Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆という季節

2007-08-16 08:25:51 | ひとから学ぶ
 どことなく盆に出社してくる人たちの面影は〝暇〟そうという会社があったら、そんな会社は休業にして欲しいものだ。いや、そうするべきだろうし、そうできない理由もそれほどないはずだ。ところが例えば公務員のように窓口業務を同じ空間で抱えたりしていると、そうはいかない。いまだに公務員が同じレベルの勤務空間を持っているから、世の中も変化しない。通勤途上、小学校がある。かつてなら教員は夏休みといえば、子どもたちと同様に夏休みをとれたものだ。もちろん自宅での仕事が認められたかどうか知らないが、必ずしも休日ではなく、休めるシステムのようなものがあったのではないだろうか。わたしには別世界のことで詳細は解らない。しかし、今以上に休みが取れたことは確かなはずだ。日ごろ、務時間以外にさまざまな拘束を受けている現代なら、それこそこうした人たちに自由な時間を与えてやればよいのに、と思うのだが、そうは世の中も、また管理している人たちも許すことはできない。途上にある小学校の庭に、わたしが通る際には、すでに何台か車が止まっている。もちろん平日だから通常勤務の日にあたる。ある程度休んでいる人たちもいるのだろうが、必ずこうして出勤する人たちもいる。交替に休みをとるという流れなのだろうが、盆くらい休めばよいのに、というのが実感だ。この皆一線という図式が、なぜこの世の中に必要なのかも理解できない。エネルギーの消費を考えても、〝休むときには休む〟という意識が出てこない以上、この世の中はますますいつでも営業状態が栄える。

 というわたしも盆に休むことなく仕事をしている。しかし、決められた納期があって仕方なくやっているもので、会社が休業だろうがなんだろうがせざるを得ないものだ。できることなら皆と同じように休みとしたい。そうでなければ性格上皆が出始めると休めなくなる。

 13・14と電車にいつもと同じ顔が何人か見えた。「この人たちも休みじゃないのか」と思っていたが、その顔が15日には消えた。〝ほっ〟とするのも解るだろう。15日は諏訪湖の花火だ。この日に合わせたように、上伊那郡内の各市町村でお盆の成人式が行われる。どこかで40゜を越えたというこの日、伊那の旧市街地において歩行者天国になった。この日もまた、夕食を取ろうとそんな空間を横切った。なぜか〝うしお〟は超満員だ。盆の間中大賑わいである。平日の夕方に訪れたことはないが、これほど賑わっている店は〝うしお〟くらいだ。あまりの賑わいにそこは辞めて、またまた入船まで歩く。時間にしたらわずかだ。先日と同じラーメン屋へ入る。わたしのお気に入りのラーメン屋だ。ご近所が空いていればここまで足を伸ばすことはないが、混雑しているから気がつくと入船である。外食をろくにしないから、一人で混雑した店へ入るのはためらう。やはり空いているのに越したことはない。お気に入りなのに空いているというところが複雑だ。入船を歩く人影は少ない。
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減り続けるカワラニガナ

2007-08-15 08:26:41 | 自然から学ぶ


 今年もカワラニガナの様子を見に、小渋川を訪れた。とはいっても以前知った場所を定点的に様子見しているだけで、わたしが認識している場所以外にもどこかに生育している場所があるのかもしれない。いずれにしてもその定点でのカワラニガナの生育状況を見る限り、その数は明らかに減ってきている。初めてその場所でこの花を確認した際には、その場所の広範にかなりの数確認できたものだ。ところが昨年訪れると、川べりに近いところでもだいぶ背丈の高い草が生えていて、様子が変わっていた。その半月ほど後に増水があり、その後に訪れるとまた一変していたが、水が浸かったために花の数はだいぶ少なくなっているようにも見えた。その後も何回か訪れると花の様子を確認できたのだが、その昨年よりも今年はさらに株が減ってしまったように思うのだ。生育環境として、背丈の高い草に覆われるようになると、カワラニガナは減少していく。まさにその過程にあるような状況だ。夏の陽射しで熱くなった石と石の合間にこの花は姿を現すことからも、まったく水分は不要なのかと思うほどの花だ。少し背丈の高い草が日陰にしてくれればありがたいと思えば、そうではないのだ。

 当初に確認していた際にも、すでに減り続けている過程であったのかもしれないが、その際はまだまだ河原という環境にあって、陽射しの下、砂地にその姿を現していた。時に増水することもあるが、それは上流のダムが放流する時で、大雨が降れば必ず増水するという環境ではない。そういうこともあって、環境が変化する要因というものもなかなか計り知れない部分がある。

 この日、30分ほどあたり一帯を確認してみたが、花の咲いている姿は3株しか見えなかった。花はなくともそれらしき株はけっこうあったが、それでもわずかな空間に咲いているのみだ。その一帯もかなり背丈の高い草に覆われていて、かつて見たような石と石の合間のカンカン照りの空間ではない。記憶をたどると昨年写真を撮った場所とほぼ同じだ。来年もまた変わらず花を見せてくれればよいが、まさにこの空間だけをのぞいていると絶滅危惧状態である。カワラニガナは国県ともに絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。

 撮影 2007.8.12(下の写真は、すぐ横にあった綿毛状態になったカワラニガナである)

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通勤途上で思うもの

2007-08-14 08:26:10 | 農村環境
 自宅から駅までを歩いていると、その時間だけでもいろいろ考えさせられる場面に遭遇する。そんななかから、今までに何度も触れていて、これからも何度も触れるであろう農村の実態というものについて考えてみる。

 「四十九日間の彷徨い」で触れたおばあさんの家は、数年前に外で暮らしていた息子家族が入って、一応跡取りが家を継いだ。しかし、サラリーマンでそこそこの年齢にあれば農業をするほどの気力もないだろう。年寄が不自由になり、それまで担っていた農業ができなくなれば自ずと荒地として維持するしかなくなるわけだ。梨の木を伐ったあとの畑は、わが家よりも立派な図太い草が生えている。余裕があれば草刈をするのだろうが、なかなかその余裕もなく、草は秋を待つのみだ。草を刈ろうにも果樹棚の架線が邪魔になるし、柱もある。心配なのはその周辺で農業をしている人たちの迷惑にならないものか、というところだ。

