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Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

常識的な判断

2008-08-16 13:05:44 | つぶやき
 先日夜電車に乗ると、乗ってきた乗客が「冷房をなぜ切った」とクレームをつけている。ずっと入れっぱなしだと寒くなるので、車掌が温度を気にしながら切ったり入れたりを繰り返す。たまたま乗ってきた乗客は外気にさらされていたから、乗ったと同時に切られたのが頭にきたのだろう。しかし、実際のところ電車内の気温はけっこう下がっていたし、夜だったこともあり外気もそれほど暑いというものではなかった。30分ほど乗っていたわたしにはそろそろ寒くなるという印象のときに切られたからちょうど良かったのだが、車掌はクレームにあって冷房を入れることになる。さすがに寒くなってきたがしばらくは我慢である。とはいえ、それまでは入り切りを交互にしていたのが、クレーム以降入れっぱなしとなり、いよいよ寒くなる。乗客も我が家に近くなってくるからずいぶんと少ない。これほど少ないのだから言ってもいいだろうと思い、車掌に「それにしても、ちょっと…」と口火を切ると「寒いですよねー」という。わたしももう二つほど駅を過ぎれば降りるということもあって強くは言わなかったので、我慢を続けることになった。

 乗り降りのある電車というものは、どうしても乗ってきた客と継続して乗っている客では体感する温度に差がある。だからしかたのないことなのだろうが、ちまたでは冷房の温度を上げている時代なのに、なかなか電車内はあがらない。地方のローカル線など扇風機でいいじゃないかと思うが、客が遠のいてはいけないからしっかりと冷房をかける。ろくに人も乗っていないのにかけるのだが、「このくらい我慢しろよ」が自然に任せた方にではなく、強制的な冷暖房に対して言われているようでいけない。この季節なら暑くて「我慢しろ」ではなく、冷房の寒さに「我慢しろ」というのだ。しばらくローカル線に乗っていなかった人間が、毎日のように乗るようになった今ごろいろいろ言ってもいけないが、いつの時代からあべこべになってしまったのか、そしてそれが都会のことではなく地方の事実だというところに納得のいかないものがあったりする。

 すべてが客のニーズにあわせたもの、と運営する側は考えているのだろうが、この多数決的感覚は、ときに納得できないところは多い。当たり前のことでもそう思う者もいればそう思わない者もいる。お客として案内されて、冷房の効いた部屋で冷えた麦茶を出されると、なかなかきわどいものである。部屋へ入ったばかりならともかく、冷房の効いた空間にずっといた人にとっては、さらに体を冷やすものには抵抗のある人も少なくはないはずだ。だから夏だからといって、必ず冷たいものが好まれるだろうという考えは適正ではない。そういえばいつの季節からかは明確ではないが、自動販売機の飲み物がホットからクール変わるときがある。冬でも必ず冷たいものを置いている自動販売機があるのに、夏になると熱いものはまったくおかなくなる自動販売機がほとんどである。これが「常識」といわれるとしかたないことではあるが、夏でも熱いものを飲みたいと思うことはある。わたしなどのように電車の冷房がこたえる者にとってはそんな空間にずっといると温かいものが飲みたくなる。年寄りならよけいにそうだと思うのだが、近年人々は常識に慣らされてきて、けっこう順応しているようだ。常識の世界では生きられない人間だけが、我慢をする時代なのだ。
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帯締めのいらだち

2008-08-15 23:46:53 | つぶやき
 オリンピック期間だからこのことにも少しくらい触れたい。ほぼ半分が過ぎて、予想通りアテネとは違って日本には厳しい状況になっている。アテネではずいぶんと予想以上のメダル獲得があったのかもしれない。だから同じだけのメダルを獲得するのは難しいというのはおおかたの予想だった。前半戦でメダル獲得可能種目があるだけに、ここまでの獲得の様子で、今回の最終獲得数も予測が絞られているのだろう。そんななか、野球とソフトボールはとりあえず今大会で姿を消す。日本の有力種目だけに残念だろうが、競技人口的に考えても、また競技時間とその規模から考えても、なかなか難しい種目であることは確かだ。野球にはまったく縁のない国にしてみれば、開催するとすれば野球場を造るということでも大きな意味合いをもつ。造っても競技人口がなければ、その後の施設の維持にも苦労する。競技施設の規模が大きくなるということは、その選択の中でのリスクは大きい。

 競技施設のこともそうだが、競技時間も他の種目に比較すると長い。それだけ面白い種目だと思うがそのあたりが理解されていなければしかたない。それにしても今回のオリンピック、会場の客の入りはかなり少ない。不人気種目はともかく、けっこう中国が強い種目をみていても、それほど圧倒されるほどの声援が聞こえない。放送のせいなのかどうなのかそのわたりは解らないが、女子サッカーの中国対日本戦、ブーイングは聞こえてもそれほど気になるものでもない。大国中国なのに観客が少ないのはどういう意味なのか、などと思いながらも野球の閑散とした風景を見ていると、選手たちもいつもと違う雰囲気の中での試合に拍子抜けという感じだろうか。

 それにしても柔道女子78kg級の塚田は残念だった。今大会でもわたしの中ではもっとも印象に残る場面になった。男子もそうであったが、帯を締めるように指示されたときのだらだらとした仕草は大変気になる。塚田の相手だったトウ文の帯締めのだらだらした仕草には「警告しろよ」と思うほどだった。見ていてもとても雰囲気がよくないから、こういうのに警告をするようにしてもらいたいものだ。だからこそ最後に逆転されて負けてしまった塚田は残念だった。ちょっと許せない、そんな感じの試合だった。
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村とは何か③

2008-08-14 22:29:09 | 民俗学
「村とは何か」②より

 和田健氏は「村づきあいの解釈と変容」において、協同性のあった社会が崩壊するなかで何かしらの関係性を再構築していったことについて触れている。「農家の働き手が同時に会社勤めをすることにより、農という生産の場である「村社会」とサラリーマンとしての働く場である会社社会」といった二つの社会で関係性を作っていかなくてはならない。当然村に住むものとしての責務に対して何らかの負担減を考えないと生きていけない。近隣の葬式には必ず手伝わないといけないことも、もはや会社勤めのため果たすことが難しいならば、やはり葬家が葬儀業者にたのむ方が精神的に楽―葬式を出す側も手伝わねばならなかった側も―である」とその再構築の事例を説く。そして「協同性の変質と崩壊」ととるのではなく、「協同性の清算と再構築」といい、変容する事実とその要因を問題にするのではなく、変容する過程に人々が何をしてどう新たなものを見つけていったのかを見る必要があるという。確かにその通りで、その過程に民俗性があったのかどうなのか、というところがその視点になるのかもしれない。しかし、民俗学の専門家たちが、現実的にこうした過程を問題視するのではなく、自然に受け止めてきたのは納得のいかない部分でもある。民俗は変容するものであるといういっぽうで、古い形を残すものを貴重だという意識を常に持ち続けてきたはずだ。たいへん柔軟性のある分野なのかもしれないが、実は現代の農村の問題は民俗性と強く関わっているはずだ。にもかかわらず、民俗学は疲弊した農村を救うことなどまったくできなかった。ようは第三者、人事として傍観してきたのではないだろうか。何も解決策を持たない原点に、変質と崩壊を説くのではなく清算と再構築と都合よい捉え方をしてきたように思う。たとえ村がなくなっても、その過程とその先の再生を研究するというのだ。崩壊しないためには何もしなくても、崩壊後の姿までみ続けようというのだから、「傍観」でなくてなんだというのだろう。

