は一度程度しか草を刈らなかったと言う。

 実はこの土手はまだ良い方で、土手の尾根の向こう側には50メートルほどの同じような土手が続く。こちらは南向きの斜面で丈の長い草が生える。土手下のとても小さな棚田は、このごろは荒れ果てたままで、その田んぼを持つ人も手がかかるためにあまり管理はしていない。そういうことも手伝って、大きな土手は車道側の人目に触れる場所とは異なるために、ほとんど草刈をしない。2年ほど前に人に頼んで草を刈ってもらったが、昨年は依頼したものの断られたという。傾斜がきついということもあるのだが、その土手はとても草を刈りにくい。前述したように丈の長い草が生えるから、1年もほったらかしにしていると大変な草丈となる。

 さてその土手を昨日から今日にかけて草を刈った。ほぼ1日刈っていたのに刈った草の処理まで手は回らなかった。この土手の上には我が家の田んぼが3枚あるが、公図上は1筆である。面積にして1400m2程度でこのうち土手の面積は600m2ほどあるだろうか。印象は半分は「土手」という感じであるが、よく見ると土手の方が若干少なそうだ。昨年依頼したものの断られたという土手には3メートルほどのススキが枯れて生えている。これを刈るのがなかなか大変で、加えて土手にはフジのツルがあちこちに生えている。草刈機で刈ろうとしても巻きついてうまい具合にはかどらない。倒れたススキが覆いかぶさるように倒れ、それをいったん片付けないと覆いかぶさった下の草は刈れない。1年間ほったらかしにされていた土手はまさに荒廃地化していて、管理しやすい状態には簡単には戻らないのである。いったんススキの林になってしまった田んぼは、簡単には田んぼに戻らないのと同じで、土手もいかに管理を続ける必要があるかということである。ススキが生え始めた土手にはほかの草が生えなくなる。生態系上も好ましい環境とはとてもいえないのである。

 山の中の水田地帯はどこもこうして荒れ果てていく。見た目以上にそれを復活させるのは難しいことなのである。それにしてもこれほどの土手はなかなか近所にも少ない。みんなが「大変だねー」と気遣ってくれるが妻はいつも「何でうちばかりこんな土手があるんだ」とぼやくが、もともとそうなんだからしかたがない。この非生産的労力は並大抵のものではない。専門家にも断られるのがよくわかる土手である。
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わたしたちの選択①

2009-05-09 20:33:17 | ひとから学ぶ
 ”中間層”崩壊の危機と題したNHKの番組「あすの日本」は、現実的な問題を踏まえ国民の意見に注視しながら取り組んでいるものである。そんななか、土曜ドラマでかつて放映された「ハゲタカ」の再放送が、この連休中に3日間連続で行われた。視る予定でいたわけでもなかったが、第1回放送を見たらそのまま引きずり込まれるように6回分をすべて視ることになった。モノを作るのではなく、紙っぺらである紙幣を操って儲ける人たちが台頭するなか、アメリカ型経済が日本を席巻してきた。しかし、そのアメリカもサブプライム問題をきっかけに金融危機に陥り、それは世界を不況におとしめた。汗水を流すのではなく、頭脳だけで儲ける世界がいかに脆弱かということを教えているが、もはや汗水を流すことを望まなくなった人たちは多い。その理由は明快で、汗水流したところで報酬はけして増えるものではなく、恰好のよいものとは思われていないからだ。

 とはいえ、モノ作りの技術はアイディアだけで一人前になれるものとは違い、長年の経験が必要となる。もちろん器用な人と不器用な人で差が出るのは解るが、手先を使わなくなったこの時代において器用さを求めることじたいが難しい「教え」となっている。人件費が高いと騒がれる時代にあって、時間と手間のかかることが「悪」と捉えられても仕方のないことであるが、退化した人間の身体はモノ作りに対して対応できなくなっている。