 その家に隣接した土地は、ほとんど草薮状態である。専業農家がまだまだ近隣にはあって、そうした畑はそこそこ手が入れられているが、専業農家ではない家の持分は前述の通りだ。かつての農家ばかりがある空間にわが家も含めて、後に家を建てた非農家という家が点在する。そんな空間にアパートもいくつか建ち、これが今の農村の集落イメージである。よそ者が入りだすと、協調という面でなかなか思うことあっても、旧来の住民もものが言えなくなる。アパートに隣接する道路や、背面の土手を見ると、これもまた見事な草がたち並ぶ。かつてわたしも共同住宅というものを経験したが、夏の間に周辺の草刈を一度は必ずしたものだ。盆前だというのに周辺は草だらけで、帰ってくる仏様も口惜しいかぎりだろう。

 数年前にこの道沿いに小さな新しい家ができて、老夫婦が暮らしていた。駅へ通うようになって家の前を通ると、雨戸が閉まっていることが多い。どこかよそで暮らしていて時おりやってくるのだろうか、などと思っていたら、時おりおばあさんが外で庭の手入れをしている。ほっとしたのだが、どうもかつての様子と違う。以前は車も止まっていたし、窓もよく開いていて、夜の明かりも見えたような記憶がある。8月、盆月に入って気がついたのである。軒先に盆提灯が吊るされている。おじいさんがなくなったのである。実はこうした老人世帯も当たり前のように近隣には多くなりつつある。息子たちが近くにいるのに老人だけの世帯というケースも多いが、娘が嫁に出て、その家の最後がみえているような家も多い。少子化とはそんな現実を生む。いずれ一人になり、誰もいなくなる。どうしようもない雑草空間は増え続けるのだ。

 このところ朝方駅へ向かうと、おばあさんたちが自宅周辺の草取りをしている。何人も見かける。朝の涼しいうちにということなのだろう。たったわずかな空間をみただけでも、そんな農村の姿がよくみえる。実はこんなわずかな空間だけではない。農村は広大である。いくつか建ち並んでいるアパートも、みるみる空家が目立ってきた。何度も言うが人口は減少し続ける。にも関わらず農村部に集合住宅を建ててきたのだから当たり前の現象なのだろう。収入が少なければ、ますます働かざるを得ないのは当たり前だ。農業再生は政治の大きな課題だろうが、止まるところを知らないほど変化を続ける。
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盆歌

2007-08-13 08:28:58 | ひとから学ぶ





 信濃毎日新聞の8/12朝刊社説において、「都市からの手も欲しい」と過疎集落への救いの手について触れている。その内容はともかくとして、冒頭で新野の盆踊り歌を引き合いに出して、盆に帰省したら過疎地集落の現状をよく見て欲しいといっている。その引き合いに出された歌は「盆が来たのに帰らぬやつは 木仏 金仏 石仏」というものだ。ようは「盆に帰らぬものは仏様」というように捉えられるが、これは良い意味ではなく、悪い意味で言っている。新野の盆踊りのこの歌詞が歌われる部分は「盆」を歌ったもので、その全体を次に紹介してみよう。


 盆よ盆よと春からまちて 盆が過ぎたら何によまちる
 盆にゃおいでよ七月(八月)おいで 死んだ仏も盆にゃ来る
 盆が来たのに帰やぬやつは 木仏 金仏 石仏
 盆にゃ踊るぞ今年の盆にゃ 腹にゃ子はなし身は軽ろし
 盆よ盆よと楽しむうちに いつか身にしむ秋の風
 盆が来たとてうれしうもないよ うらは去年の古肌着
 盆の十六日がやみにらよいが 娘ひいたりひかせたり
 盆の十五日が晴ならよいが 男ひいたりひかせたり
 盆が来たなら踊らずまわず 年に一度の盆じゃもの
 盆にゃ親様お許しござる 踊り帰りが遅くとも
 盆のぼた餅や白歯の娘 おけばねぐさる毛も生える
 盆にボボせで何時ボボするだ 盆にゃ親から許しボボ
 盆に来るなら小斧を持っておいで 盆にゃボボの毛の枝はたき
 盆よ盆よと春からまちて 盆のかたびら着るじゃない
 盆のあげくの若い衆を見れば 露をはなれたキリギリス
 (『阿南町誌下巻』より)

以上のようなものである。社説ではどういう意図でこの歌詞を引き合いにだしたかわからないが、新野盆歌は信仰から離れて娯楽として継続されたなかで作られてきたものだ。大正14年に当時の有志の若者たちが、野卑な部分があるために良家の子女が踊りに参加できないというような問題があって踊りを改めようとした。そして下品なものは廃止されていったという。よく昔語りにも登場するが、風紀を乱すといって幕府や政府から取締りをうけながらかいくぐって継続されてきたものが、民俗芸能であったともいえる。すべてではないが、娯楽性が強まるとともに、自由でなかった時代だけに、一時を楽しむ農村の若者たちの姿が浮かぶ。盆の歌をみると、ここに紹介したものばかりでなく、誉めたたえたりけなしたりを繰り替えす。しかし、こうした歌の背景をみるにつけ、当時の暮らしの様子や、人々の思いが浮かんだりして奥は深い。社説に照会されたフレーズを思うに、踊る楽しみのために春から待ち望んでいる。それほど待っているのだから盆には帰らにゃだめだ、とそんなことを戒めているようにも聞こえる。そして後半は男と女の世界を触れて「露をはなれたキリギリス」とまとめている。今の時代には笑いものなのかもしれないが、若者が祭りだと言って楽しみにしているのは、今も変わりない。

 写真は、そんな新野の隣にある天竜村大河内で14日に行われるかけ踊りである。こちらは娯楽性は薄く、むしろ仏様供養の意味合いの強い古い盆踊りである。かつての盆といえば、こうして盆の姿を追っていたものだが、今や盆に生家も訪れない、まさに歌に歌われた「木仏 金仏 石仏」になってしまったわたしだ。

 撮影 S62.8.14

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今年も草取り三昧

2007-08-12 09:44:33 | つぶやき
 このごろの休日といえは伸びの早い草との格闘のようなものだ。一応ネコの額ほどの畑があって、高級な雑草が育っている。見事な太さである。これが売れればたいしたものだと思うのだが、一銭にもなるはずがなく、ただただ抜かれた雑草がたまっていく。そのままでは再び取った草の根が地面についていて息を吹き返してしまうので、そうならないように息の根を止めなくてはならない。ところが少しばかりの草なら大方は枯れてしまうが、大量に積んでおくと、やはり草同士についている土が災いして息を吹き返すこともしょっちゅうである。なるべくそうならないように常に監視していればよいが、少し束ねて積んだままにしておくと、青々してくる。そこそこ面積があるから、取った草を積むとずいぶんと高くなる。少しずつ積んでは石灰窒素を掛けてまた積んでいく。こうすることで腐りが促進する。ただでさえ、草の量が多いから、早く土に還ってくれないと処理する場所がなくなってしまう。

