Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

共感すること

2007-05-01 08:17:03 | ひとから学ぶ
 勉強に励まなくてはいけない息子も、高校に入ったとはいえ、まったく前時代と変わらない勉強態度で、このまま行ってよいものか、なんて悩む家庭内は、母と息子の言い争いが絶えない。お金がかからずお金のかからない大学に行ってもらって、親たちに苦労をかけずに社会人になってくれれば良い、なんて思っているのがどこの家でも同じなのだろうが、わが家のように金がなく、父親の会社が危ないともなれば、ますますそんな気持ちは大きくなる。なるようになるさ、とは思っても、それでも息子が目指すものがあればよいのだが、とても自分の意志で将来をふくらませていこうなんていう気持ちにはなかなかなっていない。なぜもこう目標が持てないのか、なんて考えてみると、さまざまな部分で共感できないでいる姿が浮かぶ。人は何に共感してもよいが、さまざまな物事に共感できなくなると味がなくなる。そういう意味で、息子を見ていると、何に共感するのだろうと不安に思う。人に流されているだけなのか、あるいはその意志を見せないだけなのか、親にすらわからない。悲しいことだといってしまえば、それまでだが、果たして今の子どもたちとは何を考えているのだろう。

 尾崎豊の番組を土曜日のBS2でやっていた。19歳の時のライブを見る限り、どう考えても天才である。この歳でここまで自分の世界があって、それをまた人に魅せることができるということが不思議だ。著名な曲は10代半ばに作った曲だろうから、息子の年代と等しい。そう考えれば、今の若い人たちにも受け入れられて十分な世界がそこにはあるはずだ。ところが、「尾崎豊はどうでもよい」と言って、ワンセグのニュースをのぞいている。そんな姿を見ていると、尾崎豊の世界に共感でき理解できる人たちは、しだいに減っていくだろうと思う。もちろん尾崎の時代がどんどん過去へ遠ざかっているのだから、今の時代に即しているとはいえなくなる。しかしながら、若い人たちの心の中をすんなりと表現している彼の世界には、いつまでたっても受け入れられるものがあるのだろう、とそんなことを思っていたが、それも風化しつつある。番組の中で受け付けた意見を紹介していたが、そんななかに「今の子どもたちは尾崎豊の歌に共感できない。歌の意味さえ理解できなくなっている」という意見があった。まさにその通りなのかもしれない。時代が変わるのだから共感するものの対象が変わるのは解るが、それほど大きな変化があるわけがない、と思い込んでいた自分が甘いのかもしれない。そんな事実を垣間見るのが、ブログである。人の日記を見て共感する必要もないが、こうして毎日記述していると、自分はこの時代に共感できるものを提供できないだろう、なんて実感する。いったいどこへ行こうとしているか、わたしには解らない。どんなに本を読んでも読んでいるだけではだめである。そのなかから何に共感したか、何は共感できなかったのか、そんなことが言葉にできないようでは、何も発言もできなくなる。本当に今の子どもたちがそうした感覚になりつつあるのか、それとも別なものに共感の対象を持ち合わせているのか、どうなんだろう。
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