 前回触れたように村が崩壊していくのを嘆くのではなく、前向きな視点で捉えようというのは理解できるものだが、だからといって崩壊を傍観するのは無策というばかりだ。民俗学をたしなむ人々は、農村に入り、現実的な問題を肌で感じてきたはずだ。にも関わらず、研究材料としてデータは拾ったかもしれないが、そこから先へ問題を提議することもなかったし、解決することもなかったのではないか。本当の意味で農村の姿を捉えたのか疑問は多い。


 和田氏は坂東市木間ヶ瀬集落の事例を紹介している。この集落は昭和30年当初よりあらゆる野菜栽培を手がけたという。1年間均一に農業に関わることができ、農閑期を作らない生活をめざした。それまでは東京への長期の出稼ぎが多かったため、村内のつきあいが濃い村でありながらそうした遠隔地にいる場合苦労が絶えなかったというのだ。そのためにも出稼ぎを解消しようと農業で安定的収入を得ようとした。これは木間ヶ瀬だけのことではなく、どこでもそうしたかったはずで、そうした取り組みはあちこちで行われたわけである。わたしが現在住んでいる地域も、養蚕後の生産の主体を果樹へと転換していった地域で、協同出荷という体制を整えて成功していったわけである。しかし、果樹も一時のことを思うと実入りが少なくなり、加えて手のかかる仕事を若者は敬遠する。和田氏は「村をあげての取り組みで生産、出荷の協同関係を作り上げた例は、二一世紀入った今となっては非常に難しい」という。その理由として「家同士あるいは人同士のつながりは、旧来のつきあいや地理的な立地だけでなく、、インターネットを通じて関係を構築することが十分可能だからである」という。さらに「必ずしも村の関係を基盤にして出荷流通に関わる労働関係は必要条件ではない」とまでいう。「生業と村は別の問題」とまとめているが、実はこれは大きな間違いである。日本の農業は政府の政策で左右されてきた。今の補助制度は少し前に始まった中山間地域直接支払いに始まり、後発の農地・水・環境保全向上対策など、協同作業を前提としたものが主流となっている。そして「我が国農業の構造改革を加速化するとともに、WTOにおける国際規律にも対応し得るよう、これまで、全ての農業者を対象に、品目別に講じられていた経営安定対策を見直し、施策の対象となる担い手を明確化した上で、その経営の安定を図る水田・畑作経営所得安定対策を導入しました」と農林水産省がいうように、集落営農という形を平成22年度を目標にシステム化している現在である。今後はそれを法人化という形にしたいというのがねらいであるが、それがスムースにいくとはとても思えないが、いずれにしても農水省の考えでは集落営農化が最優先である。ということは、村をあげた取り組みを政府はさせようとしていて、補助金を欲しいがために、農村はその施策に適応しようとしている。ようは農村が右往左往しているのも政策のせいであるが、和田氏の言うような関係には簡単にはならないのである。
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親の人生

2008-08-13 22:07:13 | ひとから学ぶ
 「消えゆく記憶受け継ぎたい」と題した記事を、信濃毎日新聞8/11朝刊のフロントラインというコラムに見つけた。この記事は長野県環境保全研究所の富樫さんという方が書かれたもので、環境保全というところに直結した内容ではないが、遠まわしにわたしたちは何をしなくてはならないか、というところを暗に教えてくれている。

 富樫氏は先ごろ父を喪ったという。84歳でなくなったということで、戦中から戦後への激動の時代を経験したわけだ。戦中をよく認識されている人たちは、当時のことをあまり口にはしない。わたしも戦後それほど時を経ていない時代に生まれながら、戦争のことはほとんど父や祖父から聞かなかった。わたしと父との世代の間には、戦争という事件に対してまったく乖離した世界がある。これはわたしだけのことではなく、意外と大勢の人が感じているはずである。あの戦争がいったいなんだったのか、そんなところを戦後生まれの人間はもちろん体感などできないが、言葉による継承という意味でもあまり接してこなかったといえないだろうか。そして、それは今でも遅くはないと思ういっぽう、高齢化していく親たちの姿を見ていると実現性も乏しいとわたしは思うようになった。それは、戦争ではない暮らしのことなどを聞こうとしても記憶がはっきりせず、こちらがイメージできるところまで聞き出せないからだ。いかに遠い時代を呼び起こすことは、強烈な印象だったとしても難しいかということがわかる。

 富樫氏は「父はそういった時代の移り変わりや感慨を口にする人ではなかった」といい、わたしと同じように父の姿を捉えている。そして「実家でそういうことが話題になることもほとんどなかった」と言うように、つい少し前に起きた大きな出来事でありながら、戦争を知らない子どもたちへ、わざわざ戦争のことを話題にしなかった戦争世代の姿が現れてくる。子どもたちが聞けばともかく、聞きもしなければそんな余計な経験を口にはしなかったのだ。「昔はナー」と口にすることは年寄りの口癖なのだろうが、こと戦争という部分についてはイメージできないほど具体的なものは登場しないのだ。もちろん誰もがそうであったとは言わないが、そういう傾向があったことは確かである。富樫氏は「歴史資料はあっても、当時の自分の祖先の記憶や具体的な体験は残っていない。実際は父の記憶のみならず、父が記憶していたであろう父の父母のことなどをほとんど伝えてもらってなかったことに気が付く」と言う。忙しさに追われる日常の中、いつの間にか父や母はいなくなってしまう可能性が高い。「いなくなって気が付く」と思う人も多いはずだ。たとえばいずれ退職していたら農業を、と思っていても、それまで手伝っていた農業と、父がいなくなっての農業はまったく違う。農業だけではないだろう。それほどそれぞれの人々は、それぞれに多くを学び経験してきた。息子や娘として、いかにその人生の経験を聞くことができているのか、それぞれの人に問いたいとともに、わたしもまったくそうした実践をしてこなかったことに悔いが残る。成人し、親と違う世界に生き始めると、親など姿かたちだけのものになってしまう。何を伝えられたのかと自問すると、そこは空白だらけとなってしまう。そういう意味でも同居しない世界を見るにつけ、最悪なシステムを構築してしまっていると思わずにはいられないわけだ。
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緑の回廊物語