 さて、そんなことを毎週のようにやっている。先ごろ天竜川でアレチウリの駆除作戦が行われたと報道されていたが、自分の家の庭がこんなことだから、そんなよそ様の土地の整理などとてもできるものではない。ここまてやっても追いついていかず、妙な草に覆われて植木が枯死寸前である。草に追われているから、生垣の木に気を配る余裕もない。イチイを植えてあるが、かつては新芽がたくさん出て生き生きしていたのに、このごろは葉がどんどん少なくなってきて、透けた状態で生垣の価値すらなくなってきた。いかんせんこのままではいけない、と思うものの、毎日が仕事で追われ、このままでは盆もやってこない。ちまたの空気は盆の季節を思わせる。正月と同様、盆のころの雰囲気も「みんなが休み」という感じがあって落ち着くものだ。例え自分が休みでなくとも、そんな人の様子が違う時期は、穏やかになる。そんなアンバランスな年を、毎年すごしている。

 図太い草をわしづかみして引っこ抜くから、このごろは右手の指の付け根辺りが傷む。加えて青々した草ばかりつかみ続けるから、草の汁が手にこびりついて、まるで青ガエルのように肌が変色してきた。ちょっと人には見せられないようになる。加えて爪の先には土が入り込み、まるで昔の百姓の指てある。やはり草の汁と土が混ざっているから、なかなか取れるものてはない。とくに爪の間に入りこみ、両脇にたまった黒色はなかなかしぶとく、しばらくは消えない。消えた頃には再び草取りが始まる。

 近所にも日曜日となると、草を取っているサラリーマンがいる。でも家の前を通ると「どこの草をとったの」と思うほどまだまだ草が一面に残っている。やはりそれの繰り返しで、そんな姿が見えなくなったなーと思うと、冬間近である。最近の若い人たちが、庭で草を取っているなんていう姿はまず見たことがない。いずれ草のとり方ですらわからなくなるやもしれない。
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カツ丼

2007-08-11 08:47:18 | ひとから学ぶ
 ボッケニャンドリさんが、しばらく前に「食えず嫌い王」という日記を書いていた。トンカツを食べに外食に行って、厚ーいカツが出てきて〝食えず嫌い〟になりそうというのだ。「暫くの間は家でも豚肉を食べたくない気分。でもこれを平気で食べれる人の方が多いのかなぁ。」と感想を漏らす。そうなんです。これを平気で食べる人たちが多いからますますトンカツが好かれる。このごろご当地丼なんていってあちこちでやっているけれど、やはりカツ丼に勝つことなどできるはずもない。巷に出回っている丼といえば、カツ丼の他に、天丼、肉丼、焼肉丼、親子丼、鉄火丼にうな丼あたりが一般的だろうか。そうはいってもカツ丼ほどメジャーなものはないし、並んでいれば毎日はともかくとして、どれを食べる、と聞かれればけっこうカツ丼が多いはずだ。特別に豚肉だけが嫌いという人とか、肉そのものが嫌いな人ならカツ丼ノーと言うかもしれないが、そうでなければまずカツ丼に手を出すだろう。わたしのように肉はあまり好まない者でも、カツ丼なら・・・という気になる。肉が嫌なら天丼とか鉄火丼なんていうのも選択肢の中では上位にくるのだろう。実際わたしもカツ丼の次に選ぶならそんな部類に目が行く。

 さて、カツ丼についてはずいぶん前のことだが、ホームページに記事を載せた。同僚の若いのが現場に行くと、必ずカツ丼のある店を選択していたからだ。若いからやはり厚いトンカツが一番。そんな噂にあがる店を必ず聞いてきて、今度は「あそこに行く」みたいに行ったものだ。ボッケさんが言うように、これでもか、みたいなカツが乗っかっていると、なかなか食べるのも大変なものだ。まさに額に汗をかかないと食べられるものではない。でもそんなカツが評判になることはよくある。近在なら飯島町の千人塚というところにある〝しおじ〟という食堂だ。名古屋あたりでもそのカツの量が噂になって客が来るほどだ。もちろん量が多いから全部食べられず〝お持ち帰り〟なんていうのが当たり前になっているが、そこまでして乗っかっていても仕方ないように思うのだがどうだろう。近在ではそんな噂の店はいくつかある。カツ=量という図式が成り立つほど、量が多いと噂にあがる。

 再び伊那に戻ってきてこんなカツのことを思い出していたら、もっとすごい話を思い出した。かつて伊那に通っていたころ、夕食をとると言ってある店(店の名はもう覚えていない)のメニューを見せてくれた。その中から頼もうとしたら、誰かが笑っているのだ。「何で・・・」と思って聞いてみると「本当にとるの」という具合だ。「なんで取っちゃまずいの?」と言うと「きっと食べられないよ」みたいなことを言う。単純に肉の量が多いだけではなく、味もすごいと言う。わたしのように本来肉好きではなかった者にはつらそうだったので、その店で注文するのは辞めた。誰かがそんな説話を無視して取ったら、見てびっくり、「とらなくて良かった」と素直に思ったものだ。よほどの料理でも根を吐きそうもない人が残したくらいだ。美味しくても量が多ければ飽きてくるし、腹の容量というものもあるから勘弁して欲しいのに、不味いときたらショックは大きい。そういえばそんな店に伊那ではいくつか遭遇した記憶もある。食事で期待を裏切られるほどダメージの大きいことはない。

 話を戻して、カツ丼といえば駒ヶ根市ではソースカツ丼で売っている。そのこともホームページで触れているので詳しいことは省くが、ソースカツ丼なら桐生の方が早かった。わたしが社会人になったころには、外食といえばカツ丼がほとんどだった。それほどメニューもなかったからそんな具合になったのかもしれないが、何十年か前のメニューというものを見てみたいものだ。田舎でも田舎の町場でも、どこへ行ってもカツ丼は定番だった。そしてそんなカツ丼はすべて玉子とじのカツ丼だったから、カツ丼とはそういうものだと思っていた。ところが駒ヶ根でソースカツ丼を売り出した頃からか定かではないが、ソースカツ丼なるものがしだいにメニューに現れるようになった。そんなころは玉子とじかソースのどちらかしかメニューにはなかったものだが、このごろは両方をメニューに載せる店も多くなったし、従来の玉子とじをカツ丼として出していた店では、わざわざメニューに「玉子とじ」と説明書きをするようにもなったのだ。いかにソースのカツ丼を好む人が多くなったか、ということが解るわけだ。

