Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

不遇なるお茶

2009-07-30 12:42:09 | つぶやき
 「洗浄過程のない食品」より

 お茶のことについて昨日触れた。「一般の栽培方法でも、春先の一番茶にはあまり農薬が使われていないというが、実際にはブレンドされてしまうため農葉の少ない製品を消費者が選ぶことは難しい。そう聞けばなおさら、生産者と栽培方法がきちんと分かる消費材の良さが際立って感じられる」と生活クラブ事業連合生活協同組合連合会の生産者クローズアップの中で述べている。洗浄工程がない以上農薬に浸かっていれば微量でもそれを口にすることになる。そんな意味でも生産工程を消費者も知ることが必要だということになる。

 とはいえ現代の若者は緑茶を飲まなくなった。いやこの指摘が必ずしも正しいかどうかは解らない。いわゆるペットボトルによる消費量は増えているのではないだろうか。しかしそれはお茶というよりは清涼飲料水であって、正確には違うだろう。お茶の成分の混入した飲料といった程度である。かつてお茶が当たり前の飲料であった時代、生家にも大きなお茶の缶があったものだ。時おりやってくるお茶屋さんがどの季節にどこからやってきたのかまったく覚えもないし聞いてみたこともなかった。小学校低学年の時代には、分校の庭にお茶の木があって茶摘みというものを毎年やったものだが、そこで作られたお茶は加工後も葉が大きくて市販されているものとは違うという印象をもった。「お茶をよく飲む子だねー」と言われたわたしはお茶好きと言われたが、それはお茶が好きだったというよりも、お茶を飲みながらつまむ菓子が目当てだった。お茶も時がたてば湿気などで変色してきたりするのでその保存方法が大事であったが、大きな缶に購入するからどうしても底にたどりつくころにはお茶の味も変わってしまったものだ。その後袋詰めを買うようになったが、知らないうちに今のような包装に変わった。若いころはそんな変化に意識もしていなかった。

 このごろはお茶と言うと葬儀の後の返礼につけられることが多い。妙な話だがわが社ではとくに同じ部署で働いたわけでもないのにその近親者が亡くなると香典を包んだりする。捨て義理程度のものなのだが、そんな返礼だからお茶がつけられることが多い。若い者ばかりではない。最近はそこそこの歳をいったものでもお茶など飲まない人が多い。いわゆる農作業をしているとお茶の休みを欲しくなるものなのだが、農業が廃れればそうした慣例もなくなる。マチ場の育ちの人たちにはこの「お茶休み」が不思議でならないのだ。農家では農作業をしていなくてもお茶の時間が欲しいのだが、農家に嫁って北きたマチ場のおんなたちにとってはこの時間が無意味に映るようだ。こうして農業が廃れればお茶も廃れるごとく、葬儀の返礼につけられたお茶が会社の給湯室に無造作に積まれる。捨てられたわけではなく、会社で「使ってくれ」ごとく置かれるのである。わたしには若干なりとも「捨てられている」ような雰囲気が漂っているように思う。香典が多ければお茶ばかりたまって余ってしまうというのが実情のようだ。

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