Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

赤い杭

2008-07-16 12:31:45 | つぶやき


 伊那市のひとつ南にある下島という駅に電車が停まると、東側の水田に黄色く色づいた麦が実っていた。その麦もすでに刈られ、今は水が浸けられ、代掻きがされた状態でたたずんでいる。昔なら、これから稲が植えられたのだろうが、今は植えることはない。もちろん転作が推奨されているんだから、わざわざ植えてしまったら転作奨励金がもらえないだろう。このあたりも不思議なことで、2度収穫できるならその方が良いと思うのだがそうはいかない。転作奨励は、単純に稲を作らないという生産調整だけにあらず、さまざまな部分で農民の意識をも変えていっただろう。稲を植えてしまえば転作にならないかもしれないが、逆に考えると、かつて二期作をやっていた南の地方はどうなんだろう。一度でも二度でも転作していないわけだから、二期目を生産調整のために作付けしないという指導もあるのだろうが、転作奨励金という捉え方でいけば、一度作ればもらえないわけだから、二度目を作っても良いじゃないか、ということになると思うのだがわたしもそこは詳しくはない。

 さて、稲も植えずに水を湛えるのは理由がある。病気が出ないために水を浸けるというのだ。病気だけではないだろう。水を浸けておいた方が草も生えない。転作田を管理するにはしやすい方法ということがいえるのだろう。

 そんな水田の様子を毎日のように駅に停まるたびに眺めていて、「そういえば」と気がついたことが、写真の杭である。毎日見ていたのに、その、杭の存在もどこかで目に入っていたのに、最近まで意識しなかった。水田の畦から2メートルほど水田の中ほどに入ったところにこのコンクリートの杭が立っている。昔なら木の太い杭の頭が台形状に加工され、その頭が赤くなっていた。国鉄と民地との境界に、そんな図太い杭が立っていて、けっこう視界に入ったものだ。きっと現在のコンクリートの杭は、かつての木の杭より細いのだろう。意識の中に入ってこない理由はそんなところにある。それと、かつてはこんな具合に水田の中ほどに立っている杭をよく目にしたものだ。鉄道が開設された際に、どういう契約をしたのか解らないが、用地取得がずいぶんと広めだったということなのだろう。そして、実際はそれまで水田に利用していたから、盛土された法尻から杭までの間に余地があると、その間も水が溜まるため、同じような水田の空間として利用されてきたということなのだろう。わが家の田んぼの近くにも鉄道が走っていて、水田の真ん中に立つ赤い杭が印象深かった覚えがある。そんな杭の姿が今では珍しくなった。それは、いわゆるほ場整備によって、土地が移動され、境界がはっきりしたことにもよるのだろう。生家のあたりはほとんどが整備されたため、窓からそんな杭はないものかと見てみても、まったく見当たらない。ようはこんな風景は、昔のままの姿でいるからということになる。今でも道路拡幅されて杭が打たれても、その杭を飲み込むように稲が植えられている風景を見ることがあるが、かつての国鉄の境界杭ほど目立つものは見られなくなった。
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高校野球にみる地域性

2008-07-15 12:26:30 | ひとから学ぶ
 伊那谷南部の下伊那郡の大きさ(1929km2)が、香川県(1877km2)と同じくらいの大きさがあるという例えは、下伊那地域では対比としてよく使われる。もちろん面積的なものであって、人口比ではない(人口比17千人対100万人)。人々の住めるエリアだけを拾い出せば、面積もけして同等とはいえないほど下伊那地域は山の中かもしれない。「伊那谷の南と北」で触れてきた南北の壁であるが、実は伊那谷というところは同じ地域内の壁以上に他地域との壁があるとわたしは認識してきた。かなりそういう印象は払拭されてきてはいるが、まだまだわたしが子どものころに感じていたイメージは消えていない。

 夏の甲子園に向けて高校野球が盛んに行われている。「出ると負け」と言われる長野県の高校野球であるが、平均的なレベルがそう急に変わるものではない。近ごろ盛んに北海道へ渡った優勝旗であるが、だからといって北海道のレベルが高くなったということは言われない。また、香川県の最近5年間をみてどれほど「最近は出ると負け」と言われたとしても、四国はレベルが高いという一般論は変わらない。それにしてもかつて松商学園が6年連続出場して一度も勝てず、加えて得点さえままならなかった時代に比較すれば、少しは期待を持たせてくれるようにはなっている。わたしの記憶では、同じ出身地域から高校野球で名をはせた人名は記憶にない。それどころか甲子園に出場すらない。記憶の中で、伊那谷の高校が甲子園に出場したことはただの一度もない。ようは昭和40年以降の記録を見れば、その記憶が正しいことに気がつく。どれほど伊那谷の人々にとって甲子園が遠いかは、口には出さないがもしかしたらもうこの先「ないのかもしれない」などと思ってしまうほど、その世界は身近ではない。今年もベスト16に伊那谷の高校は一つも残らなかった。よく東西南北信別に何校などという言い方がされるが、南信で残るのは、常に諏訪地域の高校ばかり。稀に伊那谷の高校の名前があっても、決勝まで残るなんていうのは20年に一度のレベルだ。そんなことを思うと、かつて赤穂高校や伊那北高校が夏の甲子園に行った時代があったなんていうと、このごろの人はびっくりするだろう。赤穂高校は、甲子園であの王貞治の早稲田実業と対戦している。そして、春選抜で飯田長姫高校が優勝したなんていうのも、かなり大昔のことになってしまった。

 いずれにしてもわたしの記憶よりも以前には、伊那谷の高校にとってはけして甲子園が遠いものではなかったが、わたしの記憶がある時代からは、まったく縁の無いものとなった。そしてわたしの地域から高校へ進学して、野球部に入る生徒そのものもけして多くはなかった。かつて地域ごとに行われた陸上大会で、出身校の生徒が上位に入ることなどほとんどなかった。いたとしても稀なことであって、簡単に言えば井の中の蛙のようなものなのだが、市部の生徒たちに紛れると臆してしまうという傾向が強かったと思う。もちろん人口比でいってもそれは仕方のないことなのだろうが、人口比に照らしても、きっと傾向としては目だなかったに違いない。新聞の高校野球特集などに、それぞれの高校のベンチ入り生徒の出身中学が掲載される。そうした中学を見ても、毎年出身中学が少ないという印象を持っていた。