 さて、番組紹介の中でこんなことが書かれている。「私たちは、さまざまなデータをもとに、「20年後の日本の姿」を未来予測することにしました。浮かび上がってきたのは、恐ろしい現実です。今のまま何も手が打たれないとすると、日本社会の中核を担う30代の相当数が、安定した収入を得る手段を断たれて、家庭を持てない、子どもを産めないという社会が到来します。中核世代が支えられない社会は、税収や消費が落ち込む一方で、生活保護などの福祉コストが嵩んでいきます。その結果、社会全体の活力は削がれ、日本は衰退の一途をたどるというわけです。」そして「将来に希望を持てる社会にするには」と番組はその方向性を模索する。同テーマで組まれたホームページに製作に関わっている記者たちの意見が掲載されている。前橋局の小島康英記者は鹿児島県出水市へ取材した際のことについて触れている。出水市では長年営業をしてきたパイオニアとNECが撤退するという。地方の小さな町にとってその影響が大きいことは言うまでもない。「出水市にNEC(その後パイオニアとNECになった)が来たのは、昭和44年のことでした。当時NECの誘致を担当した80代後半の市の元幹部は、「『金の卵』と言われた若者がみな、集団就職列車に乗って大阪や東京へ向かっていた。出水には農業や漁業以外に仕事がないから、若者が全然残らない。何としても企業を誘致して出水に仕事をもたらし、若者を戻して活気ある出水にしよう。企業の誘致は出水の悲願だった」と昔を振り返ります。工場誘致が決定した当時の新聞をみると、地元の悲願達成の喜びを大きく伝えています」と言う。そして出水=NECとばかりに行政も企業に頼ってきたわけである。「歴代の出水市長は、式典や行事で必ずと言っていいほど、「NECのある街、出水です。NECの発展は出水の発展となります。出水はNECとともに未来へ向かいます」という趣旨の挨拶」をしていたと言うあたりにも伺える。

 「若者が離れ始め、小中学生の子どもの数も減りつつあります。また、タクシーや飲食店の売上げも落ち込んできました。空き家も一気に増え、工場閉鎖の影響はボディーブローのようにじわじわと効いてきています。出水市は、いわば昭和44年以前に向かって後戻りしています」という小島記者は言う。企業に頼りきった地域作がもろいものだと言うことがよく解るわけで、大規模小売店やもっと身近ではコンビニのように状況次第ではすぐに撤退してしまい廃墟のような印象を与えてしまうのは地方の定めということになってしまう。だからこそそうではない地域作りをしなくてはならないのだ。「若者がいなくなる」という危機感だけでそれを引き止める方策は、その場しのぎに陥り易い。それは行政も顔が変わっていく以上、とりあえずの間際を見ざるをえないという実情もある。とりあえず助けてくれなければ、その体制を維持できない、あるいはさせないという環境にも要因がある。小島記者が「昭和44年以前に向かって後戻りしています」と言うが、そもそもこれは後戻りではなく、長い年月で教わったものなのではないだろうか。そして「良い時代」にこの地で恩恵を受けた人たちもいたわけで、ここから教訓の上にどう地域を考えていくかという出発なのではないだろうか。

 (続く)
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雨宿り

2009-05-08 12:38:18 | つぶやき
 車で移動しているのだから「雨宿り」ということはないのだが、ドアを開いて雨音の聞こえる外に出た。そこにあるかつては停留所として利用されたであろう待合所は、今は利用されることはないのだろうが、無住の家ばかりの集落にしてはこぎれいにされていた。川沿いにあるここの待合所は、訪れると必ず覗いて様子を伺う。意味はないのだが、人の気配をそこに求めている自分がいる。この集落は廃屋ではないが無住の家が数軒川沿いに寄り添っていて、かつて家があったであろう屋敷地に、蔵だけ残っている姿もある。ところが完全に無住というわけではなく、よそから移り住んだ人なのかかつての家構えとは異なる建物もあって、いかにも山奥の珍しくない風景を描く。



 待合所の壁に架けられた「告知板」に最近文字が書かれた様子はまったくない。板の表面は木目が綺麗に浮き上がり、かつてここに文字が躍っていた雰囲気は微塵もない。



 告知板とは対照的に、壁には錆付いた看板が掲げられている。伊那信用金庫の広告版から察するにいつの時代のものなのかわたしには予想もつかない。待合所の中にずっと掲げられていてこれほど錆付いたともなれば、昭和30年代ころのものなのだろうか。それとも当初は外に掲げられていたものなのだろうか。もちろん今は「伊那信用金庫」時代ではなくなった。



 こぎれいな待合所のベンチに腰を下ろしてみる。雨粒がひっきりなしに落ちてくる外界は霞んでいる。川端に安置された石碑群には毎年注連縄が張られ、けして朽ちかけた様子を見せないのが、わたしをここに誘う。