2008-08-12 12:31:14 | つぶやき
 「噂の現場真夏のミステリー」と題した噂の東京マガジン8/10放送において、東京都稲城市の里山がなくなるという報道がされていた。地権者である254人が組織する組合は、南山開発と称する総事業費約400億円のニュータウン構想に乗っかったわけだ。その理由は相続税に対する不安からくるもので、ようはこのまま山林として所有していても相続税に首を絞められてしまうから、売って懐を潤わそうというものだ。今までにもどこでも行われてきたことで、珍しいことではないのだが、恐ろしいことに東京近郊ではこうした開発がまだまだ続いているわけだ。日本の全国土からみれば、人口が減少し始め、今後も増えるはずもないというのに、東京周辺にはいまだこうした環境がある。人々が望むものなのだろうが、うした現象はさらにこの事業に対しての不満にも現れる。今回の噂の現場は、こうした里山破壊に異論を発する住民と、相続税対策を口にする地権者側という対比である。どちらにもそれぞれの立場があるのだろうが、里山を守ろうという住民の意見には奥深い東京の物語がある。

 ようはオリンピック誘致という名目につながる。北京オリンピックが始まっているが、このごろのオリンピックは環境を守るといううたい文句がある。あくまでもうたい文句だけで、実際は形骸化しているといわざるを得ない。すこしばかり配慮したという捉え方もできるだろうが、環境の時代だけに、そうしたうたい文句はとくに声も大きくなる。そんなひとつに「緑の東京10年プロジェクト」(事業費約800億円)がある。東京都全域に街路樹100万本を植え「緑の回廊」を造るというものだという。グリーンベルトのような緑地帯を造るというわけだが、その緑地帯の一部に稲城市もかかっている。具体的イメージはその筋の計画を読んでも理解しがたいが、いずれにしても人為的に緑を増やそうというものだ。そのいっぽうで稲城市南山開発は、8万本の樹木を伐採するという。この矛盾に対して住民は異論を発している。たまたまこの森にオオタカが営巣しているというが、オオタカのことはともかくとして、矛盾であることをもっと大きく認識してもらいたいものだ。山の木々は葉が落ちればそのまま山の土へ還る。はたして緑の回廊はどうなのだろう。緑地帯というよりも里山と同様の空間として設けられるのならそのまま葉は落ちても掃かれることも処理されることもなく還元されるだろうが、公園的整備だとそうはいかない。自然に任したままならともかくそんな緑地帯を管理するなどといったら大変なことである。もちろんその程度の管理費は大東京なら安いものかもしれないが、わざわざ人為的に造る必要がどれほどあるのかと思うわけだ。もちろんこの時代に創造するというのだからそのくらいは考えていると思うのだが、エコ、エコと言いながらエネルギーをそれ以上に浪費しているようなものではないだろうか。それがオリンピック誘致のみ看板だというのなら、これほどの無駄はないのではないだろうか。東京集中をますます進めようという現都政ならではの口実なのだろうが、そのくらいなら分散させるべきという声がもっとあがってよいのだが、さすがに石原都政下ではタブーなのだろう。どちらが経済的で、また国民にとっても格差のない世界か考えてみれば容易に理解できることである。考えてみれば既存にある山を残して維持するよりも、新たに創造した方が、そこに経済活動が発すわけで、大東京なら躊躇なく後者を選択するのだろう。こうした知事が支持されるというのだから、東京の住民は信用できないわけだ。

 里山的整備ならともかく、街路樹だとしたら、落ちた葉をだれがどう処理するのか、そのあたりも含めて非生産的と見えるものの、逆に言えばそうした処理に絡む業が栄えるわけだ。
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冷静に考えるべき

2008-08-11 12:27:48 | つぶやき
 先日、今年度初めてとなる長野への出張があった。荷物がなければ電車で行くところだが、そこそこの荷物があったため会社の車で向かった。9時半からの会議ということでけっこういつもよりは早い電車に乗らないと伊那で中継できない。6時半前の電車で向かうが、その電車は長野への直通便である。そのまま中継せずに電車で行くと10時少し前に駅に着くという便で、もし電車で行くにはもう1本前の始発に乗らなくてはならない。とはいってもその違いはせいぜい30分から1時間くらいの違いなのだが、我が家からはいずれにしても車なら2時間半、電車なら4時間という世界が長野なのだ。

 久しぶりに高速道路なるものを利用するのだが、この季節県外車がとても多い。午前中に終わり、さらに久しぶりに国道19号を利用して豊科まで走った。高速とは違い、車の量はまったく少ない。かつての国道19号をしっかり走ったわたしにはとても同じ道路とは思えないほどに少ない。わざわざ高速道路の代金を節約してこんな道を通る人もずいぶんと少なくなったということなのだろう。

 さて、前述したようにわが家から電車で北上するのにはずいぶんと抵抗があるほど時間を擁す。中央本線の走る岡谷まで約2時間である。飯田からなら約2時間半ということになる。伊那谷を抜けるだけでもそれだけ時間を擁すということを念頭にして次の問題に入る。いよいよリニアの試掘ボーリングも始まり、すでに既定の道筋という感が飯田下伊那では漂う。いっぽう飯田下伊那以北の人々に納得いかない事実として受け止められているが、よほどのこと(試掘しているラインでは地質上問題があるなど)がない以上リニアのラインは決まったようなものだ。とすると、相変わらず諏訪ルートを推し進めるなどという考えを持つのは得策ではないだろう。もちろん以前にも触れたように、わたしはそんなものに用はないし、果たしてこの地域にリニアがやってきたからといって地域として、また住んでいる人々にとって良いとは必ずしも言いがたい。それでもあえて通るというのなら、いわゆる地域活性化を願う人々の視点で考えてみる。