 印象だけではいけないと思って、今年のメンバーを出身校別に累計してみた。意外にもわたしの印象とは少し違っていた。現在の高校生が中学時代に同窓生が何人いたかまではつかめなかったため、現在の中学の生徒数でその比率を出してみた。すると上伊那南部の中では比率が高い方であった。また上伊那郡内における比率を箕輪より北の北部地域、伊那市周辺の地域(南箕輪村を含む)、宮田より南の南部地域の3地域で比較してみても、わざわざ紹介するほどの数字の違いはなかった。ようはメンバーにはいても、それほど目立たないから印象が薄いということにもなるのだろう。そして前述してきたように、だからといって長野県内でも甲子園の遠い地域であることに違いはない。伊那谷らしさについて先ごろ書いたが、ようは人間的に「おとなしい」ということは間違いない。
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精進し神々に祈る

2008-07-14 12:34:50 | 歴史から学ぶ
 追い払いはしても、二度とこの世に現れるな、という具合に絶滅させようとはしない。確かに民俗社会は、自らの空間から災いを追い出そうとした。明確な答えとして滅ぼしてしまえば消えうせる害を、なぜか追い払う。それも隣村に追うわけだから、普通に考えれば隣村から追い返されることもある。ところが、隣村に追い出された災いは、さらに向こうの隣村に追い出される。笑い話に聞こえるだろうが、こんな子供だましのことが、延々と続けられてきた。

 内山節氏は、「風土と哲学」81(信濃毎日新聞7/12)において、現代人には理解できない伝統社会でのこうした災いとのかかわりについて触れている。事例として疱瘡流しに触れ、今では絶滅したといわれる天然痘、かつては伝染力が強く死亡率も高かったということで多くの人々を苦しめた。そんな疱瘡を払うために、疱瘡流しという行事をした。定期的に行われたこともあるが、流行はじめると行うこともあった。内山氏は現代人には不可解なこうしたかつての人々の考え方に二つ、面白い点をあげている。ひとつはこの恐ろしい病を神様として送ったということ。もうひとつはこの疱瘡の神様を退治しようとはせずに送ったということである。冒頭でも述べたように、隣村に送ったとしても送られた方は災いを送られるわけだからかなわない。ということで隣村でも同じように疱瘡流しをする。内山氏が言うとおり、根本的な解決にはならないわけだ。こんな不合理な信仰があることじたい不思議でならないに違いない。

 現代のように明確に直す方法がある場合、そんな悠長な信仰に頼る方法は不可解に違いない。しかし、明確に直す方法がない、あるいは医者がいたとしても必ずしも直るとは限らない時代にあっては、災いにあわないようにするしかないわけで、それは運のようなものだ。だからこそ日々精進し、神々を祈ることくらいしか人々は頼るものはなかった。それでも災いがやってくれば、ひたすら神頼みをするのみなのだ。日々精進することにより、神の仕業から逃れる。迷信と簡単には言うが、それほど人々は見えない災いに常に苛まれていたに違いない。神は人々の行動を見るように試練を与えたり、また褒美を与えたりする。そんな考えが生まれても少しも不思議ではないはずである。思うに、そん不安定な日々を過ごしていたかつての人々には、たとえば病に倒れ、死期の近づきを察知することができたに違いないし、周りにいる人々も死を迎える病人の姿がよく見えたはずである。それにくらべれば現代は、死のトキが見難くなった。身内の死期に立ち会うということが少なくなったこともあるが、それ以上に死の姿が見えていないように思う。重みもなくなったのだろうが、いっぽうで死への恐怖感は高まっているのかもしれない。

 それにしてもわたしがもっと不可解に思うのは、なぜ送られた隣村といさかいにならなかったのか、ということである。現実的にはそういうこともあったと聞くが、たとえば飯田市の天竜川東岸で伝えられている風の神送りなどをみると、次へ次へと送られ続けていく。とはいえ、その最後があるわけで、こうしたシステムがどう構築されてきたのかは大変興味深いわけである。必ず戻すのではなく別の地域へ送る。葬列の際に、帰りは別の道を選ぶのと同様に、同じ道を返すことは、再びその道を帰ってくることを含ませるわけで、わざと違う道を選択することで迷わせるというかつての考え方がそんなところにも出ているのだろうか。いずれにしてもまったく不合理なことなのだが、そうした不合理によって、それぞれのムラが均衡していたということもいえるのだろう。
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インスタント味噌汁

2008-07-13 15:25:32 | つぶやき
 近ごろスーパーのインスタント味噌汁の棚が賑やかだと思う。味噌汁だけではない、お茶漬けなどもずいぶんと豊富に並んでいる。種類が多いことに気がつくことと、世の中インスタント食品全盛だということも解る。昼、弁当を食べるのに味噌汁が欲しいタイプである。弁当だけではない。味噌汁が必ず欲しいタイプだから、必ず「汁物ないの」と妻に聞くほどだ。味噌汁は塩分が高いということもあって、「毎食味噌汁を飲むのは身体によくないよ」と言われるものの、それでもどうしても欲しいのである。だからこのごろのように、妻の帰宅が遅いと、自分ひとりで食事を取るから、口うるさく言われないからかならず味噌汁を飲もうとする。朝方の味噌汁が残っていれば、それを、そうでなければインスタントの味噌汁をこしらえる。味噌汁くらいは簡単にできるものだから、インスタントに固執することはないのだが、便利だから使ってしまう。かつて単身赴任していた時代には、夕飯といえば具だくさんの味噌汁で済ませていた。缶ビール1本とつまみ、加えて味噌汁のみという日々が続いたものだ。残業をして遅くに帰ればその程度で十分だった。とはいえ、具だくさんの味噌汁は、本当に具区だくさんてあった。

 妻のいない世界、ようは弁当を食べる際は、会社で食べるわけだからますますインスタントの味噌汁の世話になる。弁当を持参する同僚たちもワカメスープなり、コーンスープなりを飲んでいる。わたしは毎日味噌汁。インスタントの味噌汁とはいっても、かなり安いものでも一食10円くらいはかかる。それでいて具はワカメ少しという程度。これを解消する方法を最近はとっている。味噌は自家用の味噌を持参すればよいが、とりあえず市販の500gの味噌を購入してくる。ぴんからきりまであるから、その都度味噌は選択できる。300円台のものから600円台のものまで、気分で変わるが、最近は高額な味噌を利用している。味噌にだし入りのものもあるが、わたしはそうでないものを購入し、だしは別に買っている。いわゆるだしの素というやつを買う。8袋入っているいりこだしは、会社の近くのスーパーで124円だ。1袋で5回くらい飲める。だからだし代は3円ほど。もっとも重要な具は、最近地元の会社が販売しているよい物をみつけた。「味と大地の恵み」という名称のもので、中にはワカメと凍り豆腐、油あげとネギが入っている。ひと袋298円なのだが、少なめに使えば25回くらいは使えそう。約12円。あとは味噌だから高めの600円のものを買ったとしてもそれこそ30回くらい使えそう。ということで一食35円ほど。けっこう具だくさんで美味しい味噌汁が飲める。味の素のだしの素を使っているのが難点であるが、さすがに具と味噌だけでは美味くない。分割して購入しているから、その都度お好みにできるのがよい。300円クラスの味噌なら、一食25円ほど。著名な永谷園とか旭松食品のインスタント味噌汁よりは安いし具だくさん。経済的に苦しければ、毎回少量にすればもっと安い。
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「マンボ」とは言うけれど

