乗り降りのある電車というものは、どうしても乗ってきた客と継続して乗っている客では体感する温度に差がある。だからしかたのないことなのだろうが、ちまたでは冷房の温度を上げている時代なのに、なかなか電車内はあがらない。地方のローカル線など扇風機でいいじゃないかと思うが、客が遠のいてはいけないからしっかりと冷房をかける。ろくに人も乗っていないのにかけるのだが、「このくらい我慢しろよ」が自然に任せた方にではなく、強制的な冷暖房に対して言われているようでいけない。この季節なら暑くて「我慢しろ」ではなく、冷房の寒さに「我慢しろ」というのだ。しばらくローカル線に乗っていなかった人間が、毎日のように乗るようになった今ごろいろいろ言ってもいけないが、いつの時代からあべこべになってしまったのか、そしてそれが都会のことではなく地方の事実だというところに納得のいかないものがあったりする。
すべてが客のニーズにあわせたもの、と運営する側は考えているのだろうが、この多数決的感覚は、ときに納得できないところは多い。当たり前のことでもそう思う者もいればそう思わない者もいる。お客として案内されて、冷房の効いた部屋で冷えた麦茶を出されると、なかなかきわどいものである。部屋へ入ったばかりならともかく、冷房の効いた空間にずっといた人にとっては、さらに体を冷やすものには抵抗のある人も少なくはないはずだ。だから夏だからといって、必ず冷たいものが好まれるだろうという考えは適正ではない。そういえばいつの季節からかは明確ではないが、自動販売機の飲み物がホットからクール変わるときがある。冬でも必ず冷たいものを置いている自動販売機があるのに、夏になると熱いものはまったくおかなくなる自動販売機がほとんどである。これが「常識」といわれるとしかたないことではあるが、夏でも熱いものを飲みたいと思うことはある。わたしなどのように電車の冷房がこたえる者にとってはそんな空間にずっといると温かいものが飲みたくなる。年寄りならよけいにそうだと思うのだが、近年人々は常識に慣らされてきて、けっこう順応しているようだ。常識の世界では生きられない人間だけが、我慢をする時代なのだ。