 基本的に諏訪ルートだとしても駅を地元の出資で造れと言われればせいぜいひとつ。そういう意味でいけば諏訪ルートであれば、駅の位置は諏訪に近くなる。ようは飯田というケースは小さくなる。ところが直線ルートとすれば、造ったとしても狭い伊那谷の東西の中のどこかということで、飯田を通れば飯田にしかその位置を求められない。ところが前述しているように連絡すべく飯田線は諏訪圏内から2時間半もかかる。諏訪から東京は、スーパーあずさを利用すればいまや2時間を切るところまできている。ようは飯田という遠隔の地ではもし駅があったとしても西日本方面へ向かう際に必要とされるだけで、東京指向の地域にとっては利点はそれほどないということになる。それは伊那あたりまできても同じで、伊那から飯田まで1時間半もかかっていては、さすがに利点は少ない。もし現在の輸送形態の中心である道路への依存度が下がればともかくだが、地方住民の足は車であることに違いはない。飯田線の改善が図れれば別だが、今の情況では難しい。よほどこの伊那谷がベッドタウン化して、人口が増えるというのなら別だが、そんな空間を誰が望むだろう。そんな大変貌を願ってのリニア誘致なのだろうか。一攫千金の世界のようである。伊那谷に現在住んでいる人たちの数からゆけば、その利用度は低い。これほど連絡が悪い中で、飯田以外の人たちがどれほど期待するかも疑問で、それを応分に負担できるだろうか。明らかに諏訪圏内にとってはそれほどのメリットはない。とすれば伊那谷北部地域の人たちの期待度に関わってくる。とすれば、直線であってもなるべく北側をルートに取ることが望まれるところだと思うが違うだろうか。とはいえ早川町と大鹿村釜沢を結ぶとそれほど北には行きそうもないが・・・。
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地下水を育む

2008-08-10 16:55:42 | 自然から学ぶ
 〝「マンボ」とは言うけれど〟で触れたが、上伊那における水の求め方に縦井戸を空気坑として一定間隔に設けて不透水層まで掘り下げ、そこから横へ縦井戸を結んで横井戸を掘るというものがあった。イランでの70kmという長い井戸はないにしても、天竜川の礫層が東西に幅広く展開している舞台ではそこそこ長い横井戸が掘られたともいう。扇状地の上は透水層が覆っていて、水が地下へと浸透してしまうため用水を得るために苦労が絶えなかったわけである。

 こうした透水性の高い土地の段丘崖には湧水が豊富となる。伊那谷の場合、段丘崖を中心に古い集落が線状に展開している。南箕輪一帯の段丘崖にも湧水が豊富に現れ、段丘崖やそこから西へ向かう沢沿いにわさび畑が発達した。かつてはそうしたわさびが安曇野に送られたともいう。湧水とはいうものの、段丘上の浸透水があるからこそ豊富になるものて、段丘上に不透水層を設ければ、自ずと湧水も減少することになる。たとえば用水路の水が漏水したりしなければ有効に水利用できるが、いっぽうで漏水することで耕作をかろうじて行っていた人々もいただろう。農業用水路が未発達な時代にはそうしたことは当たり前のことであった。用水なくして不毛の地は豊かにはならない。だからこそ古い時代に延々と長い水路を山腹に這わせて引き込んでいた事例も少なくない。長野県のような山間地帯では、こうした山腹に這わせられた水路が大変多い。それらも段丘上同様に漏水との戦いであった。山腹においては漏水したからといってその下に耕作地がなければ漏水しないような水路に改修されても困る人はいないだろうが、ある程度傾斜があって、起伏のある土地では、後から耕作を始める人たちには用水はかなりの難問となる。沢伝いであれば、山腹からの湧水を頼りに耕作をするわけだが、それでも不足すればため池が造られた。妻の実家でも家のすぐ近くに二つのため池が同じ沢に連続しているが、それぞれのため池から潤される水田は、沢沿いの水田ではなく、ため池から等高線沿いに引かれていった尾根越えの水田が対象である。ため池のすぐ下に広がる1町歩ほどの水田は、ため池からのおこぼれと用水路からのオトシ水で耕作をしている。一滴もため池から流れ出さなければ、そして一滴も水路から漏水しなければ、さらには一滴も水田から排水されなければ、それらの水田は雨だけに用水を頼ることになるわけだ。

 このように人為的ではあっても、用水の権利を持つ人々とそうでない人々は無関係のようで自然の成り行きのなかで関係していたわけである。ところがこうした連鎖している関係は数字的にはなかなか表せないため、具体的な行動や評価という面では説明責任を果たせなくなる。したがって雰囲気では解っていても、それを口実にして権利を主張することもできないわけだ。現代の農業用用水路は、漏水を防ぐために舗装化されてきた。そして漏水しないことが効用を発するということで数値化され、また説明されてきた。いっぽうでは権利のない人々には厳しい情況がやってくるのである。

 生家のある周辺は湧水が豊富であった。天竜川支流の与田切川の河川内でも湧出している箇所があちこちにあって、それも多量であった。そんな湧出していた場所はいまやまったく乾ききった状態である。また家の周囲も礫層だったこともあるが、水田の下に湧水の通り道のようなものがあって、ときおり水田が抜け落ちで水が抜けてしまうなどということもあった。漏れた水はけして無駄になるのではないが、利用した者にとっては漏れないことが大事であって、自然の成り行きは人為的であっても、どこかに自然との調和の中に存在していた。

 大菊土地改良区は熊本市を流れる白川流域に展開する農地へ用水を供給し、管理している団体である。ここでは「豊かな地下水を育むネットークを設立している。 白川中流域の水田がもつ透水性の高い地質を生かし、湛水農法の普及を通して、①安全かつ高品質な農作物を生産・供給すること、②湛水農法により、熊本都市圏の地下水保全に貢献すること、③湛水農法により生産された農産物のPR推進活動、④都市と農村の共生をはかることを目的としているという。②にも示されているように農地を湛水させることで地下水保全に貢献したいと、作付していない期間に湛水をおこない、地下水のかん養を目指している。簡単にいえば地表面を潤わせ、その水を浸透させようとしているのだから農家にとっては非生産的なことであるが、無関係な隣の人たちと共存しよう、自然の成り行きにまかせようとも捉えられる。数値化できないといってこうした取り組みは今までには評価されなかったものだろうが、漏ることにも意味があるという捉え方も楽しい話ではないだろうか。
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雷鳴と焼けた空

2008-08-09 19:13:50 | 自然から学ぶ


 なかなか雨が降らなかった。稲の花が咲き始めて、今年はどうなるんだという雰囲気が漂う。長野県内でも北の方から雷雨が始まり、このごろはゲリラ豪雨とも言われるほどの局地的な集中豪雨がやってくる。松本の方で雷鳴の轟いていたのが、ようやく伊那谷にやってきて、伊那市あたりで何日か轟いたものがさらに南下し、最近ようやくわが家のあたりでもそれらしき雰囲気がやってきた。

