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宇津木薬師の西国三十三番 中編

2022-08-22 23:13:34 | 地域から学ぶ

宇津木薬師の西国三十三番 前編より

 

 三十三体ある観音の内、1番のみ単独の覆屋に安置されている。1番のみ碑が大きく、その高さ121センチ、幅67センチ、と『奥三峰の歴史と民俗』(長谷村教育委員会 平成6年)に記載されている。それ以外の32基は、すべて高さ72センチ、幅38センチという。以前『長谷村の石造文化財』は、故竹入弘元氏にとって最も力を入れられた集大成的な石造文化財報告書だと述べた。それは写真にとくに現れていると述べたが、実は前掲の『奥三峰の歴史と民俗』と『長谷村の石像文化財』の杉島と浦の箇所は同じものである。したがって写真も同じもの。刊行年代が近いこともその理由なのだろう。そこに掲載されているこの三十三観音の写真は、線刻がはっきりとしている。それはわたしのように補助光を利用したのではなく、白墨で明瞭にしている。さすがに白墨で溝にすり込んで写真を撮るわけにはいかないので、補助光とした。

 

 さて、前掲書の備考欄に次のような記述がある。全文を紹介する。

参考 西国三十三所観音建立事情について
 杉島の宮下久亮氏蔵文書「宮下久兵衛ノート」に次のように記録してある。「杉嶋村報恩寺江 西国観音建立有之。是は高遠町建福寺様心願に付建立いたし、石屋川手村藤兵衛作也。本山より御目開有之。弘化二乙巳年也。終る也。」今まで、この西国三十三所観音について言及する人は何人かあったが、石屋が誰であるか知る人はなかった。それが「宮下久兵衛ノート」のこの記述によって、あのすばらしい腕の石工は「川手村藤兵衛」だと判明したのである。従来、画工は池上休柳であり、岡村忠輔菊叟が巡社歌を書いたと言われていた、その通りであることも台石の銘文「信陽高遠画工休柳模真 大夫忠輔書歌」によって確認された。だが石工については、「石工巧妙慈容全現……」とその手腕を高く評価しながら、名前の公表をあえてしないのはなぜであろうか。思うに、江戸時代にあって、石工等の職人の社会的評価と関連があるであろう。縁の下の力持ちで表には出ない。こういう傾向は現代にも続いている。しかし、それが芸術作品であり、出来栄えがすばらしければ、すばらしいほど、その作者=石工の名を知りたく思うのは人情だ。川手村藤兵衛とは、伊那市美篶下川手に生れた渋谷藤兵衛で、彼は、かの有名な石仏師守屋貞治(一七六五~一八三二)の弟子で、一緒に甲州海岸寺や諏訪温泉寺等で仏像彫刻に従事し、師の技術を継承して、貞治なき今多分当代一流の評価を得ていて、頼まれたものと思われる。藤兵衛(一七八四~一八五三)は弘化二年には六十二歳。円熟期の数年間全力を傾注したと思われる。

 

 

「十一番 山城州 上醍醐寺」

逆縁ももらさですくふ願なれば順礼堂もたのもしきかな

施主高遠町小松徳右工門

 

「十二番 江州 岩間山」

水かみはいづくなるらん岩間でら岸うつ波は松風のおと

施主高遠町小野屋宗兵衛 藤田半右衛門 山本屋徳右工門 宗説童子

 

「十三番 近江州 石山寺」

後の世を願ふ心はかろくとも仏のちかひおもひ石山

高遠町銀杏屋権四郎 木曾屋源吉内

 

「十四番 近江州 三井寺」

いで人や波間の月は三井寺のかねのひびきにあくる湖

施主高遠藩中両山下氏 伊藤氏

 

「十五番 京 今熊野」

むかしよりたつともしらぬ今くまの仏のちかひ新なりけり

施主馬越村要右工門 佐伝治 作十良 市兵衛 六兵衛 折兵衛 作右衛門 市蔵

 

「十六番 京都 清水寺」

松風やおとはの滝は清水のむすぶ心はすずしかるらむ

施主高遠藩中連衆 小野寺氏 新井氏 堤氏 鏑木氏 馬島氏 和座氏

 

「十七番 山城京 六波羅堂」

おもくとも五つのつみはよもあらじ六波羅堂に参る身なれば

施主勝間村竜勝寺 并末山衆

 

「十八番 京都 六角堂」

わがおもふ心のうちはむつのかどただまろかれといのるなりけり

施主高遠町小林藤左工門

 

「十九番 京師 革堂」

花をみていまはのぞみもかう堂のにはの千種も盛なりける

施主高遠藩中 山下氏 立石氏 吉瀬氏 小島氏 中山氏 吉田氏 大平氏

 

「二十番 山城 良峯寺」

野をも過山路に向ふあめのそらよし峰よりもはるるゆふだち

施主杉島村久右工門 亀左工門

 

続く


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