2008-07-12 13:28:00 | 自然から学ぶ

 伊那谷自然友の会の講座がこの10日にあって出席した。伊那市駅前の施設で行われた講座には、30人弱の人が集った。飯田市立博物館の講座は、ウイークデーの午後7時から行われるものが多い。自然友の会のものもそうだが、伊那民俗学研究所や博物館主催のものにもウイークデーの夜間というものが多い。近くの人は参加しやすいのかもしれないが、マイナーな講座には人は集らない。わたしも以前頼まれて講座で報告をさせていただいたが、マイナーな講座だけにもともと参加者などそれほどいないと予想された。そしてその通り、10人そこそこという講座になったが、話をする方は頼まれて出向いたものだから、10人程度というのは気落ちするものだ。主催する側もどこかのやらせのように人を集めることもないが、少しは広報して人を集めるくらいの努力をするべきではないかと思うが、わたしの言えることではない。とはいえ、同好会ではないのだから、企画側の配慮は欲しかった。

 今回の自然講座は、飯田市ではなく伊那市で行ったわけだから出前講座のようなものだ。飯田市立博物館の学芸員が帯同して事務局を担うのだから、とくに飯田市が主催している団体ではないが、少し珍しいケースかもしれない。あくまで市立博物館の学芸員は仕事であって、自然友の会の事務局は個人的というわけでもないだろうが、自然系はこのごろずいぶんと上伊那地域に勢力を伸ばしている。「上伊那における水の求め方」と題した松島信幸氏の講座だったが、参加した意図は、横井戸に関するこの地域の情報が得られると思ってのことであった。自然友の会会報の18号(S.63.8.1発行)に松島氏自信が掲載した「伊那谷にも『マンボ』がある」を資料に、伊那市と南箕輪村の天竜川西岸の横井戸と水の求め方について報告された。イラン式横井戸を『マンボ』と日本では呼ぶというが、縦井戸を空気坑として一定間隔に不透水層まで掘り下げ、そこから横へ縦井戸を結んでいくというものがイラン式の横井戸というものという。イランでは最長70kmという長い井戸があるといい、いかに水を求めるための苦労があったかが解る。同様に扇状地の上は透水層が覆っていて、水が地下へと浸透してしまう。水無川という言葉がよく聞かれるが、本当に水がない川もあるが、おおかたは浸透してしまってふだん水が流れていないというものである。ところが雨が降ると一変してしまうわけだが、水を求めようとする側にとってはもっとも恵みの薄い川といえるだろう。

 扇状地面が東西に広い伊那市の天竜川西岸は、こうした透水性の高い扇状地を形成した。したがって、段丘崖の湧水はあっても、扇状地面への水の供給はままならなかった。段丘上の水の乏しい地帯は、かつてはかなりの部分が山林であったわけである。そうした山林を開拓して、耕作地として転換してきた。そこには水を求めての努力が延々と続けられてきたわけである。そんな扇状地面で不透水層まで縦井戸を掘り、中央アルプスの方向に向かって横井戸を掘っていったわけで、そんな井戸がこの一帯にはいくつか残っていたり、跡として残されている。松島氏の作られた一覧を見ると、南箕輪村南殿にある桜ヶ丘横井戸は、明治30年に造られたもので、長さは1620mあるという。この一帯のこうした横井戸は明治30年ころに盛んに造られているようで、こうした方法が伝播した時期なのだろう。縦井戸の深さも、現在はどこにあったものかは定かではないが、大萱に38mという深いものがあったという。それにしても明治30年ころにそうした井戸が掘られたわけであるが、大萱も含め扇状地面にもそれ以前からあった集落がある。たまたま地表にそうした水の湧き出る場所があったのか、それとも川との落差が少なかったため、苦労はしても川から水を運んで生活したのか、いずれにしても扇状地面の集落の歴史に興味が湧くところである。

 さて、前述したようにこの講座午後7時に始まり、終わりは午後9時である。質問の時間が最後に設けられたが、わたしは電車の時間があって退席した。できれば質問をしたい点もあったが、そうした理由で叶わなかった。もちろん講座後に電車で帰る人はわたしだけだっただろう。この会場、マチの中心部にあるが、駐車場が完備されていて、講座に出席された方たちは無料で停められる。もともと公共交通で参加する人などいないのを前提にしているのだろう。おそらく本家の飯田市立博物館の講座でも、そんな参加者は皆無なのだろう。果たしてそうした考え方が正しいとは思わないが、少し配慮の欲しい点である。

 横井戸のことを聞けると思っていたが、後半は農業用水の求め方に終始した。講座内容の要旨のようなものもあらかじめ欲しい、というのが感想であった。最後に、「マンボ」という呼称がこのあたりにあるのかと思っていたが、このあたりでは横井戸という呼び方で正しいようだ。「日本ではマンボ」というらしいが、このあたりではそう呼ばないことから、あまり「マンボ」を前面に出して誇張して欲しくないという印象もあった。

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つけとどけ

2008-07-11 12:21:48 | ひとから学ぶ
 わたしはあまり使わない言葉だが、妻は使い方を知っている。「つけとどけ」という言葉だ。いわゆる世話になったからといって、お礼を品物などで届けるものだが、わたしのように独立した存在で会社でも浮いてきた人間には、不得意な世界である。

 大分県の教員採用に関わる問題が連日ニュースのトップに流れている。ひときわ目立っていて、さぞかし大分県の小学生が気の毒なように聞こえるが、本来合格しなかった先生が合格して教壇に立っていたからといって、大分県の教育レベルが低いというわけでもないだろう。合格させてもらったお礼といって、百万単位の金が飛ぶと、つけとどけのレベルではない。しかし、意識としてはそうは変わらない。その背景には不正の度合い、お礼の度合いというものがある。採用された教員の半数が不正の上で決められたといわれると、かなり深刻という感じで、今でもそういうことが行われていたのかと思うか、それとも不正などと言うものは不思議ではないと思うか、といったところだ。教員でこれほどの不正があるということは、県の職員採用とが、公職の職員採用に不正があっても少しも不思議ではない。加えて教員採用にあたって県会議員が口利きをしていたような話が出てくると、職員採用にあたって日常茶飯事に不正が行われていた、不正と認識せずとも口利き採用が行われていたといっても不思議ではないだろう。