 なぜこの道沿いから高く離れた位置に作られたのか、そこには小さな倉庫のようなものが建つ。集落の共有のものなのだろう。川沿いでは万が一のことがあったときに流されてしまう。それを避けるという意図があったのだろうか。

 (2009.5.7 荊口赤坂にて)
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賛成と反対

2009-05-07 20:22:30 | ひとから学ぶ
 先ごろ地元自治体の議会だよりなるものが広報とともに配布された。議員がいったい何をやっているか、何を議会でとりあげているかということは、日々の暮らしに追われている一般人にはまるで認識されないものだ。それを少しでも認識してもらうために、印刷物という残るもので知らしめる方法は、いつまでも有効なものなのだろう。時代はノンペーパー時代にはなっても、不特定多数の人たちに広範に認識をしてもらう、いわゆる広報の役割はペーパーを越えるものはないだろう。そういう意味で必要だと思うものだけをそろえる傾向に慣れているものには、不要な情報はわずらわしいかもしれないが、意味あるものだと認識しておかなくてはならないのである。

 その議会だよりには毎議会の提案された議案と全議員の賛否を一覧にして掲載している。かつて知事と議会の争いごとが絶えなかった長野県議会のようなことは異常としても提案された議案をすべての議員が「賛成」で議決している一覧は、また違った意味で違和感を覚えるものだ。今回一覧にされている定例会の議案数は31議案である。「賛成」を○、「反対」を▼で示した一覧に載る議員の数は13人。当然のように○が羅列されているが、▼が10個ついている。欄の合計は403個であるから2.5%の反対が投票されたことになる。その比率はともかくとして▼がついている議員は1人に集中している。簡単に言えば保守的立場の議員が○なら、革新的(この表現が正しいかどうかは別として)立場の議員が▼ということになる。そしてこの▼をつけている議員は当然のように共産党の議員ということになる。これほどはっきり分かれている一覧は、わたしがこの町に住むようになって初めて見たような気がする。その理由は現在の議員を選択したて選挙によって共産党議員が1人だけになってしまい、三角が分散しなくなったということもある。しかし思い起こせば、前議会の報告にはどこかに少なからず▼が点在していた。今回提案された議案が、予算措置など新年度を迎えての町側の施策を表した重要なものだけに、反対するべく内容ではないものが多かったとはいえ、これほど偏った一覧を見ると、違和感を覚える方がおかしいとも思えないわけだ。よく精査すると今回の三角は介護保険条例の一部改正案と新年度予算に関する議案に付けられている。ようは反対議員は介護保険に関する考え方そのものに納得がいかなかったため、関連議案に反対票を投じたのだろうから、通常は三角がつき難い議案のようである。ということは裏を返すとすべて○になっても少しも不思議ではなかった定例会ということになるのだろう。議案内容が詳細に示されているわけではない。それだけで議員の考え方が一覧化されたというものでもないのだが、こういう一覧は見方を変えると▼議員が飛びぬけて異常のようにも見える。町当局の体制が変わったわけでもないなか、議会の顔ぶれが変わったことでこういうことになったのか、それとも何も変わっていないのかは、今後の審議内容によるのだろう。

 それにしても県議会は知事が変わったことで混乱はなくなった。田中知事時代を評価する声も少なからずある背景には、あまりの変わりようもある。田中落選後、全国には芸能人カラーの知事が何人か登場した。いずれも改革を前面に出しているが、かつての長野県のような知事降ろしが実行されるような関係ではない。そこには本気に変えようと思っていたのだろうが長野県を大事にして実行していたとはとうてい思えない手法が、どちらの立場にもあったことは事実だろう。
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北陸新幹線へ

2009-05-06 17:31:41 | 歴史から学ぶ
 地域の表記というのもいろいろ思惑があってさまざまなのだが、たとえば昨日の信濃毎日新聞の「焦点」で特集されていた新幹線の名称も思惑が交錯する例であることは確かである。もともと北陸新幹線建設促進で進んでいた現在の長野新幹線は、オリンピックという一つの目標があってどちらかというと運よく開通した新幹線である。オリンピックがなかったら10年は必ず遅れていたはず。整備新幹線の凍結もあって果たして実現に向けてどれほどの負担が強いられたかもわからない。これもまた南北格差を語るときの歴史と言えるのだろうが、現在の長野近辺の交通事情は、新幹線によるところが大きい。開通当初「北陸新幹線」とは呼ばずにとりあえずみたいに「長野行き新幹線」と呼ばれていた。これが整備新幹線凍結という話がなかったら、途中開業でもおそらく北陸新幹線と呼ばれていただろう。運よく開通して、運よく先々が見えなかったからその後「長野新幹線」と統一された。