 ボッケさんが、どことなく豚カツ屋に現れる風体は太り気味なものがあると言っている。そんな店のカツは厚いともいうから、分厚いカツが食べたい人は、ちょっと店の外で観察していればその店の肉の様子が目に浮かぶようになるかもしれない。
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平安堂閉店

2007-08-10 08:26:13 | ひとから学ぶ
 平安堂の伊那店というのが、天竜川堤防上の国道153号線の端、とはいっても堤防は天上になっているから、その堤防から下りた場所にあった。10年余前に伊那の事務所へ通った際には今以上に忙しく、帰り道に寄るということもそれほどなかったのだが、当時としては重宝していた書店であった。その後伊那を離れると、稀に寄ることはあったが、まあなくても困ることはない関係にあった。

 久しぶりに伊那にやってきて、当初自動車で通勤していたころ寄ろうと思ったらその店がないのだ。場所が思わしくなかったのか、移転したと思っていたら、どうも伊那にはもうないようだ。平安堂のHPで確認してみるとやはりこの近在にはない。なんでなくなったんだろうと思い、どこかにそんなヒントがないかと検索してみると、閉店を悲しむ声を見つけた。以下に紹介してみる。

●「平安堂書店・伊那店」が、なんと4月いっぱいで閉店だそうです。正直「やっぱりね」という感じでしょうか。だって、このところの集客力の著しい低下と、やる気のなさ。それはそれは悲しくなるくらいに、ありありとダメになっていく様が分かっていたからです。
 地理的条件、店舗規模、レンタル・ビデオを含めた品揃えの多さ、全てにおいて「TSUTAYA」にかなわなかったということなのでしょう。でも、本当のことを言うと、われわれ「本屋さん愛好家」 にとっては、多大な打撃であることを認めざろう得ません。あの「新刊書の棚」の充実ぶりは、平安堂書店でしか実現不可能だったからです。ベストセラー本しか置かない「TSUTAYA」や、どのフロアにどんな本が入荷したのかさっぱり分からない都会の巨大書店と違って、わずかなスペースに、ありとあらゆる分野の新刊本を「ぎゅーっ」と濃縮させて、さらに、ちょいとひねりも加えてレイアウトする、そのセンスのよさには、ぼくはいつも感心していたのです。いつの日か、ぼくら「本屋さん愛好家」 を唸らせるような、個性的で、ワクワクするような書店として復活してくれると、ぼくは信じていますよ! ねえ、平安堂書店さん!

とまあこんな具合だ。平安堂については今までにも触れている。重宝はしていたが、客に対しての還元という意味では、地域から発信した店なのにまったく地元の人たちにはありがたくない部分もあった。だが、発信した下伊那地域にあっては、ほとんどが平安堂に駆逐されていったから、仕方なくそこを利用せざるをえなくなっていた。むしろ悲しむ声の方の意図していたような店は、平安堂が駆逐する前にいくつかあったように思う。そういう意味では、シャッターの閉まった店が目立つ駒ヶ根市の駅前通りで営業し続けている〝玉屋〟は特筆すべき店だろう(でも最近だいぶ書棚が減った)。店長さんの趣味的な部分があるかどうか知らないが、かなりマニャックな書棚が一部にあったりする。現住所に移る前にはずいぶんと゜利用させてもらった店だし、子どものころから月間本などを生家に届けてもらっていた。いつしか平安堂時代がやってきて、駒ヶ根市には今やTUTAYAもある。にもかかわらず時おり訪れるとお客さんがいて〝ほっ〟とするものだ。

 地域性が関係しているなんていうと乱暴な意見になるかもしれないが、平安堂伊那店があった場所には、ほかにも大きめな店があって、けして販売上とても場所が悪いという環境でもない。しかしながら消えざるをえなかったのは何か、ともう一度考えてしまう。飯田市座光寺ではかつてTUTAYAと平安堂が近接してあった。TUTAYAはさすがに平安堂に勝てないと思ってレンタル重視にした。だから平安堂が単純にTUTAYAに劣るというものでもないだろう。わたしが平安堂の雰囲気に納得しなかったように、伊那という空間のある一定の人たちが同じような感覚でいたということも考えられる。ちよっと考えすぎとも思えるが、今まで「伊那谷の南と北」で触れてきたように伊那と飯田が相容れない歴史的背景のようなものがそこにはあるのだろうか。とくに客商売の典型的な例である書店という一般の人たちにはかなり身近なものだからこそ、そんな雰囲気を読み取ってしまう何かがあるように思うのだ。
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赤穂のマチを歩いて

2007-08-09 20:03:08 | ひとから学ぶ
 おそらくこの8月に土日以外に休日をとるのはこれが最後、あるいはあと半日くらいかもしれない。8月にこれほど働くのは(正規な就業日に、という意味で)もしかしたら何十年も働いて初めてかもしれない。このごろは「何で?」と問いかけても答えは出ない。自らが年老いて手が遅くなったのか、あるいはそれだけ仕事量が増えたのかなんともいえない。仕事量といったって、昔の方が成果はたくさんあげていた。ところがこのごろはやってもやっても戻っていってなかなか成果にならない。「計画的に」なんていう言葉があるが、計画していたって後戻りするような要因がたくさんあるし、他人の顔色見の仕事だから、世の中がうるさくなれば仕事は進まない。

 といことで今年の盆は休めずにウィークデーを働く予定だ。公務員と同じように、夏季の間に5日間の休日をとることができる。少し前は、それだけでは休日が足らず、有給休暇を利用していたのに、今やその5日間の消化すらできなくなった。当たり前のように消化していたのにどういうこと?、というところだ。春からどこかで休んで地元の郵便局に行かなくてはならない、と思っていた。郵政省が民営化されて、いよいよ郵便局が使いづらくなったようで、そのあたりの変わったところ確認しなくてはならないのと、地元の郵便局でしか利用できない振替口座への手続きもあった。午前中は現場で仕事をこなし、相棒に駒ヶ根駅まで運んでもらった。少し前に電車が発車したばかり、次の電車でまで時間があるため、少し駅前を歩いてみた。