 とはいっても雷鳴は轟くもののなかなか雨粒が落ちない。渇ききったわが家の横の水路は、排水路だからまさに乾ききり水一滴流れていない。伊那市あたりでゲリラ豪雨が発生した数日後、ようやくわが家のあたりでも雷鳴だけではなく雨粒が落ちるようになった。そんな日が訪れると、それまでとはうって変わって、午後になると怪しい雲が現れる。午前中の雰囲気とはまったく異なる。それでも暑さはそれまでと変わらない。雲がやってきても蒸し暑さが加わり、日中の暑さは嵩むばかりだ。

 雷鳴が轟くこの日、駅に降りるとどんよりした雲の下、蒸し暑さが身体を覆う。やってきた線路の先には、雲がなく赤く焼けた空が見え、その焼け色は線路に反射した。

 わが家へ向かうが雷鳴が轟いてもまったく雨粒は落ちてきそうもない。夕方になってもまったく空に変化がやってこないころは傘も持たなかったが、今は折畳の傘を持ち歩く。とはいえ使わないにこしたことはない。しかし雷鳴だけだから暑さは増す。坂を上るせいでもないだろうが、やけにむし暑い。みな「暑い、暑い」と口にしていたが、最近は「暑い」のは当たり前だから、そんな言葉を口にはしない。なるべく暑さに触れないことにこしたことはない。こんな暑さを体感している、過去の暑い日々がよみがえる。25年ほど前に住んでいた飯山市は、長野県内では珍しい海端の暑さが体感できる。当時は猛暑日などというものはなかったが、35゜近い夏の日は珍しくなかったように思う。生家のある地よりずいぶんと北に位置しているのに、なぜこんなに暑いのかと思ったのが最初である。いや、飯山市に住む前に長野市の夏も経験したが、人々の多く住む場所、そして家が立ち込めている場所では暑いのは当たり前だと解っていた。飯山市は長野市にくらべれば人も少なく、家の密度も少ないが、無風の空間でどこか湿気の強い空気は海からのものと悟ったものだ。あれから25年たった現在の暑さがどうなのか、最近は足を踏み入れていないわたしには見当もつかない。温暖化とはいうが、あのころの暑さは、わたしの未体験ゾーンだったせいか、今の暑さよりも強烈な印象が残っている。

 さて、いよいよゲリラ的豪雨がわが家のあたりにもやってきた。一時の集中豪雨は、どうみても時間当たり20mm以上を観測できる量のはずだ。だが、わが家から数キロ離れた気象庁のアメダス観測点のその時間の雨量は少なくはないが、それほどのものでもなかった。まさに集中的なんだとわかるが、さすがにそれほど降ると、涼しくなった。
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鳥肌が立つ

2008-08-08 21:12:12 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞8/6朝刊の「斜面」において、言葉の使われ方について触れていた。先般文化庁が国語についての世論調査について平成19年版を発表した。世代間で言葉の意味の取り方が逆であったりするものがあり、言葉が人々によって生きているという証を示していたわけだ。「斜面」では「鳥肌が立つ」について、「本来は寒さや怖さのためにぞっとする感じなのに、最近は感動の表現に用いる」と述べ、「間もなく北京五輪。「鳥肌が立つ」が多数派になるのだろうか」とくくっている。「鳥肌が立つ」とは用法といえば用法なのだろうが、現実的に鳥肌が立てば、どういうときであろうと用法に間違いはないはずだ。そういう意味では、感動の表現として利用する人もいるかもしれないが、実際に鳥肌が立つ人も少なくないはずだ。どうもこのあたりは記事を書かれた人と少しニュアンスが異なる。だからわたしも間違っていよういまいと、感動した際に鳥肌が実際に立って「鳥肌が立つ」と思ったことは何度もある。きっとそういうところからこの言葉の使い方が生まれたと思うのだが、そう思うのはわたしだけなのだろうか。

 ところで平成19年度「国語に関する世論調査」の結果において、「カタカナ語の使用」という項目がある。「外来語や外国語などのカタカナ語が多いと感じることがあるかどうか」という質問において、86パーセントの人たちは「ある」と感じているという。この質問の趣旨は「外来語や外国語など」と表記しているところから、それらの言葉は漢字では当てはめ難いとかひらがなでは文章にしても表現し難いという言葉なのだろう。そして「外来」というように基本的には日本古来からの単語ではないという前提がどこかに漂う質問である。続いて「外来語や外国語などのカタカナ語の使用を好ましく感じるかどうか」という質問に、「好ましい」と感じる人は15パーセント程度しかないという。平成14年度との比較がされているが、経年の変化はそれほどない。

 実は民俗の世界ではカタカナ表記が多い。漢字を充てることで、それぞれの人が経験している情報で言葉の意味が固定化したイメージになりがちである。それをあえて漢字ではなくカタカナを充てることで、既存のイメージを取り外すことが可能である。裏を返せば意図的に解りづらくさせているようにも見える。最近触れている「村」を「ムラ」と表記するのは民俗の世界では常識的なことである。しかし、そうした表記に慣れている人たちはともかくとして、意識していない人々にはむしろ解りづらい用法かもしれない。ところが行政的な属地的「村」とは違う村を表現しようとする際に、「村」と表記することで固まったイメージ、あるいは歴史上の常識的な枠組みにはめられて捉えられてしまいがちである。「この村は」という際の村は行政上の村、「このムラ」という際の村はそれぞれの人々の意識の中にある伸び縮みのあるエリアになる。やはり規定されたものではなく曖昧なものと捉えられることになる。既定概念に捉われることなく、言葉の意味が多様であるという日本語らしい表現をより一層与える表記方法であることに間違いはない。
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小さな水路空間に見る

2008-08-07 12:24:39 | 西天竜

 伊那市から箕輪町あたりまでの水田地帯を歩いた。西天竜幹線水路といわれる昭和初期に造られた用水路から潤いを得て、千町歩ほどの水田地帯が安定した農業を営んできた地帯である。ところがこの一帯、比較的水田の区画は小さい。いわゆるほ場整備といわれるものが盛んに行われた昭和40年代から50年代の水田ではない。幹線水路が造成された当時に開田事業で整備されたものだから、せいぜい一反歩程度の大きさの水田である。実際はその後に整備されてもう少し大きく整備された水田もあるが、そうした水田は1割にも満たないだろう。幹線水路から暖簾が垂れ下がるようにそうした小さな水田に用水を供給する水路が真っ直ぐ天竜川に向かって降りてゆく。1枚あたりの水田の大きさが小さいから、そうした水路の数も多くなる。一反歩ならだいたい長い方の辺が60メートルくらい。ほ場整備されたところなら100メートル近い整備されたところは道幅も広いから整備されていないところに比較すると倍近い頻度で水路が下っていくことになる。千町歩ほどの範囲に200キロを超えようという用水路が走る。一説には一反区画の方が宅地にしやすいともいうから、伊那市から箕輪町にかけての水田地帯には、それを説くように住宅地が増え続ける。おそらく今から20年も前にそんな情況があったら、限りなく住宅が増え続けただろう。今は人口減という現実のなか使い捨て風に住宅が増える。増えた住宅はいずれ不要になっていく。まるで道路整備にも似た解決しない要望のように。