 そして北陸新幹線は2014年度というから5年後には金沢まで開通する。長野商議所会頭は上越を取り込んで「長野北陸新幹線」実現を求めていくと言う。運よくというのは誤解があるかもしれないが、たまたま現在の「長野新幹線」呼称が実現したが呼称がどれほど経済的に意味があるのかこと新幹線に至ってはまったく理解できない。すでに長野新幹線の存在は、長野まで新幹線で行けることを承知させている。ここでその名称が消えたとしてもその事実は何も変わりはしないし、だからといって新幹線そのもののイメージが長野から離れるわけではない。あえて言うならもともと実現に向けて協力してきた、そして協力してくれた北陸圏域への感謝の意味も含めて単純でイメージしやすい「北陸新幹線」に変えてもなんら不満はないのではないだろうか。現在フル規格で走っている新幹線の完成形に一地域の名称をあてた路線は一つもない。こういう主張が強いては活発化する中央リニアの議論にも影響する。さすがに「田舎モノ」と言われても田舎モノだから仕方ないが、「通過駅にならないか」と危惧している関係者には流通という面でいかなる姿がベストなのか解っていないのではないだろうか。ただでさえ信越本線が途切れてしまった以降、鉄道便の不利益を被ってきた富山や石川の人たちが、再び長野というところが親しく見えてくるよい機会と捉えられないだろうか。もっと言えばこのまま整備が続けられれば更なる延伸もあるわけで、たとえば大阪までつながっても使える名称といえばやはり「北陸新幹線」ではないだろうか。
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「里山」という表現

2009-05-05 18:13:44 | ひとから学ぶ
 義理の父は大正生まれである。戦後世代が過半数を占めるようになれば、もはや「かつて」という時代もそれほど以前の話ではなくなった。すでに平成に入って20年を経過していればそれも当然のことで、わたしが社会に出たころはとおの昔という感じになっている。しかし、ではわたしは古き時代を知っているかといえばそうではない。きっとわたしが聞き取りで話を聞いた人たちの多くも、果たして「わたしがしゃべって良いものか」などという迷いを持っていたのだろう。「昔のことをよくご存知の方はいませんか」と聞くと必ず紹介される人がいた時代から、いまやそういう問いかけは「無駄」とも思える時代になってきている。はたして「よくご存知」とは知識の多いという意味と捉えられることはないだろうか。

 義父が地元の郷土雑誌へ寄稿するといって箇条書きに記憶をたどったものを書いた。それを自然の先生にまとめていただいたのだが、義父はいまひとつ言いたいことがまとまっていないと言う。「自然」という視点と「暮らし」という視点では当然まとめ方も異なってくるのだろうが、人の言った言葉、そして書いたものをどう捉えるかというのは、人それぞれなのだ。わたしにもそれを読んでみてほしいと言われ原文とまとめられたものに目を通すが、おおかたは原文をもとにまとめられていると捉えられるだろう。しかし義父が言うところの主旨をどう表現するかは、本人ではない以上なかなか汲み取れない部分があるものだ。なんとか意に沿うようなまとめ方にできないものかと考えることになったが、そもそも表題からしてどうなのかという疑問をわたしは持ったのである。