 もちろんこんなことは珍しいことではないだろう。かつてなら当たり前のように行われていた。金がどれほど動いたかという違いはあっても、しようとしていることに違いはない。ちまたではあまり聞かなくなった採用不正であるが、陰ではいまだ行われているということ、またそんな地域があるということなのだろう。もちろん公平性という面で一切されるべきことではないだろうが、日本人はどこか「コネ」というものに頼る人種である。そんなさまざまな背景を糧にして生きていくのもけして悪いことではない。不正で落とされた人が、すべて悪い人生を歩んでいるわけでもない。そして不正で合格した人が、すべて良い人生を歩んでいるわけでもない。許されないことを平気でする社会だと気がついて生きてゆくことが必要だろう。だからこそ、不正に対する意識も高まるというものだ。もちろんそんな世界に生きている人たちは、見つかりさえしなければ、幸福な人生を歩んで、加えて永年の努力に対して褒章をもらい、さらには名を残してゆく人も多いだろう。世の中はそんなものだと気がつき、本当の意味での人生の価値観を見出すことができた人も、わたしは幸福な人生だったのではないだろうか。確かに目立つにこしたことはないかもしれないが、それぞれの人生を評価できる、そんな人が多くなることを望んでいる。

 とはいえ、先日もある施設を訪れると、定年を満期で迎え、その後は好きな趣味の世界で地元で活躍し、公的施設へ週数日働きに出ているという知人のことを知った。いっぽう会社では、かつてなら定年まで働き、さらにはよほどのことがなければ管理職に就いて人生後半の道に歩んでいたものの、定年にはまだほど遠く、辞めたからといって年金需給までは何年もあって、途方に暮れる人もいる。それを格差というのかもしれないが、そこに価値観を見出せというのも無理なのかもしれない。自らどんな人生が今後敷かれていようと、それぞれなんだと思い、生きてゆくつもりだ。ただし、今までの格差への意識はぬぐえないかもしれない。それがぬぐえるのは、仏の世界へ足を踏み入れたときかもしれない。
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伊那谷研究団体協議会のこれから

2008-07-10 12:24:04 | 歴史から学ぶ
 「飯田下伊那」地域研究団体協議会は、「伊那谷」と冠を変えて新たに進み始めた。そんな最初の年である11年目において、伊那谷学を提唱して「伊那谷らしさ」を掲げて平成19年の暮れにシンポジウムを開催し、その報告をまとめたものが、『伊那』の最新号に掲載された。「『伊那谷らしさ』に視点をすえて伊那谷学に近寄る方法をさぐる」というのが目的だという。

 飯田下伊那という地域から伊那谷という地域にその視野を広めたことについては、わたしがふだんから言っているように、飯田下伊那地域がこれまでの歴史的な流れから北を指向するのではなく、南へとアプローチをするなかでその独自性というか一線を画してきたことからすれば評価できることだろう。ただ、この伊那谷学という指向の原点には、自然系、いわゆる伊那谷自然友の会の活動が大きな力になっていることは否めないわけだ。このごろの同会の活動は、飯田下伊那地域はもとより、上伊那地域での活動も活発である。自然という捉えは、むしろ地域限定というよりは、もっと広範なものなのだろう。だから「飯田下伊那」という限定では天竜川流域という視点ではなかなか狭すぎるし、南アルプスなどといった山岳地帯を捉えれば、ことその範囲だけの視点ではなくなる。そんなこともあってその活動の中心的な自然系の活動が、視野を広める大きな要因になったのだろう。果たしてそうした動きに沿いながら、もっと伊那谷という広範な世界で協議会が役を果たしてゆけるのかどうかは、これからということだろう。

 ところで「伊那谷らしさ」などという漠然な捉え方をしようとすると、なかなか具体的なものは見えてこない。それぞれの研究発表というものは、そんな視点において発表することはなかなか難しい。むしろ発表後の全体研究会の討論にそれは集約されるものだろうと、その部分に注目してみた。やはりというか仕方ない面もあるのだろうが、つまるところ「伊那谷らしさ」は何ら見えてこない。伊那谷らしさを捉えたものとしては、やはり天竜川上流工事事務所が主催で行われた「伊那谷を語ろう会」がもっとも注目できる。それぞれの地域から集ったリーダーたちの捉え方は、実に現実的な課題、あるいは伊那谷の中の多様な視点、考え方を表している。こんな内容の研究会が繰り返されていくと、なかなか興味深いもので、またそうしたさまざまな考え方を聞きたいものである。まず一つ目として、どれほどこの地域がそれぞれの考えを理解していないかということを認識することができ、次いでその認識はなかなか理解しがたいほど歴史上の障害があるようにも見えてくる。果たしてこの地域はひとつなのか、そんなところをまず原点において、広範に捉えると違うようで違いのないものも見えてくる。おそらく局地的な活動をしている人もいれば、伊那谷というエリアで活動している人もいたり、もっと広範なエリアで活動している人もいる。そこにさまざまな生き方をしている人たちが思うところを述べることで、それはかなりの成果をあげていくと思っている。

 漠然としているだけに、小林正明氏(伊那谷自然友の会)は「そもそもどういうものなのか、共通の理解をしていないと、「らしさ」という言葉が生かされる情況にはならない」と指摘し、また寺田一雄氏は「いいことばかり見つめようとするのはどうか」と指摘する。全体研究会が何ら当初の意図を反映していないのは、この両者の指摘に表れている。伊那谷らしさを問うのなら、まず今までのそれぞれの思う伊那谷というエリアを語ってもらう。それを整理した上で、それぞれの研究課題が伊那谷というエリアでどういう位置づけなのかを理解してもらい、その上で進めていく必要があるだろう。そして、「いいことばかり」言ってもだめなのである。寺田氏の言うようにみんな集ってよい点ばかり、あるいは貴重な点ばかり語っても「らしさ」などというものは表現できないのである。いずれにしても広範な視点を語る方法はいろいろあるだろうから、今後どう企画していくかということになるだろう。そして伊那谷をうたうのなら、飯田を出て会議を開くことも必要だろう。
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馬鹿なわたしを笑うがいい