 そんな延々と続く水路はすべてコンクリートで舗装されている。農業にどれほど力が注がれているかはしらないが、ほ場整備を昭和40年代以降に行った空間よりは、明らかに管理は行き届いていない。「このあたりの人たちは草刈りをしないんですか」と聞きたくなるほどこの季節の草丈が目立つ。この水田は草を育てているのではないかと思うと、草丈に飲まれた大豆が見えたりする。もちろん管理された水田もあるが、一面水田地帯ではあるものの、虫食いのように土手草が管理された空間がぽつんぽつんと見られる。水口から入れられた水が、溢れるばかりに水田に流れ込み、オトシ(排水口)からだらだらと水路へ戻っていく。そんな水田の姿がよく見られる。水路を管理する側は、そうした管理は嬉しくない。常に用水路から水が供給され、また排水口へ流れ出ているとなると、施設の安定上うまくないというわけだ。延々と続く水路だけにずての不具合を修正するほど余裕はない。となれば、古くなってもなるべく長持ちするように施設を使って欲しいのだが、古くなった施設はつなぎ目などが緩んできて漏水を起す。とくに水口のあたりはそうした漏水がもっとも起きる場所である。かつての土水路ならともかく、コンクリートにされたからといっても土とコンクリートが完璧に仲良くなるわけではない。固められたものと分離した粒子が一体とはいえない。水か流れれば分離した粒子を押し流す。結局漏水というわずかな水の流れも周辺の地盤を軟弱化させ、とくに小規模なコンクリート製品は不安定化する。しいては沈下や浮上が起き、本体に疲労はなくとも水路そのものとしては不具合が大きくなるわけだ。

 水口はまだしも、排水口は水路の脇に垂れ流すように水が落ちる。水路脇の土は水の流れで飽和状態となり、さらに軟弱化する。この時代の人々は、それを自らの管理不十分とは思わない。施設管理側に対して「なんとかしろ」という具合になりがちである。農業の衰退、責任転嫁、篤農家の絶滅とそうした人々への意識など、環境悪化を嘆くまでもないが、結局現在はそうした人々の意思をも国はもしかしたら補助金で埋めているのかもしれない。もちろんかつてのような農業への期待を無くならせたのも国だから代償のようなものなのだが、どこか一致しない流れでもある。

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村とは何か②

2008-08-06 12:33:18 | 民俗学
「村とは何か」①より

 『日本の民俗』6「村の暮らし」の中で目を引いたのは、和田健氏の「村の変容と存続」である。この中で和田氏は、「「村の崩壊」という見方は未来には何も生まれないものであり、その見方は悲観的なノスタルジーにすぎないのである」と最後にまとめている。この本の最後を和田氏が執筆し、そしてその最後に記述している前述の意図は大きいとわたしも思う。ようは「村は崩壊」した、とか「村はもう終わりだ」という投げやりな捉え方が正しいとは思わない。しかし、現実的には明らかに村は無くなりつつあり、無くなった村も数知れない。先般「廃村をゆく人」で触れてきたように、村は無くなり、無くなったその後の村はなかなか捉えられないものになりつつある。そうした中、わたしが触れた旧高遠町芝平の姿を追うと、その村は別の場所へ集団移住という形で存続しているが、それはかつての村の戸数にしたら、ほんの僅かな戸数だけであり、多くの人々は散り散りとなって現在に至っている。にもかかわらず、全国芝平会なるものができあがり、村が無くなった以降も精神的な部分で村を思い描いている姿が現存している。これは、集団移住した村とは別な意味で、村のイメージが作られ、また生きている姿であるだろう。こういう芝平のような村について和田氏は触れていないが、変容と存続という意味では注目できる存在ではないだろうか。それはコミュニティーという実際の形の見える村だけでなく、形は見えなくとも「村」が存在するという捉え方にもなる。

 和田氏は村が無くなろうと、その先に再び形成されていくコミュニティーには、崩壊した村の再生があるというようなことを言っている。確かに崩壊=無・死という構図がイメージされるかもしれない。だからこそ、そういう視点で捉えるのではなく、何かが生まれるという方向性で照射しなくては学習がないともいえる。そうした示唆は過去へ回帰してばかりいる人々には大変意味のあるものだと思うわけだ。とはいえ、和田氏は冒頭「「村」ということばの持つイメージを考えてみると、おそらくことばに対して素直に「未来に向けて発展していく」と感じる人はいないだろう」といい、「村」をけして良いイメージでは捉えていない。そして「村という言葉は過去へ向いた時間認識でとらえられてしまう」ともいい、「村」や「村の崩壊」を「前向きな」方向へという意図が強くみてとれる。それはまありにも意図的で、それほど明確に「村」を評されると、村びとにとっては自らがずいぶんと過去志向だと言われているように思えてしまう。「過去に村で見られた協同関係がなくなったからといって「村の崩壊」につなげて歴史的評価をすることにはためらいがある」とか、「村の変容と存続の持つ意味を私たちはどう見ることが前向きであるかを考えてきた」といったぐあいに、かなり「前向き」を意識しすぎている。これほど意識しすぎていると前段で示した再生という視点も、どこか二極に対しての対比で述べられているようで、しっくりこないし、うさんくさく捉えられてしまいがちである。
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電車内の物語

2008-08-05 12:44:50 | ひとから学ぶ
 高校生が夏休みに入ると、電車はすっかり空いた空間になる。それでも部活動のある高校生、あるいは補修に出る高校生がいるからそこそこの乗客にはなるが、盆に近づくとともに、しだいにその数も減っていく。空いていれば悠々と乗れる、と思うのもあたりまえのことなのだが、実はわたしにとってはそうでもない。何度も触れてきているが、わたしがふだん利用する往路の電車は、座席が反転するタイプのクモハ313系である。したがって、人為的に動かさない限り、進行方向を向いた座席が7割近い。そんな環境だから、座席が並んでいるとそれぞれのドアからみると最も遠い、ようは真ん中の席を好んで利用する。短時間ならともかく1時間程度乗っているのだからできるだけ人の息づかいのない位置を選ぶ。それはわたしに限ったことではなく、乗りなれている人たちにとっては常識的なもので、そうした席には比較的同じ顔が見える。