 今回の寄稿は自然分野の方たちの特集号である。「自然」という視点に立つものの、自然の専門的な視点に沿ったものばかりではなく、自然と○○といった具合にさまざまな視点をあてようという試みが目立つようになった。そんななか、今回の寄稿文の表題に「里山」という言葉が見える。ところが原文に入っていくと、冒頭では固有名の山の名を使ったり総称していた「野山」とか単に「山」という言葉を使っている。そしてしだいに書き綴っていくうちに「里山」という言葉でそれらを表現するようになるのだが、こういう表現にわたしは少し疑問を持ったのだ。あくまで山とか野山という捉え方をしていた以上「里山」という表現をする必要があるのたろうか。そんなことを思いながら義父にそもそも「里山」という言い方はしていたのかと問うと、「里山とは言わずに固有名や「野山」と言っていた」と言う。わたしの印象でも近ごろは盛んに「里山」という言葉を使うようなったが、子どものころには使った記憶がない。わたしにとっては木が生えていればすべて「ヤマ」と呼んでいた記憶がある。それだけ山の中に暮らしていたということにもなるのだろうが、それを改めさせられたのは、社会に出て長野県内でも比較的平らな土地に行った時に思い知らされた。平地林は「山」ではないと。ようは簡単には言葉を使えないということを知ったのである。もちろんわたしにとっての「ヤマ」は変わりないわけだからそれで良いのだが、他の地域には当てはまらないということである。そこから考えれば、「里山」という近年盛んに表現されるようになった空間表現よりは、かつて使っていた呼称をあてた方がその地域を表現するのはより正確ではないかということである。体系化した中での総称ならともかく地域固有の事例を表現するのなら「里山」という表現は必要ないのではないかということである。

 このごろは盛んに「里山」という言葉を使うようになった。そして「里山とは」という具合にそこはいったいどういう空間なのかという問いは誰しも持つだろう。それについてはリンク先へ譲るとして、ウィキペディアで説明されているように、里山そのものは古くからあってその語も文献上に登場すると言うが、今捉えられている「里山」と等しかったかどうかについては難しい。そして「現在のような里山の再評価に直接繋がる言論活動を開始した人物という意味では、京都大学農学部・京都府立大学などの教官を務めた四手井綱英がいる。四手井は今日的な意味での「里山」という言葉の使い方を考案した」と説明している。ごく近年使われるようになった単語であって、かつての暮らしを表現する際に「里山」と表現してよいかどうかについては難しいわけである。ここに知識を加えて「里山」と表現することの問題性を指摘したいわけである。わたしは時おり「里山」という言葉を使うものの、かつて使っていなかった言葉だけに、あまり率先して使うことは避けている。流行語に惑わされることなく、ありのままをまず捉えてみることが必要だろう。
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縁の下

2009-05-04 23:39:14 | 民俗学
 飯島吉晴氏は『日本の民俗8』(2009/3 吉川弘文館)の中で高取正男氏の夭折した子どもの葬法について書いた次の文を引用している。

「七歳の氏子入りまでに死んだ子は大人たちのように遠く離れたところに送ろうとせず、なるべく近いところに休ませてやり、もういちど生まれかわってくるのにきやすいようにはからってやった。いちばん極端な例では、早産などでこの世を光もみないで、息も吸わずに死んだ赤ん坊は家の床下に埋めたという村もあった。そして一般の墓地は集落と耕地を中心につくられている日常の生活圏から離れた場所につくり、大人たちをそこに埋葬するようになっても、子供たちは村はずれなどとよばれる集落の出入口の、道路にそって道祖神や石地蔵などの祀られているような場所の近くに埋め、村の日常から離れているようで実際は密接に結ばれている場所を子墓とし、子三昧、ワラベ墓などとよんできた。」(1980 「地蔵菩薩と民俗信仰」『新修 日本絵巻物全集』29 角川書店)

 今では宿った子が成人を迎えずに亡くなるということは少なくなった。「七つまでは神のうち」と言われた背景も、多産多死という環境が生み出した言葉なのだろう。だからこそ生まれて以降節目節目の儀礼を重視していた。形だけ残っている現在の儀礼もその背景にある理由は同じようなところから始まっている。前述した事例には再生の気持ちが十分にうかがえて、その意図は今でも理解される部分なのだろう。

 早産で亡くなった子を縁の下に埋めたという話はかつてよく聞いたような気がする。今では水子供養ということをするが、かつてはそうした供養を必ずしもしたわけではない。「よく聞いた」ことをよく思い出すと、わたしは祖母からその話を聞いたと記憶する。祖母にも早産の子がいて、縁の下に埋めたの埋めないのという話を聞いた。はっきりと記憶にはない。『長野県史民俗編』を紐解いてみると次のような事例があった。
○「生まれたばかりのミズッコは縁の下、または床下に埋葬した。家によってはカラウスをつく踏み場所に埋めた。(阿南町新野)」
○「ミズッコは寺から受けた血脈と一緒に産室の床下に埋めた。(上村中郷)」