2008-07-09 20:04:31 | つぶやき
 常識のないやつというレッテルを貼られ社内で浮いている自分がいる。「常識のないやつらはお前たちだろう」などといっても話は通じない。まるで外国へ行って暮らしているようなものだ。特別な緊急性の高い業務が入ったからと言って、組合が特別超勤を結んだ。組合などというものが、まともな活動をしなくなって久しい。だからというわけでもないが、わたしもその組織から身を引いた。人とは違うことをするとしだいに浮いてゆくものだ。特別な業務だとはいえ、もらっている給与と仕事の内容が一致しているとはまったく思っていない。ところがそんな組合の勝ち取ったものを、さぞかし当たり前のように、頂戴して超勤をする人たちがほぼ全員である。もちろんこれほど仕事をしているのに「報酬が少ないじゃないか」と思っている人たちには当然のことなのだろうが、自分の胸に手を当ててみろ、と常に思う。年功序列社会だから、年老いているほどに給与は高い。だからといって仕事量が多いわけではない。それもごく当たり前であって、若きころに積み重ねた財産を、年老いて頂いているということになる。だから当然のことといえば当然のことであるが、とはいえ、会社が赤字を続けるなかで、この考えが揺らいでいる社会がそこにある。働かざるもの食うべからずということて、仕事ができないやつは報酬で差をつけるというのも理解できる。だからといって、ではあなたは仕事をしっかりしていますか、またこの社会において適正な仕事だと思いますか、と質問されると、わたしも疑問が多い。定年に到達せずに、会社を辞め、低賃金で働いている人たちが周りを見ると多い。そんな現実を目の当たりにしながら、自分など何もしてこなかったじゃないか、と自分を問い直す。現代における適正な賃金とは何かと考えると、ますます解らなくなる。

 だからこそ、超過勤務などというものは本当に必要だから頂くもので、だらだらとやって、たまたまいたから超勤を頂こうなどという考えはわたしにはできない。特別な業務が発生したから特別超勤を結んだというのに、部署外の人たちまでもがその特別超勤を頂いて、そして上へと偉くなっていく。まったくそんな超勤をつけなかったわたしは、浮いてばかり、筋が違うのではないかというと、逆に筋違いなことを言う人間だというきつい仕打ちとなる。

 ここ何年か、会社の行く末を考える会議にも参加してきた。どこかで自分の考えが生きればと思いもしたが、それをまた後押ししようという人たちに乗せられたわけだ。今思うに騙されたという感は否めない。いったい自分は何をしていたのだ、と自分に問わなくてはならない。ここ5年ほどで、おそらく同じ年代の者より300万近く給与差があっただろう。すべて超過勤務手当てである。にもかかわらず、そんなやつらのために自分は何を導こうとしていたのか、自分の馬鹿さかげんに今更ながら驚く。何も怖くないと思う今の自分は、そんなところに起因する。もう誰のためにも働かない。自らの時間を大事にしていきたい。
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ふるさとへの回帰

2008-07-08 12:24:34 | ひとから学ぶ
 内山節氏は、信濃毎日新聞「風土と哲学」の中で、人々の心の中の地域について触れている。7/5朝刊においては、ふるさとから離れた人々が都市に住み始め、そこに「地域」をみいだすには、ずいぶん時間がかかるものだと触れている。三代くらいを経過しないと、都市の内部に自分が暮らす安定した場所をみいだすことはできなかったものだという。先日「民」と「人」において、長野県民にはなれても長野県人にはなれないということについて触れた。内山氏の意図とは違うものの、根底にあるものは似てもいる。ただし、都市に住み着いた人々にとっては、「ふるさと」という場所を常に抱えているわけで、そこへの回帰は、いつまでも心に残るに違いない。

 「都市の市民になってしっかりと暮らしていても、気持ちのなかに「ふるさと」に帰ろうかなという気持ちがある。もちろん現実にはそんなことは不可能に近く、もしも「帰ろう」と言ったら家族は皆反対するだろう。(中略)気持ちのどこかに「帰ろうかな」とか「帰りたい」という思いがある」とふるさとを持つ都市住民の心の葛藤に触れている。先日『伊那』(伊那史学会)の伊那谷研究団体協議会2007シンポジウム報告特集の中で、全体会の司会をされた方がこんなことを最後に述べていた。飯田市の竜峡中学で、子どもたちに将来ここに残りたいか、と聞くと8割以上の子どもたちはこの地域を「出て行きたい」という。その理由は①学校がない、②刺激がない、③帰ってきて働くところがない、ということらしいが、ここからは地域を離れても地域へ戻ろうという意識が生まれる印象はない。おそらく戦後まもない高度成長をした時代と、現在とでは「ふるさと」への回帰志向に変化があるだろう、また、若い時代はそう思っていても、都市で暮らすようになることで、「ふるさと」への回帰志向が強まるということもあるだろう。したがっていずれ「ふるさと」回帰志向がなくなるというものではないだろうが、わたしの子ども時代において、友人たちとの会話から「ここに住みたくない」などという意識は中学生レベルではほとんどなかったと記憶する。ということは明らかに「ふるさと」回帰志向は減少しているといえるかもしれない。

 とはいえ、前述したように都会という中での暮らしは、きっと「ふるさと」意識なるものを強調することになるのだろう。しかし、いっぽうではふるさとに住んでいる者との乖離が生じる。ようはふるさとから出て行った人々にとっては、ふるさとではあっても、その地での住人ではない。ふるさとの持っているさまざまな問題を共有しているわけでもなく、あくまで第三者としての視点になってしまうことに違いはない。こうしてふるさとに残った者とふるさとを出た者との間には溝が生じる。同級会でたまに会ってかつての思い出話を語ることはできても、現在の問題になると、それを共有することは難しい。もちろん、都会で暮らす人の悩みを、ふるさとに残った者も理解し難いだろう。

 さて、内山氏の意図するところとは別な方向に導いてしまったが、「内山氏は都会の人間となるひとつの段階に「墓」があるという。ふるさとに帰ろうという意識を断ち切って、そこに眠ろうかどうしようかという判断がそれである。これは都市とふるさとという関係だけではなく、地方で家を離れて暮らしている人たちにも同じことが言えるだろう。今や長男でありながら実家から離れて暮らす人々が多い。こうした人たちにも、自分の骨はどこへ・・・という思いがあるに違いない。「たとえどこであれ自分の住んでいる場所が地域である。ところがこの地域は住所表示のようなもので、働き暮らす機能はあっても、本当の「地域」と呼ぶには何かが欠けているのである。それが満たされないかぎり、自分の暮らす場所は「仮の宿」であるという気持ちをぬぐえない」と内山氏はいう。この場合都市を対象にしているものの、、マチとムラという対峙でも十分説明できる。住人の入れ替わりのあるマチは、この場合の都市に住む人たちと同じような環境を有す。その一方で、今ではムラにおいてもそこに住んでいるからと言って、永久住民ではない。こうしたところにも不安定になったムラが見えてくる。日本人の地域観というものが、消えそうな印象があるなか、地域はもっと大きな問題を抱えてしまっているのも事実である。
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マニュアル通りにいかない