 駒ヶ根駅前のことについては、さきごろ触れた。髪のカットにこの駅前までいつも来ているため、身近なマチだ。しかし、ゆっくりとそんなマチを歩くことはまずないから、久しぶりに時間つぶしのように歩く。実は駒ヶ根のマチ、と言うよりは赤穂のマチと言った方がしっくりくるが、子どものころからよくきたマチだ。〝よく〟といっても今のような頻繁に移動する時代ではなかったから、稀なことではあったが、〝マチ〟という認識ではかなり親しみのある場所であったことに違いない。もちろんそのころから駅前通りの中ほどにあった玉屋書店はお気に入りの場所だった。その店が今もそのままあることは救いだ。しかし、かつて賑やかだった駅前の通りには、シャッターの閉まった店が並び、アーケード通りの人通りもほとんどない。ウィークデーだと思えばそんなものかと思うが、そうはいっても夏休みに入っている。電車に乗ればそこそこの若者達の姿がある。すでに休日に入っている人たちも相当数いるはずだ。にもかかわらず開いている店をのぞいてもほとんど客の姿はない。「よくやっているなー」というのが実感だ。めったに外食などしないのだが、かつて息子が小さかったころ、そして会社が景気の良かったころは外食をした。そんな時代の記憶があるから、「あの店に行ってみよう」という気になる。麺類ならさほど食べるのに時間がかからないだろう、そう思いかつてよく行った蕎麦屋をたずねるちょっと早かったが、営業している。福寿美という蕎麦屋だ。大盛り蕎麦で1300円という金額だから、ちょっと高い。でもよく訪ねた蕎麦屋だった。夏真っ盛りだからこんな時期の蕎麦はそれほど美味いわけがない。その通りで昔ほどの美味しさは堪能できなかったが、白髪頭のおばあさんは、まだ元気で店に出ておられた。蕎麦はともかく、そんなお顔を拝見して店を後にした。すでに正午を過ぎているというのに、駅までの食べ物屋さんに人影は1人か2人。農業再生も大事だが、商家への対策はどえう考えているんだろう、とそんなことを思う。商売できなければ場所を変えろ、とか移転しろということなのだろうか。地域社会がマチには成り立たなくてもよい、ということなのだろうか。農業以上に厳しい世界のようにみえる。

 さて、玉屋書店で久しぶりに店長さんと声を交わした。少し白髪が見え始め、表情は昔どおり元気そうだったが、だいぶ書棚が減った。それも致し方なしというところだが、この店だけはいつまでも続けて欲しい店だ。
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四十九日間の彷徨い

2007-08-09 08:27:10 | ひとから学ぶ


 死後の追善供養に関する説明はたくさんのページが検索できる。そうしたページは例えばお寺のページであったり、葬儀屋さんのページであったりさまざまだ。このごろの葬式は葬儀屋さん任せだから、そうした追善供養の仕方もそれほど地域差がなくなってきたのかもしれないが、それでも葬儀屋さんそのものが地域性を重視しているから、葬儀屋さんの意向で詳細が決まったりするわけではない。結婚式が式場で行われるようになって画一化されていったことにくらべると、葬式を含めた死後の供養までの儀礼は、大きく変わったとはいうものの、まだまだ地域差があるようだ。

 十数年前にわたしが家を建てた際の建前の折、餅拾いにやってきてくれた近所のお婆さんが数ヶ月前に亡くなられた。建前ののちも時あれば家に寄ってくれたり、道で顔を合わせたりと、親近感のなくなった時勢にしては縁のあった方だ。その家の横を通っては通勤をしていているのだが、葬儀のあと、今までは北側の部屋に電気が点かなかったのに、その後ずっと電気が点くようになった。ようはそこに祭壇が設けられ明かりが点されているからだ。葬儀のあとにそのまま後飾りの壇が置かれるが、そこにはだいたい遺影や白木の位牌が置かれ、花や灯明、香炉が並ぶ。壇の脇には、7本の塔婆が置かれていたりする。この塔婆を七本塔婆といい、本来は初七日までの毎日、この塔婆の一枚一枚をお墓におまいりして建てていったものだが、もうずいぶん前から初七日の供養を行うとすべてを墓地に建ててしまうようになった。今はほとんど初七日法要を葬儀に引き続いて行っているため、埋葬の際に墓地に持っていってしまっているのかもしれない。

 かつて生家で祖母や祖父が亡くなったとき、母は毎日この塔婆を持って墓参をしていたことを思いだす。記憶が定かではないが、わたしはこの七本塔婆は、七日ごとに墓に建てていたようにも思う。いずれにしても四十九日までの間、毎日墓参し、祭壇の蝋燭に明かりが点っていた。四十九日間は亡くなった人の霊がその家の屋根棟にいる(『上伊那郡誌民俗篇』)ともいう。亡くなった人はまだ成仏できずに、懐かしくその家に留まっているということになる。家というものが重要視されていた時代の感覚ならそんな気持ちはよく解るのだが、今の時代のように家というものにそれほどこだわらなくなると、そういう意識が生きていることも不思議になる。言い方としては「あの世とこの世の間をさまよっている」というものが一般的だが、わたしにはむしろ前者の上伊那郡誌の事例が本当だと思う。あの世とこの世ではなく、近親者の身のまわりに居残っているという方が亡者の気持ちには合っているだろう。だからこそ、現在のように家族すら支えにならなくなった時代において、亡者はさまようことなく、あの世へすぐに旅立ってしまい、かつてのように火の玉も飛ばなくなったのかもしれない。

 自分の年齢の位置的なものもあるのだろうが、祖父や祖母が亡くなったころは、近親に葬儀が頻繁にあった。そういう年齢的な時期だったのかもしれない。しばらく近親にそうした葬儀がなかったから、これからあるだろう近親の葬儀後の気持ちのありようがなかなか解らないものだ。近所のお婆さんがなくなって、おそらく四十九日までだったのだろうが、盛んにふだんは明かりの点かない部屋に明かりがあって、そこを通るたびに気持ちが和らいだのは、家に留まりたくなる亡者の気持ちがあったからかもしれない。

 7/31の夜、帰宅の夜道を歩いていると、すでに盆提灯が点っている家があった。思わずもう8月1日かと思ってしまったが、亡き人々が偲ばれ、亡き人々が家に戻ってくる季節がやってきて、少し田舎も賑やかになったような雰囲気があってほっとするのだ。そうこうしているうちに、六道の杜の魂迎えがこの8/6に行われたと地方紙に報道されていた。8/7には同じ伊那市でさ「サンヨリコヨリ」という行事も行われていた。いよいよ盆である。
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黄門様の戸別所得補償制度