 今でこそ住宅の縁の下の空間は閉ざされた空間であるが、かつての家では縁の下は開いていた。そこは物置としても利用されたし、ジャガイモが転がっていた空間という印象を持っている。その縁の下を子どものころにはよく隠れ家としたものである。もちろんかくれんぼのような遊びにも利用される空間だった。わたしの印象ではそのほかにもこんなときにも利用された。歯が抜けたとき、上あごの歯は下に向いて生えるようにと縁の下に捨てた。ほかにもそういうことが言われていたのかと調べてみると、『上伊那郡誌 民俗篇』に同じ事例があった。

○「上の歯なら縁の下へ捨てて「上の歯下へ向いて生えろ」という。下の歯なら屋根へ放り上げて「下の歯上向いて生えろ」という。」

 そう思って今暮らしている住宅を見回すと、縁の下はもちろんのこと天井も、さらには屋根も遠い存在になっている。かつて子どものころ、屋根や天井、そして縁の下にもぐりこんだ記憶は今の子どもたちにはもうないのだろう。
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現代人にはできない「もらい風呂」

2009-05-03 23:15:13 | ひとから学ぶ
 前にも触れたことがある。息子が風呂に入った後には垢というよりもなにやら物体が浮いている。母に言うと「新陳代謝が激しいから」という。小さな子どもが入った後も、そこそこ汚れは激しいもの。仕方のないことではあるが、息子には風呂に入る前に身体を洗うようにと以前言ったこともある。しかし、そんなことはおかまいなしである。毎日のように風呂に入っていればまだしも、風呂が嫌いなのか面倒くさいのか、めったに風呂に入らない。母には毎日のように「風呂に入りな」と言われているのに、なかなか実践できない。ただでさえ間際に起きてぎりぎりに家を出るのに、ときには朝方シャワーを浴びることもある。

 昨日も久しぶりに息子が風呂に入った。息子が入ると汚れるのが解っているから、先に入ろうとしていのに息子に先をこされた。何日か変えずに使っていた風呂の湯は、当然のように息子の入った後の風呂は見事に汚れていた。加えていつになく長時間入っていた。新陳代謝が激しいのか長く浸かっているうちに身体の腐敗物がぬぐわれたようだ。次に入ったわたしは、風呂の蓋を開けてすぐに浮いている綿毛のようなものに気がついた。それをとりあえずすくって風呂に浸かったが、間近に見ると湯面に浮遊しているものはもちろんであるが、水中にも白いようなものがたくさん浮いている。今だかつてないほどの浮遊物。それらをすくおうと桶で取り除いていくが、きりがない。あきらめて身体が温まったら洗い流して出ることにした。

 風呂を出ると母に「入る」と聞くと「入る」という。「風呂の湯を変えた方がよいかも」と説明すると、「お湯がもったいない」といって「入らない」という。この日、妻は田んぼの畦の草刈をしていたこともあり、本当は入りたかったのだろうが、疲れていたこともあって入らないと決断した。息子に「先に風呂に入りなさい」と毎日のように言う妻であるが、こんな風呂を見ると言うもののためらうものもあるだろう。わたしなどは解っているから息子が入る前に入りたいと最近はいつも思っている。そんな話をしながら妻と風呂談議となった。妻の友達は嫁に行った先で義父と主人が風呂に入ると風呂を変えるという。どの程度汚れがひどいのか見たこともない妻にも想像がつかないが、毎日風呂を変えているのに二人が入ると変えるというから我が家以上である。考えてみれば家族が多ければ毎日変えたって終いには汚れは目立つだろう。妻も友人に「先に入れば」と言ったようだが、義父が野良から帰ってくるとすぐに風呂に入り、風呂上りのビールを楽しみにしているということで叶わないことだという。妻のおじさんが口にするのは、「温泉などいかない」である。なぜならば不特定多数の人が入浴する温泉、それも循環しているようなところではとても汚いのは解りきっていること。ゆっくり自宅の湯に浸かるのが一番ということになる。