2008-07-07 12:25:23 | つぶやき
 記憶に残っていて、そしてその記憶にある学習でこうするべきだと思っていても、とっさのときにその行動が取れない、あるいは気がつかないということがある。「ことがある」なんていうものではなく、けっこうそんなことは頻繁にある。それをさらにできるようにするのが、練習というものなのだろうが、できる人とできない人がいる。その原点は正確的なものなのだろうが、その正確をも、多く練習することでクリアーしていかなくてはならないものなのだろう。

 などという感慨にふけっている自分は、電車のシートに座ってから気がついて「しまった」あるいは「またできなかった」とまだまだ学習できていないことを実感している。このごろは、わたしが朝乗車する際に、すでにそこそこの乗客が乗っていることがある。日によっても異なるが、わたしのポジションというものがあって、その場所は同じ場所ではなく、この車両なら前よりの左側、この車両なら後ろより右側といったようなものである。なぜその場所を選択するかといえば、車両によって混雑度が異なることと、高校のある場所によって最初は後ろ車両が混雑、後は前よりが混雑という具合に乗客の大半を占める高校生の頭数によって環境は大きく変化するためだ。その変化に応じて、なるべく落ち着いた場所を選択することにしている。加えて、落ち着いて座れる場所というものは、立ち客がやってこないような場所ということになる。いくら座っていたからといって、脇で何人も人が立っていられると落ち着かないものだ。そういう意味で、ドアから最も遠い位置というのは、もっとも立ち客の少ない場所となる。空いていればともかくとして、混雑していればいるほどにドアよりは遠い位置を選択する。最近のクモハ313系はシートが簡単に方向転換する。したがって相向かいでなくとも進行方向を向いて座ることができる。なるべく同じ方向にシートを向けるように、空いているシートは車掌が修正するように、基本的には進行方向を向く形を乗客も好む。事実、相向かいのシートを使いたい人を除けば、おおかたは進行方向を向いている。ところが旧式の相向かいのシートが固定されている電車では、進行方向とその逆方向を向く人は等しくなることになる。空いてさえいれば、おおかたの人は、進行方向を向いて座ることになるわけだが、わたしの場合は、そんな際も立ち客のポジションを意識して座るのが常である。ようは立ち客から見下ろされるような進行方向に向いたシートよりは、後ろ向きでも立ち客のいない場所を選択することにしている。

 という具合に、乗車後に座る場所を選択して歩く。朝乗る駅は、そこに高校があるために、大勢の降車客がある。したがってそこまでの車内の雰囲気はその後で大きく変化するわけで、空いているとはいっても、降車する客を見て降車しない乗客もポジションを変えるトキとなる。もしかして、飯田―伊那市駅間の朝の通勤時間帯で、これほど雰囲気が一変する(座っていた人の顔が変わるという意味で)のはこの駅だけかもしれない。わたしはその駅から乗車しているから空いた空間に平然と乗ることになるが、わたしより南から乗車してくる人たちにとっては、印象深い駅になるのかもしれない。

 さて、そんな乗客の大移動がある駅で乗車するから、自分も最も落ち着ける場所を探して車内を移動する。そんなときなかなかよい場所がなかったりすると、あちこちを徘徊してしまうのだが、考えてみればかなり空いているわけだから、そこから数駅の間で降車する客のシートを狙って近くに座るという方法がある。いつもそう思っているのに、いざとなると、空いている座席しか目に入らないのだ。ところがそんなシートを探しながら目で追っていると、「あの人あそこに座っている」と記憶の片隅ではそこから三つ目の駅で降車する客だという信号が点滅しているにもかかわらず、そのときにはあらかじめ用意していた自分の中のマニュアルに沿えないわけだ。マニュアルというものは落ち着いて行動できれば有効なのだが、咄嗟のときにそれを実現するにはよほど意識を持っていないと実行できないものなのだ。
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「民」と「人」

2008-07-06 14:35:54 | ひとから学ぶ
 先ごろの「長野県政タイムス」の連載もののコラム欄に〝「長野県・民と「信州・人」との間〟という記事をみた。書いておられる扇田孝之さんは、県外の出身で大町市に住んでいる。大町に住んですでに30年がたつというのに、長野県民ではあるものの、信州人だとは思ったことは一度もないという。「周辺の信州人も「特に信州人らしくなった」とは評しても、「信州人」とは認めてくれないだろう」という。そして「信州人と長野県民との間には越すに越されぬ「深くて暗い川」が横たわっているようだ」という。おそらく、住み始めた当初に思った「深くて暗い川」というイメージが、彼のこころの中でいつまでも消えないということなのだろう。その原点には、同じ県内でありながら地域ごとに育んできた対抗意識というものがあるという結論を持っているようだ。

 原点がそこにあるならば、いざとなると競争力に弱いこの県民は何なのだろう、などと思う。もともと長野県民は勤勉であるというイメージがある。そして理屈っぽいというのはかつてのイメージだった。きっと理屈を言う根源には、こうした地域アイデンティティがあるとも言えるが、それは長野県に限ったことではないだろう。扇田さんは東京の育ちというから、そうした空間を知らなかったということではないだろうか。だからもしこの考え方が正しいとすれば、これはほかの地方の人たちにも同じような図式ができ上がっているはずだ。そう考えていくと、わたしでも同じことを考える。沖縄に移り住んだとしても沖縄県民にはなれるが沖縄県人にはなれない。「民」と「人」との垣根はもともとあるはずだ。民は万民、人は歴史とでも言おうか。そう考えれば、扇田さんが人になれないのは、育ちの中でこの長野県という地域と接しなかったことにあるだろう。たまたま「信州人」というキーワードを使っているが、「長野県人」も同様である。そうして置き換えてみれば、わたしが「東京人」になれないだろうと思うのと同様だ。おそらく東京というところは、地方から集った人たちが多いから、そういう人の中には「東京人」と言える人がいるかもしれない。それはそれを否定することのない多国籍人種がいるアメリカのそれと同じようなものだろう。わたしたちはどんな肌の色であろうと、アメリカ人と呼ぶだろう。ところが日本人にはたとえ日本国籍をとったとしても、「日本人」と簡単に呼べない、あるいは呼ばない国民性のようなものがある。これは冒頭の「県人」と「県民」との関係に等しいだろう。

 あえて「長野県民」と「信州人」の問題を話題にするのが適正だとわたしは思わない。それほどこの県にはよそから移り住んでいる人たちが多くなった。扇田さんがそうした古いしきたりに苛まれているのかどうかはしらないが、今やそうした関係で地域が生きていけないことを知っている。だからこそ現在の地域において、その地域性に苛まれているわたしのような人間こそ、こうした問題(今までにも述べてきた『伊那谷の南と北』という事例)を口にすることが許されると思っている。
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お客様のために働く