2007-08-08 08:27:13 | ひとから学ぶ
 今回の参院選における自民党と民主党の農業政策の違いは、あらゆる場面でとりあげられた。現在の農政の流れは相変わらず大規模農家への流れであることに違いはない。しかし、民主党のマニフェストでは「戸別所得補償制度」を掲げて、地域社会の再生・安定と自然環境の保全を進めるという。4ヘクタールという大規模農家だけではなく、小規模の農家に対しても所得補償を行って、格差を是正するというものだ。これに対して政治番組での討論において、「その財源は・・・」という質問を盛んに受けていた。サンデープロジェクトに出演した民主党の黄門様は、盛んに五反百姓について触れ、そうした農家が日本の農業を支えてきたと説いている。そしてその財源について「今でも土地改良予算に1兆円を使っている」といって、その予算内の無駄をなくせばよいというような言い回しをしている。確かに無駄だと思われる事業を行った例はあるだろうが、この予算を省いたからといって、所得補償をどれだけ行うのか不透明だし、加えて補償する農家の対象とはどんなものか疑問は多い。

 悪名高き公共事業であるが、この土地改良事業についてはあらためて触れるとして、現在の五反百姓が実際どういうことになっているのか理解されているのだろうか。これはわたしの身のまわりでの様子だから、よその地域、よその県でも同じということではないことを前提として話を進める。現在の五反程度の百姓で専業で農業を営むことはできない。最低ラインの生活をして多様な品種を作ることで100%無理とは言わないが、99%の農家はそれで生き抜くことはできないだろう。ということは黄門様がいう百姓のほとんどは、高齢者によって行われているということになるだろう。かつてならそこに女性が加わったのだろうが、今や年寄と女性が担う、という姿もなくなってきている。こうした農家で後継者(ここでいう後継者は農業の後継者ではなくその家の後継者という意味)がいる場合は、所得の中心は農外所得となる。ようは後継者が後を継いだとしても、農業が継続されるかはかなり疑問のある農家である。そして後継者のいない高齢者の農家は、ごく一般的にその高齢者がいなくなれば、前者よりもかなりの確率で農業が停止する。こうした現実の五反百姓をみたとき、果たして黄門様が見ている農家が農業を確実に継承するとは限らないわけだ。もちろん一戸あたり五百万円くらい補償すれば誰でも欲しいだろうが、そんなことはできるはずもない。

 今までにも直接的な補償制度は、中山間地域において何年も前から行われてきた。反当りの補償額は少なかったが、過疎地域の何も補償されなかった土地に直接的に払われたお金は、ずいぶんとそうした地域にとって有意義だっただろう。しかし、これは戸別補償ではなく、集団を対象とした補償だったため、誰でも恩恵を受けるというものでもなかったし、地域を引っ張る人がいないと、なかなかぬ成功しないという例もあっただろう。加えてこの補償制度は土地の荒廃をストップしたいというのが狙いで、継続的に農業を行うというものが目的ではなかった。結局、そうした制度を利用したとしても自給率を上げるような策にはならなかったし、目的外の制度利用も多々あったようである。

 戸別補償とはいうもののどういう農家を多少にするのか難しい問題が多いことは解るだろう。その原点に「農家」とはどういうものを指すのか、という疑問がわくほど、世の中に農家らしい農家はなくなってきている。生家も確かに農家で、五反よりは大きいが、4ヘクタールという大きさではとててもない。そして高齢者が担っているが、サラリーマンである兄が継続的に農業をするとは今の状況ではあり得そうもない。そんな農家に戸別補償をしたとしても、あくまでも主はサラリーマン世帯である。都会の人たちにしてみれば、そんな補償制度は許せないだろう。いっぽ、同じ家に暮らしていたとしても、高齢者のやりがいを持たせるための制度はあってよいだろう。家にとっての所得とはどうあるべきか、というところまで含めて難しい問題がそこにはあるような気がするわけだ。
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食草との深い関わり

2007-08-07 08:28:32 | 自然から学ぶ


 昨年、クロツバメシジミに触れたのは9月だった。ツメレンゲの大きくなった姿をみながら、そこに飛ぶクロツバメシジミを見つけたのだが、ツメレンゲそのものは花の咲いた後も枯れた姿を冬の間も見せている。くろぐろとした塔形の櫓のような姿が、遠目にもわかるものだ。夏を前に再び花期に向けて伸び始める葉には、虫食いのような痕がいくつも見える。きっとクロツバメシジミの幼虫が食べた痕ではないかと、葉の裏などを調べてみるが、すでに幼虫の姿はない。

 昨年より1ヶ月ほど早いが、そのツメレンゲの周辺をクロツバメシジミが盛んに飛んでいる。昨年も紹介したクロツバメシジミの生息場所と同じである。食草と昆虫の関係が、これほどぴったり整合しているケースは、わたしの認識の中ではない。それは、どちらも絶滅危惧種にあたるということが要因となっているのかもしれない。どらも絶滅危惧種ともなれば、もともとどちらも数が少ないということになる。だから片方が絶滅危惧種というケースに比較すると、その関係はよりいっそう目立ってくる。この生息場所の近くにはコマツナギも盛んに咲いている。この護岸から河川敷にかけて広大な範囲にたくさん咲いている。そこにコマツナギを食草としていミヤマシジミも飛んではいるが、知らない人は、とくにコマツナギとミヤマシジミが関係しているということには気がつかないだろう。それほどミヤマシジミの成虫は、コマツナギの周辺だけを飛んでいるとは限らない。そこにいけば、クロツバメシジミは、明からにツメレンゲの咲く空間の上を飛び回っている。だかせといって成虫がそのツメレンゲに留まることはそれほどなく、もっと背丈のある草花に留まる。おそらく何年も前は、護岸の上にこれほど土が覆いかぶさっていなかっただろうから、今ほど背丈のある草花は多くなかっただろう。ところが護岸上が道路になっていて、そこはダンプ街道と言われるほどダンプが頻繁に通る。加えてそこがちょうどカーブになっているということもあって、路面に落ちている砂などがカーブの外側にあるこの護岸に飛ばされるようだ。さらに昔なら、ダンプにシートが今ほどしっかり被せられていなかったから、多くの土砂がこの護岸に降り注いだことだろう。そんなこともあって石積みの護岸は、凹みがなくなるほど土が被さり、凹凸をなくしている。そんな護岸だから歩きにくいわけだが、ますますツメレンゲの姿も増えている。いずれ背丈の高い草がさらにはびこっていくと、ツメレンゲの生育空間としてどうなんだろう、という危惧もあるが、いずれにしてもクロツバメシジミにとっては、今はずいぶん良い感じの空間になっていることに違いはない。近くの河川内をミヤマシジミが飛んでいるが、前述したようにこの場所にもミヤマシジミが飛ぶ。ミヤマシジミもけして大きなチョウではないが、クロツバメシジミはさらに小さい。翅を広げると黒く、小さな体が急に大きくなったように感じるチョウである。