 かつて「もらい風呂」が当たり前のように行われた。水汲みが大変だったということもあるだろうし、焚くことも大変だった。毎日風呂を沸かすなどという贅沢はできなかったから、近所で融通しあった。かつてのそんなもらい風呂のことを聞き取りすると、沸かした家の嫁はみんなが風呂に入った最後に入ることになる。すでに風呂は汚れでどろどろだったという話は常の話のように聞いた。それでもかつては明かりも暗かったこともあって、それでも入れたのだろう。現代のように昼間のような明かりの下では、なかなかできないことである。現代人にできないかつての暮らしの事例として真っ先に上げられるのが、「もらい風呂」の風習だろう。おそらく10人いれば10人「二度ととしたくない」と言うに違いない。にも関わらず温泉は流行るのだから不思議なものである。わたしもかつては温泉好きであったが、今は遠慮したい口である。
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交差点の物語

2009-05-02 20:40:03 | ひとから学ぶ
 自分は極力そういうことの無いようにこころがけているが、歩いていると、あるいは交差点で止まって観察していると、交差点をめぐる物語は実に非常識であり、またさまざまな思いが見えて楽しいものである。右折車線のある信号機の設置された交差点には、交差点手前にも狭い交差する道がある。信号機が赤ならそれ以上進めないのだから狭い道から出ようとしている車の前を塞ぐ必要もない。右折車線に入っている車にとっては、右折しようとしている以上左から入ってくる車に対して意識が低くなることはしかたないにしても、基本的に交差する道路がある以上、対向車線の車が右折してその道に入ろうとすることもあるわけだから、交差点部分の車間を空けておくのが当たり前である。ところが次から次へとやってくる車は、交差点手前の狭い道から右折しようとして入ってくる車にはお構いなしに車を進める。いつまでたってもそこから右折しようとする車が出られないのである。いわゆる教科書どおりの運転なら、開けて止まってくれない以上いつまでも出ることはできない。したがって教科書どおりではない形、①頭を少しずつ出していって「しょうがねーな」と止まってくれる車を待つか、②無理に出ようと僅かな車間をついて突っ込んでいくしかない。

 なかなか入れない車の思いもむなしく、少しずつ進んでいた本線側の車は、交差点側から停止する車が後ろへと繋がり始め、入ろうとしていた車のまん前で本線側の車も停まった。まさに最悪な状態。入ろうとしていた車がやくざ風の人だったら「空けろ」とばかりにクラクションを鳴らされるところである。入ろうとしている車も、ど真ん中で停まった車も若い女性の運転手である。停まった車から交差点側にドライバーを見ていくと、女性ドライバーが続くが、若いにいちゃんもいる。いつになく渋滞している交差点に行ってみると、右折後の先に大型バスが路肩に停まっているせいか、車がつながっている。しかし、その脇を通れないわけではない。十分に通れる幅のある道路なのに、なかなか流れが悪いのである。その理由をうかがうと、少しばかり狭いだけなのに通れると判断できずに躊躇している車が多いこと、それと反対側車線も交差点を手前にして渋滞しているのに、車線の左に寄って対向車に融通してやるという気がなく、センターライン寄りに停止している車がいること、そんな理由なのだ。状況さえ把握すればなんでもないことなのに、なかなかそれができないのかしようとしないのか、といったところなのだ。ど真ん中に停まった車の運転手の様子をまじまじのぞいてしまうわたしは、趣味が悪いのかもしれない。

 交差点で渋滞する理由のほとんどは右折しようとしている車にある。それは運転していればわかっているはずなのに、なかなかそれを解消しようとする実践ができないものなのだ。そして右折専用の信号があっても、赤になった信号を右折を続ける車は多い。このケースでは右折専用信号が赤色になった後、スクランブルの横断歩道が青色に変わる。わたしの横で横断しようと待っていた公務員。見た目は頑丈そうなおじさんである。右折専用信号の青が消えたから横断歩道が青になることは解っている。当然のように青になっておじさんは渡り始めるが、まだ右折しようとしている車がいる。もちろんおじさんはもう少しのところで大声を上げるところだったが、かろうじて小声でよそには聞こえない程度に文句を言っていた。横断歩道を渡る側もまだ交差点に車がいることは見えているはず、それを知っていて文句言いたげに渡る輩はけっこう多い。どのケースも正式にいけば右折しようとする車に問題があることは十分に解る。しかし、十二分に彼らの、彼女らの気持ちが解るのは、同じことを誰もがしているからだ。しかし解っていても文句言いだけに行動を起こすあたりに、「正義」を盾にする悪人を垣間見るのである。
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