 ということで、乗車する際にそうした席を探すが、空いていると逆にお目当ての席は埋まっているのである。むしろわたしの場合は高校生で混雑しているときの方がそうした席に簡単に座れるのである。それはわたしが乗車する駅で大勢の高校生が降りるため、そうした席を立つ高校生が多いからだ。高校生の立った席にわざわざ移動する乗客もいるが、それほど多くはない。このようにわたしにとってはけして空いていれば好きなところに座れるというものでもないわけだ。

 いっぽうクモハ313系ではない列車はどれも座席が固定されている。現在の飯田線の主流はまだまだそうした電車である。必ず相向かいになっている席が8組あるわけだが、こうした席に1人先客がいると、まず他の席を乗り込んできた客は探す。まったくの空席がなければ、そうした相向かいの1人客の空間に立ち入ることになる。どちらかというと空いていればそういう選択になる。以前にも松本近辺での乗客の乗り方に触れたが、そこそこ混雑している空間では、よほどのことがなければ空いた席はすべて埋まっていく。それは東京でも同じだ。座席の前に立っていて、直前の席の客が立てば、そこへ次々と立っている人は座っていく。混雑した空間に無駄な空間は許されないのだ。そうした暗黙知によって車内の秩序が保たれていく。不思議なもので、冒頭に触れたように空いている空間よりも混雑している空間の方が選択しやすいというのも、混雑しているからこそ人はそれぞれの空間距離を暗黙の中で伸縮しているのである。どこか人のいない空間はそうした距離感が読めないのである。

 混雑していればともかく、空いているとこうした相向かいの席は1人の先客のせいでずっとそのまま進行することになる。そのいっぽうで空いているからこそ、そうした空間に立ち入るのをためらって立ったままの客もいれば、高校生あたりになるとまったく空いていないと立ったままという集団も少なくない。そうしたことを避けるために、わたしはそこそこ乗客がいる場合は、相向かいの席に1人の先客という空間をわざわざ選択することが多い。しかし、そういう選択をしておきながら、まったく空いた空間におじさんが後からきて座ったりすると、わたしのもくろみははかなくついえるのだ。先日も夏休みで空いているということもあって、帰路の電車で席を探した。相向かいの席4つのうち、2つはすでに先客が座っている。そこそこ乗車客がいたこともあってその先客のいるボックスへ気持ちが傾いたが、いつも乗っている客で30分以上乗っている客だ。そんなことが頭によぎると自然とその空間を避けていた。1人はわたしと同じ駅まで乗っていく。ということでその周辺にはおじさんが1人座った相向かいの席が三つ存在したわけだ、まさに迷惑な空間となってしまった。空いていたからまだよいが、混雑している際のそんな空間は立ち客にとってうらめしく見えるに違いない。人の心理とは不思議なもので、そうした嫌な思いをしたりさせないためにも、許されたる空間距離というものが場面ごとにあるのではないか、とそんなことを思ったしだいである。
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村とは何か①

2008-08-04 12:20:10 | 民俗学
 ムラとは何か。人々が、そして家々が一定の範囲で共有する空間、あるいは認識している空間と思うが、民俗学の世界では、行政的制約ではない古くからのつきあいが行われていた範囲を「ムラ」と表記してきた。そこには「村」とは違うという考えがあったからだ。わたしもそんな世界に少なからず興味を持っていたから、「ムラ」という単語を日常でもよく使う方ではあった。「村」と表記することにより、「ここは村ではない」と言われることもあるのだろうが、調査では「このムラではどうでしたか」と聞くこともよくあった。きっと話し手もけして「ムラ」という単語が理解できていないこともあっただろう。行政的な枠組みがより一層強くなった現代において、ムラと村は違うのかという質問を受けた場合、自分の中でもそれほど違いはないという認識は持っている。しかし、ムラは一集落であったり、もっと大きなくくりであったりと、伸縮自在な面があるという認識はある。しかし、いずれにしても現在では一集落をムラという捉え方をしても、なかなか地域の人たちはそう捉えられない面もある。だから民俗学で言うムラというものそのものもなかなか理解しづらい時代が来ており、今後はさらにこの単語が死語となりつつあるような気もする。

 わたしにとってムラとはどういう範囲なのか。自らが生まれ育った地域において、自ら「わたしのムラ」という言い回しをしたものかどうか。そう考えてみるに、学区という範囲でみれば旧村に分校があったことから、その範囲をムラと認識して「わたしのムラ」と口にすることは確かにあった。当時はもちろん村ではなく合併後の一地域として「区」と呼ばれていたが、旧○○村=ムラであったことは確かである。したがってあえてムラという表記にしなくとも「村」という行政上の表記でもなんら問題があったわけではない。そして「このムラではどこに神社がありますか」と聞かれれば、行政上の範囲内に合祀された神社がひとつ存在していたわけで、これは明らかにムラ=村という説明で理解できるものであったといえるわけだ。もちろんそれ以前、いわゆる旧村までの成り立ちを追うと、ムラの範囲は伸縮したかもしれないが、明治より以前のムラの感覚は、すでにその地には残っていなかったというのがわたしの記憶である。

 さて、行政上はすでに村ではなく町の一部であったその地域(区)を、表記でムラとすることは、日常ではまずない。意識の中でも区というものはあっても、ムラという感覚は、旧村という意識をもたせる際に登場するくらいしかない。そして合併が遠い昔のものとなれば、「このムラ」というよりも「この地域」、それがわかりづらいとすれば「この集落」という言い回しになるのだろう。そしてかつてなら「この」といっていたさらに小さなまとまりは、今では「このコーチ」というような言い回しになっている。いずれにしてもここでいう地域・集落・・コーチは、旧村単位を表現するには適切ものではない。それこそ具体的な範囲をイメージしづらくなる。では旧村の範囲はどう表現するかといえばやはり「区」となるのが適切なのだろうが、どうも具体的ではあるものの、イメージし難いものとなる。すべてを包括して伸縮自在という意味では、ムラという表現はわたしには理解しやすいものだと気がつくが、果たして誰もがそう思うとは限らない。民俗学では説明を加えてきたこの「ムラ」というものが、なぜ意識として解りづらいものになってきたか、そこにはムラという単位、そしてムラという言葉、いずれも現代の生活の中では共感できないもの、いってみれば経験値の低いものとなってきているからではないだろうか。この7月に発行された『日本の民俗』6「村の暮らし」では、まさにそんな「村」について触れている。仕事がらそれこそ「村」を意識しながら注目してきただけに、ここで触れられている「村」について、数回に分けて触れてみたい。
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人の手を介す