 ツメレンゲの葉の中に幼虫態で越冬するというから、成虫の季節ばかりでなく、幼虫の季節にも今度は見にくることにする。

 撮影 2007.8.5
 下は近くを飛んでいたミヤマシジミである。

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二酸化炭素排出量削減策

2007-08-06 08:25:26 | つぶやき
 国土交通省は、住宅の省エネを促進しようと、断熱効果を高めるなどの省エネにつながる住宅の改修工事を行った場合に、費用の10%を所得税から差し引く税制面での優遇措置を来年度の税制改正で求めていくという。どうも納得がいかないのだが、おおかたの田舎の人たちは、そんな改造をすることはなかったはずだ(ここでは長野県では、ということにする)。都会とか都市部に比較すると、密集していないからまず冷房を入れることはあまりない。だから例えば壁を厚くするとか、熱が逃げないようなサッシにするなんていうのは、田舎には似合わない。にもかかわらず世のなかが断熱住宅を叫ぶから、田舎のものもそうした家を欲しがる。今や田舎でも先進的な住宅といえば、そんな断熱構造があたりまえだ。ではどれだけ断熱が必要か、ということになる。前述したように、夏は冷房を入れる必要などないのが田舎だった。ところが最近は農村地帯でもエアコンを使う家が多い。確かに地球温暖化に伴って、暑い日が多くなり、加えて蒸し暑さも加わる。だからといって苦しいほどの暑さではない。同じように冬もそうだ。温暖化の影響か、昔のような寒さはない。昔ならコタツ一つで暮らしていたのに、今や当たり前のようにヒーターが使われ、温暖化などどことやら、といった具合だ。

 二酸化炭素の排出量を減らそうというなかで、なかなか現実的には減らないということに気がついて、日本も焦っているようたが、住宅が断熱化したからといって排出量が減るかは疑問だ。何故かって、前述したように人々は温暖な冬季になったにもかかわらず、昔以上に暖房に頼っているところから歴然だ。冬季はともかくとして、温暖化は夏期のエネルギーに大きな影響を与える。加えて暖房に対しての人々の動きを見る限り、今まで使われなかった田舎でも当たり前のようにエアコンが使われるようになるだろう。年寄りが多くて高齢化社会の田舎だからまだ促進していないが、これがあと何十年かして、今の年寄りがいなくなったとき、田舎は人口に比してたいへんなエネルギー消費空間になるかもしれない。

 だから国土交通省のような考えそのものが間違っているのだ。将来のことを考えるのなら、改修工事促進するのではなく、いかに冷暖房をしない人たちを増やすかということだ。これでは無駄な公共事業を無理強いしてきたのと考えはまったく同じだ。改修すれば無駄な二酸化炭素を排出するとともに、わたしが言うように必ずしも人々が意図に沿った行動をするとは言えない。それなら例えば冷房装置をつけない家には税控除をする、といった方がトータル排出量は明らかに少なくなるはずだ。発想が逆ではないかと思うのだが違うだろうか。
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トイレに隠された二つの空間

2007-08-05 10:39:00 | ひとから学ぶ
 ひさしぶりにまたちょっといやーな話を書く。

 トイレに入って小の方をしていると、すたすたと入ってきて大の方へ入る人がいる。別になんでもないことだが、女性とは異なり、大へ入って小をする人は座便器ならともかく昔ながらの便器なら普通はあり得ない。だから、そんな昔風のトイレ空間にいれば、自ずとすたすたと入ってきた人は「大」をすることはわかる。当たり前のことなのだが、この雰囲気はなんとも言えない。ようは「早くこの空間を出なければ・・・」と思う。なぜって、人の大の瞬間をともにしたくないし、人の匂いをかぎたくはない。それは誰も同じだろう。でもそんなくだらないことで気にするな、といわれそうだが、人に「そんなときどう思う」なんて聞いたことはない。でも意外にわたしと同じように思う人は多いに違いない。前述したように、女性なら箱の中に入ってしまえば、大とも小ともわからない。たまたま匂いでもしてくればどちらかわかるだろうが、その際、箱の中に入っていれば顔はわからない。時が過ぎれば箱の中身は変わっていくから、誰が大をしたかなんていう意識を持つ必要などあるはずもない。箱のドアが開いて人が出てくるときには、すでに匂いだってしないだろうし、箱から出てきたと言っても「大」と限定されるものでもない。箱が混雑していて待っているのならともかく、そうでなければ気にすることはない。

 これは同じトイレという空間でありながら、かたや箱の外、かたや箱の中という明らかに別空間が同じ空間にセットされていることが要因となっている。小をする空間にいる者も前述のように立ち去ろうと思うが、大の空間へ足を踏み入れようとする者もけしてすんなりとは入りにくいものだ。そんなくだらないことを気にしない人ももちろんたくさんいるが、小空間にいる人と、大空間を目指す人が会話をすることもないし、そのケースで挨拶をするとしたら、よほど親しいというものだ。だいたい顔見知りだとしても、足早になるべく顔を合わせないように大空間へ向かう人が多い。ようは本来なら誰もいない空間で大の箱へ入りたい、そう思う人もいるはずだ。

 きっとこんな無口な空間現象は、男性だけが感じているのだろう。世の中のトイレがすべて座便器スタイルになって、多くの男性が小を座便器でするようになれば、そんな意識もなくなるのかもしれない。ようはこれもまた絶滅危惧種ということになる。
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オニヤンマ

2007-08-04 08:51:04 | 自然から学ぶ


 トンボといえば子どものころのひどい仕打ちを思い出す。尾の先を切り取ってそこへエノコログサを差し込んで飛ばせるのだ。エノコログサの穂の部分を取って差し込むこともあったが、そのまま付けて差し込むこともした。子どもにとってあのエノコログサはとても身近な草である。穂の先を手で軽くつかみ、握り締めたり緩めたりすると穂は手の中から抜け出していく。あの雰囲気というか感触が良いからそんな遊びというか暇つぶしを盛んにしたものだ。だから身近な草の一つであるエノコログサを多様したわけだ。そんな一つがトンボとのかかわりである。尾の先に差し込むとなれば細くて鋭いものでないと差し込めない。穂先を引き抜くと芯も硬く滑らかなエノコログサは、そんな目的に格好な草である。加えて穂先の感触が良いから、穂先を抜いては子ども同士穂先を相手の顔に向けてじゃれあうなんていこともするほど、人肌には向いた草である。むごいことかもしれないが、そんな親しみある草だからこそ、またトンボの尾に刺してもそれめを優しさとはもちろん思っていないが、許せる範疇だったのかもしれない。