2008-07-05 14:51:42 | つぶやき
 わが社において、職員の人事評価をするにあたり、その評価基準を作るために意見を聴くという。たかが百人程度の会社であるが、このところ人員削減を進めてきて、いよいよリミッターが効きはじめて、会社そのものが喘ぎ始めた。それを解消すべくひとつの手段なんだろうが、同じ仕事をしている人たちばかりで、それもひとつの屋根の下に働いているというのならともかく、部署がいくつもあって散り散りになっいる。加えて仕事が多様な中でいったいどう評価の基準を作るというのか、発想そのものが怪しい。そんな評価基準を作成するがための検討部会なるものを行なうといい、そこに集まれというのだがわたしは参加しない。そもそもこの会社の考え方とわたしの考え方は一致しない。普通なら評価などというのは、意見など聴かなくともトップの考えで評価すればよいもので、その基準に沿って人を育てていけばよい。会社員が仲良く人事評価基準を作るというものではないはずである。ところがそれができない会社だからこんな無用な時間を割くことになる。あまりの状態の悪さから、人事評価が必要だというのが上の考えのようだが、そのいっぽうでこれ以上人が減ると業務が滞るという。矛盾というかいかさまな考えを持ち合わせている上がいるから現場がまとまらないし乱れる。

 もともと赤字になるから仕事をとってこいというのがこの会社の考え。当たり前といえばあたりまえだが、この基本線に沿って行動するから、仕事をなりふり構わず取ろうとする。ちまたの偽装の世界に近くなる。良い商品を安く提供するという考えにはならない。安いものを高く売るという結果につながる。とくに役所の仕事とのかかわりが多いと、そういう考えは間違いではない。役所というものは、問題が起きればより一層手間のかかる方向に向かう。それができるのは、役所は税金を使っているから金がかかるというのならそれなりに口実になる。ところが商品を売って商売している側は、お客さんに喜んでもらうには良い商品を安く提供することを考える。そのへんが違うのだ、お役所系とは。このごろよくいわれることに補助事業の基準というものがある。補助金を出すに当たってその基準というものがある。地域が必要と思っているものがあっても、補助制度に適合しなくては補助金をもらえない。役所は地域に「こういうものが欲しい」と言われ、それを受け入れることにより評価を上げる。ついては補助制度に照らし合わせてその制度に合わせるように事業を行なう。地域はこの部分が良くなれば、とかこの程度で良いのに、と思っていても補助事業に合わせた水準で整備される。「本当は違うだけどな」と思っていても一応欲しいと思っているものができたから、地域も了承する。そんなことを繰り返してきた。そうした役所系にはまっていたから、わが社もまったく同じ考えだ。お客さんのニーズに応えたいというのなら、良い商品を安く提供する。この商品を作り上げるのに「こんなに手間がかかるから」この値段でいかが?、ではなく、この商品を安くするにあたり、この部分は省かせてもらいました、という方針を持たない。役所の仕事はそんな世界だ。だから入札率などというものが報道で取り上げられる。請負側からの提案はそこにはない。このあたりはまったくわたしの考えと異なる。ようはこの商品を提供するにあたり、無駄な部分を削って安くしようという発想は絶対口にしない。また、安くするにあたり、3人で作業すればやりやすいが、その歩掛を削って同じモノはできないのか、という発想を持たない。これではわが社のような「もっと仕事をとってこい」ということになってしまう。さらには「使えないやつは切れ」ということにつながる。そういう根底の上にある人事評価が、上手くいくわけがない。仕事をとってきても人員を増やすことがもうできない会社なら、わたしの考えが正しいと思うのだが誰も賛同する者はいない。仲良く最期を迎えればよい。
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子どもは変わったのか

2008-07-04 12:26:44 | ひとから学ぶ
 「今日は学校で水辺の生き物探しをするから長靴を持って行くんだ」と話してくれた子どもは、まだ小学校に入ったばかりだ。あどけなさというか純粋さは、昔のこ子どもたちと変わらない。都会のように小学校から学校を選択するような余地がある空間では意識が異なるかもしれないが、地方にあっては、行く学校は決まっている。わたしの子どものころと、何も変わっていないような空気の流れである。

 ではどこからこの子どもたちは変わっていくのだろう、などと考えたりする。その「変わっていく」という言い方が正しいのかどうかも、わたしにはよく解らない。もしかしたら、自分たちの子ども時代の意識と何ら変わっていないのかもしれない。「子どもが変だ」などと思っている大人の勝手な思い込みなのかもしれない。

 手伝いという観点で見てみよう。わたしが多感な時期を迎えたころ、同年代のほとんどは農家であった。農家でないとしても、ほとんどの家は農業を営んでいて、とくに米作地帯にあっては、誰でも農業の忙しい季節は手伝いの季節でもあった。懐かしい言葉であるが、農繁半休業といわれる中間休みがあったのも地方独特のものであった。そんな休みが頼りにされたものであるが、家によっては休みには合わない家もあったが、いずれにしても手伝いを主体とした休みであったことに違いはない。中学卒業後、いつの時代からその休みがなくなったか、わたしには解らないが、縮小されながらもその休みは、長い間存在していたと思う。地方では夏休みが短いというのは、そんな休みが存在していたからだ。ところがそんな休みがなくなっても地方の夏休みは都会並みにはならない。どこがどうなのか定かではないが、土曜日が休みになって、子どもたちは大人たちとなんら変わらないサラリーマン化した時代に暮らしている。しかし、サラリーマン化した以上、手伝いというものはない。せいぜい家事の手伝い。ようは生業である部分を手伝うということはない。親の働く姿を見ていないのだから、「働く」とは何なのか見えはしない。そんな子どもたちは、アルバイトを許されると、いとも簡単に銭を稼ぐことができる。銭を稼ぐとはこれほど簡単なものか、などと思っても仕方ない。そこにゆくと、農業を手伝うというものは、けして楽しいものではなく、また現金をすぐに稼ぐという世界ではないことを知る。そこに銭が飛び交うことなどないし、見えはしなかった。地道な仕事の蓄積の末に、生産された暁には収入がある。気の長いものであった。とはいえ、わたしの父や母の世代は、すでに現金を求めて働きに出始めていた。きっと現金を稼ぐということがこれほど簡単にできるものなのだ、などと今時のアルバイトをしている若者と同じような感触を得たに違いない。誰もそうして気の長い働きをしなくなっていった。家業を手伝うということは奥深いものだとそんなところから思う。