2008-08-03 19:55:19 | ひとから学ぶ
 ゴミが出るから、そしてネットでちまたのニュースは確認できるから、などといって新聞を購読しない人たちも多い。確かにかつてに比較すればネットさえあれば何でも間に合う。というよりネットとは言わず、ケイタイさえあればよい、ということにさえなる。この小型のツールは、世の中を席巻しているから、新聞業界が厳しくなるのも予測されることである。「新聞の提供するもの」の中で「インターネットの世界にくらべれば責任能力のある情報ではないだろうか」と新聞のことを評したら新聞情報の間違いだらけを指摘するコメントをいただいた。もちろん新聞の情報の方がネット上の氾濫したものよりは正しいという言い方は、印象でのものであって、本当にそうであるかどうかはわたしの技量では判断しがたい。しかしわたしは仕事でも同じことを言うが、定時間内にできることをどこまで集約できるかと考えてみると、手戻りとか無駄な作業、操作といったものは結局自分の持ちうる時間を減少させてしまうわけで、しいては作業量に影響してしまうことになる。もちろんそうした合理的なことのできない分野があることも十分承知しているが、限られた時間の中でどう人並みの暮らしをしていくか、そんなレベルで生きている。けして人よりも多くの情報を得ようとかいうわけでもない。とすれば、その環境の中で何が自分に合っているかという選択をするわけで、けして新聞を購読する人がいなくならないのも、それぞれのスタイルがそうさせていると思いたい。しかし、ケイタイ依存世代が高年齢化していけば、いずれはかつてのメカニカルなものマニュアル的なもののニーズはなくなっていくのだろう。

 どうしてもわたしのようなすでに人生の半ばを過ぎてしまった人種には、いとも簡単に手に入るデータは、気分のよいものであることは解るが、人の姿がなく、どこか薄っぺらに感じる。先ごろテレビのニュースで最近若い人達の作る雑誌のことが取り上げられていた。印刷された雑誌を手に、大阪大学の大学院を卒業したものの、定職につけないでいる女性は、人の手がかかって出来上がったことに感慨があると述べていた。どれほどの人がその感慨が理解できるかわからないが、印刷物の重さは、人の手を介しているというところにあると思う。そういう意味では、でたらめだと評されようと、多くの人が関わっている新聞にはそれなりの重さがあると感じるが違うだろうか。現場で情報を得る記者はもちろん、編集し印刷し、そして最後には家々に配達する人がいる。新聞受けに投函されていようと、どこかそこには人が配達してくれたという事実がある。何かがあれば、それぞれの人たちに迷惑がかかるわけで、そういう意味でも責任能力のある情報という印象はどこかにある。もちろん何があろうと責任を課すほどこちらはその情報に重さを抱いていないから、「そんな程度の意識」と批判されるかもしない。人の手を省くほどに経済的なモノへと変わるのだろうが、そのいっぽうで人の影は消える。アナログを懐かしむ人間てはないが、メカニカルなモノが好きなわたしの、人が絡み続ける世界なのだ。
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車窓から思うもの

2008-08-02 15:05:07 | つぶやき
 「東京へ」で久しぶりの電車での東京行きについて触れた。まさに雑感なるものを記録しておく。

 かつても諏訪地域を走る電車は、急行だろうが特急だろうがよく駅に停まった。仕方ないのはマチの中心に駅があって、それぞれのマチがそこそこ大きいから、停めないわけにはいかないということもあっただろう。それは今もそれほど変わらず、特急は諏訪地域内では頻繁に駅に停まる。ところが小淵沢を過ぎると次はいっきに甲府である。30年も前の車窓には見えなかったのであろうアレチウリが、小淵沢から甲府の間では目につく。車窓に韮崎警察署が登場し、思い出すのはかつてその警察署の中に入ったことがあることだ。悪事を働いて入ったわけでも、トイレを借りに入ったわけでもない。知人がかつてそこの警察署長をしていたといって、寄り道をした際に寄ったくらいのことである。

 かつて車窓に富士山を確認した記憶はない。そしてそれは今回も同じで、雲の中に隠れている。そういえば高速道路を走っていても、めったにお目にかかることはない。

 かつて中央本線を利用した時代に特急に乗った記憶はなく、その当時どうだったかは知らないが、現在の特急の構成をみると指定席車両がほとんどだ。10両以上あるというのに、3両程度。自由席しか乗らない人たちにとっては、もっと自由席車両が多ければ良いのにと思うだろうが、おそらくこのあたりは、違う公共交通と比較する際に利用してもらう策になっているのだろう。指定席といっても一人客の場合は、混雑していなければまず臨席は空白である。ビジネス利用者の多い平日にいたっては、一車両の約半分しか人は座っていないことになる。「東京へ」の中でも触れたが、バスの狭い空間と比較すれば、明らかに電車の方が選択できるものとなる。それでいて早ければ、ビジネス客のように身銭を切らない人たちにはもってこいとなる。利用者の求めるもの、そして提供する側、とその環境を見ると、食料自給率が40パーセントを切りながら、安い農産物を輸入してもよいといっている人たちと農家との関係に近いものを感じるわけだ。

 さて、四ツ谷から赤坂見附まで待ち合わせのために歩く。迎賓館横の道端に植栽されたツツジの株から丈の長い雑草がヒョイヒョイと飛び出ている。見た目はとても良くはないが、歩く人の少ない道でそんな姿を認識する人は少ない。ほとんど透明度のない堀の周辺に鬱蒼としているのはクズである。アレチウリでなくて良かった。新宿・池袋と構内を歩く。同僚ではないが、「こんなに人を見るのは久しぶり」というのも実感である。空くことのない人の波は、田舎なら全人口を寄せ集めても成り立たない。少しくらい田舎に住めよ、と思うがそうはいかないのがこの国の現実だ。

 帰路の車窓から眺めていると、以前にも触れたように、鉄道敷にはオレンジ色の花が目立つ。それは山梨県から長野県まで中央本線上のすべての間で見られる。いかにカンゾウにとって環境のよい空間であるかが解る。また辰野あたりまでくると、菜の花畑のごとく黄色い花を咲かせる転作田が2枚ほど見られた。オミナエシである。すでに満開に咲いているところから出荷用でもなさそう。一面に咲いているから自然に生えてきたものでもないだろう。なかなか壮観なものであった。
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