 尾に重石を付けられたようなものだから、トンボは飛びにくいのは当たり前だ。そのまま飛び回る姿を楽しんでいたのだから、やはりむごいことは確かだ。飛べなければ飛べるようになるだけ重石を軽くしてあげた。そんなことをしたのは赤とんぼもあればオニヤンマにもした。体の大きなオニヤンマは、エノコログサ程度のものを付けられても、ふだんと変わりなく飛んでいったものだ。赤とんぼはともかく、オニヤンマが今よりたくさん飛んでいたことは確かだ。

 オニヤンマは日本に生息するトンボ類の中では最大という。体長は一般的には8から11cmほどという。実際はこれより大きなものを見た記憶もる。メスの方がオスより大きく、メスの尾部には小さな産卵弁がある。写真のオニヤンマは、枝に留まって水面のアメンボでも狙っているようにも見える。水面にはたくさんの虫が行き来していたが、オニヤンマが水面に接近することはなかった。

 撮影 2007.7.29
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地方に明日はない

2007-08-03 08:25:31 | ひとから学ぶ
 知人は「ふるさと納税議論→地方と都市の共生へ」のなかで、日本農業新聞がとりあげた『田園立国』特集の記事「地方のあした」について触れている。竹中平蔵氏と下伊那郡泰阜村村長の松島貞治氏の対論が掲載されている。対論というのだから相反する論ということになる。ご存知の通り、竹中氏は地方交付税率を変えた張本人ということもあって地方の嫌われ者みたいな雰囲気がある。いっぽう松島氏は小さな村を独特な手法で自立しようとしている人だ。知人も言うように、両者の言い分は正当かもしれないが、例えば松島氏の背景をみたとき、彼がいる今は良いが、いなくなったときにこの村はどうなるのだという懸念もある。リーダーが変われば様子は一変することもあり得る。そうしたときにどうするのか、地方はそんな変化に対応できるほど懐がない。だからどういう手法がその地域の将来のためになるのか、様子が激変していく情勢のなか、なかなか読めないのが現実だ。

 いっぽう気になるのは、最近竹中氏みたいな理論の人がたくさんテレビに登場するようになったことだ。竹中氏の言葉の中に、明確に「田舎暮らしが大変なら都会に移れば良い」というものはないが、「今のまま町や村が存続することはない」と言っている。そこから広く読み取れば同じような意味を察知する。あからさまに「田舎に仕事がなければあるところに住めばよい」という人が画面で訴える姿を最近見かける。こういう言葉が流れてもちっとも不思議でなくなった。確かに竹中氏の言うように、努力をしている地域とそうでない地域がある以上、同じ土俵で「なんとかしろ」と言ってもいけない。いまだに昔のように平気でハコモノを作ろうとしている地域もあるようだ。現実的にはその背景にも力の関係のようなものがあるかもしれないが、基本的な考えを統一しておいてもらわないと、竹中氏の言うように「従来の地方交付税は、総務省の役人か鉛筆をなめ金額を決める不透明なもの」と変わらなくなってしまう。それなら透明な交付税の体系をもう少し地方重視にすればよいだけのことと思うが違うだろうか。ということは竹中氏は、やはり都市重視の考えで良いという捉え方なのだろう。

 さて、比較的知人は竹中氏の現実的な言葉に納得されているが、わたしは現実的にはそう進んでいくと解っているが、それが良いとは思っていないし、おそらくもっと日本人はすさんでいくと思っている。それは竹中氏のこんな言葉から捉えられるのだ。〝手を打たない自治体は今後、さらに人口移動は激しくなるだろう。けれど、そんなに悪いことではない。「選択と集中」を積極的にすれば、新たなチャンスが生まれてくるかもしれないからだ。〟というものだ。人口の移動が激しくなるということは、ますます捨てられるものが多くなるし、人の心の中に残るものはなくなる。朽ち果てる農村があちこちに登場するだろう。そして、手を打ったからといって、成果のあがらない地域はたくさん増える。移動距離が長ければ悪いことばかりが重なる。けして良いことであるわけがない。むしろ格差社会だからといって、移動する人は移動し、留まる人が留まればそれでよいと思うが、そこへ「新たなチャンス」なんていうものを捉える人たちが出てきたら、留まろうとしていても留まれなくなる人も出るだろう。まさに朽ち果てる農村を、モノとしか見ていない発想である。

 そうした意見を牽制するような「ふるさと」を冠した納税制度が、また良いとも思わない。本当に地方を救うためだと思うのなら寄付ではなく、現実的な交付税の体系化だろう。それが嫌なら竹中氏のような人たちの意見を取り入れて、「地方は死んでも良い」ということにすればよい。ただ、都会人に弄ばれることだけは許せない。

 竹中氏は〝村落が疲弊しているのも、村外に息子が出て行ったことが理由でしょ。単に人生の選択で起きていること。〟とも言っている。これもまた正論だ。地方の有力者たちがどんどん子どもたちを率先して都会に出していった。それを倣うようにしだいに誰もが地方を捨てるようになった。地方を先導している有力者=地方自治を担う人たちだったではないか。そして今もその現実は、そうは変わっていない。とすれば、竹中氏の言葉ほど正論はない、ということになる。都会が地方のためにあるわけではなくなった現在、都会はすでに一人歩きしている。その象徴のような東京都知事である。このごろ元参議院議員だった江本氏が、前首相へ首都移転を進言したことがあったとテレビで言っていた。「今はその時ではない」と一蹴されたようだが、今の都知事にそんな意見が届いたら、そんな議員は巷で歩けなくなるかもしれない。それほど力任せな空気が流れている。いっそ都会と地方の間に障壁でも作って囲ってしまえばよい。両者は別物と思っている人たちは、田舎に足など踏み入れるなと思ったりする。まあそんなことを言っている人はわたしくらいで、田舎の人たちは都会の人たちをどう呼び入れようかと思案中だ。大変後ろ向きの発言かもしれないが、前向きなときに「待てよ、本当にそれでよいの」という人がもっとたくさんいて欲しいものだ。都会がどんどん変化していってもよいが、地方がそのスピードに巻き込まれたらいけない。

 この支離滅裂なわたしの意見は、裏を返せば今の地方に何が良いかが見えていないからだ。ただ、盛んに新聞なりテレビで好事例ばかり紹介されているが、だからといってそれは正しいかどうかは疑問があることは確かだ。どこの地域にも当てはまるものではない。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****