 ひとつの変化はそんなところにあるだろう。銭の飛び交う空間で、子どもたちの金銭感覚が変わっているはずである。まだ銭とはそれほど縁のない幼いころは昔とそれほど変わりないのに、しだいに銭勘定が解り、加えて身近に銭が見え始めると、一気に意識は変化していく。都会はともかくとして、地方の地方にあっては銭と親しくなる多感な時期が大きな節目である。そこにケイタイという道具が感情を揺らす。子どもたちが大事なものを見失うとともに社会イメージを築くなかで、大人たちに課せられた宿題は大きいはずだが、なかなか大人も解っていない。もちろんわたしも含めて・・・。
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挨拶

2008-07-03 12:23:54 | ひとから学ぶ
 挨拶は上手な方ではない。だから好きな方でもない。あまり外交的でない人間とはそういうものであって、当然の礼儀だとは解っていてもなかなか声が出ないというのが実情だ。それをもって無礼なやつだとか、身勝手なやつだとは思わない。自分がそうだからということもあるのだろうが、必ずしもそれを突いて人間を評価しようとは思わない。もちろんしっかりとしてくれる人に好印象を持つのは当然だが、だからといってその場限りならともかく、長く、あるいは時々付き合いがあるとれば、それだけで付き合っていくわけにはいかない。

 道端での挨拶についてはこれまでにも何度か触れてきた。「おはようございます」とか「こんばんわ」という挨拶を発しても、なかなか返ってこないことも多い。わたしのような正確ではそんなとき、自らの声が小さくて聞こえなかったのだと思うことがよくある。いや、きっと聞こえていても聞き取り難いから返答しようとする方もぎこちなくなるなんていうことも多い。人と人との空間の間とはそんなものだと思う。顔見知りのごく親しい人や、近所の人ならともかく、どこの誰だか解らないような人と挨拶を交わすということもなかなか思うようにいかないのは当たり前だ。ただ、地方の一地域で歩いているともなれば、同じ地域の人だということは、そこそこ理解できる。そんな関係も「挨拶をした方が良いものか、悪いものか」などと惑わせることになる。強いては、物陰に隠れてしまう、という行動も生まれる。これは都会での暮らしではあまり意識しない部分なのだろうと思う。都会ではなくとも地方都市でも同じだろう。長野市に暮らした3年間、会社への道すがら、他人と挨拶を交わしたことなど一度もなかった。またそんな姿はご近所同士ならともかく、そうでないらしい関係には見られなかった。そんなものなのである。実は地方の地方においても、車で移動する人が多いから、歩いている人が限られる。したがってそんな空気を感じ取る人も少なくなったことだろう。

 毎日のように駅へ向かう道で、近所の子どもたちと会う。親同士では親しいものの、子どもたちにとっては「どこかのおじさん」という存在で、いってみれば「知らないおじさん」だ。最初はこちらから「おはよう」と挨拶し、返答は「○○○」といった具合によく聞こえなかった。しかし最近はわたしよりも先に挨拶をしてくれる。そして「今日は学校で水辺の生き物探しをするから長靴を持って行くんだ」といろいろ話しかけてくれるようになった。無言の中では生まれない関係である。しばらく歩くと、あまり人通りのない道だが高校生が近くの高校に歩いて向かっている姿に時おり出会う。駅で出会うみるからにテレビに登場しそうな柄の悪い高校生の姿が焼きついていると、挨拶など返ってくるわけがないと思いつつも、会うたびに「おはよう」と声を掛ける。最初は返事なし。しだいに「○○○」となんともいえない返事が聞こえだし、最近は少し「おはようございます」という形になってきた。当初はそんなしたくもない返事のためにそんな道を通るのは辞めるかもしれないと思っていたが、回避されることなく、時おり会う。気持ちも解るが、そんなやり取りを楽しんでいる。嫌味な大人かもしれないが、ちょっとしたそんな意識ができることが、わたしは幸運だと思うことにしている。
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耐震対策と政策

2008-07-02 12:34:08 | ひとから学ぶ
 耐震に対しての対策が低いといって伊那市では、今後その対策費用に重点的に予算を充てるというニュースが流れる。その耐震対策度をもって、自治体の政策認知度というようなページも見受けられるが、あくまでも耐震補強は、長期的な学校のあり方の政策とあいまっている。「教育の心を表す通学路の安全度」では、「上伊那の公立学校を見ると、耐震化率が最も低い伊那市は31.4%。駒ヶ根市は低いほうから3番目の64.0%と三分の一が危険な状態で放置されています。飯島町、南箕輪村、中川村はいずれも100%であることに比べると、意識の低さが計れます」というが、意識されてそうした数値が表れているとは思えない。簡単に言ってみれば「たまたま」といった方が正しいはずだ。「耐震補強優先という方針」において知人は、「学校の耐震化が進まない理由は少子化に伴う「統合計画」を考えているから」と述べているように、財布の中身と今後の生徒数という予測の中で耐震化の判断がされている。金さえあれば、どこでも耐震化に向けた取り組みができるはずで、もし10年、いや20年前だったらどこのトップもいち早くこの問題に取り組んでいたはずだ。もちろん安全第一であることを優先すべきことだろうが、単純にトップの無責任と言ってしまうのは、あまりにも簡単だ。

 それにしても耐震化はこと学校だけのことではない。このごろ話題になっている公共施設においてもかなりの建物が現在の尺度では耐震度の低いものが多いと聞く。個人施設ともなればその数は膨大だろう。そこへ老朽化した高度成長時代に建設された土木構造物が加わる。橋梁の安全度の低いものも多く、補修や補強に向けた取り組みが地震国では緊急の課題となっている。実は大量に造られてきたコンクリート構造物、これらの耐用年数は、そしてその老朽度はどうなんだということがあまり話題にあがらない。この財政難時代において、これらの更新、あるいは延命化はなかなか簡単にはいかない。国土交通省も農林省も、コンクリート施設などの延命化に向けた事業が主流になりつつある。造り続けてきたつけは、いよいよこれから始まるという印象である。いかに自分の所有物を把握するか、またされているかが自治体にも問われることになる。もちろんすでにそうした流れに進んできているのたろうが、果たしてそこに住んでいる人々はどれほど認識しているだろう。モノを大事にしてこなかった国民は、自らそうした意識を忘れてきてしまった。そういえば、先日報道系ワイドショウにおいて、「生活のレベルを下げることも必要だと口にする政治家がいない」というようなことを述べている人がいた。政治はマイナス志向を口にすると票が集らなくなることを知っている。だからいつまででも発展しなくてはならないし、そういう政策をとらなくてはならないということらしい。無限の発展、などという人間のわがままは、もう終いにするときではないだろうか。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****