Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ドイツにみる自立

2008-02-09 14:42:32 | ひとから学ぶ
 『婦人公論』2008/2/22号では「大人になってからの親離れ」を特集している。見出しからも想像できるように、ある意味では日本人にとって親離れというものがどういうものなのかを問いかける特集でもある。そのなかにドイツのルポの記事がある。「ドイツでは結婚とは新しい家族の誕生を意味する。親は親の世帯、子は子の世帯で経済的にも精神的にも独立し、ましてや孫がいるならこれから成長してゆく新しい別家族という自覚を持たねばならない」というように、明確な個人の自立を目指す環境があるのだろう。合理的で個人主義だといわれるドイツ。しかし日本もかつての時代に比較すればまったく家に固執しない時代が到来して、わたしの目標とする家族(やはり各世代が同居する形が一番である)というものは崩壊の状態となりつつある。それはわが家も同じで、よそ様の家族の様子をはた目から羨むような状態が少なからずある。果たして家族とは何か、そしてそれはどう個人にかかわりあっていくものなのか、という部分でいろいろ考えさせる毎日である。ところがドイツの事例を読みながら気がつくのは、日本の個人主義はドイツの個人を尊重する「個人」とは明らかに異なる。大人になったら自立するという意図が強いドイツに対して、個人は主張するものの自立のできない日本の子どもたちという図式が見えてくる。果たして日本人は自立できるのかという疑問も浮かぶ。

 結婚したらクリスマスも別々にというドイツの考え方を紹介している。ドイツにおけるクリスマスは日本でいう正月と同じようなもので、クリスマスには親元を離れている子どもたちも親元に帰って祝うという。ところが結婚をすれば親たちとは別々に祝うものと言う考えがある。しかし、日本における正月の考え方は、年を越す際に親元に帰って新年を祝おうというものではなかったはずである。それをそうとらえている筆者にすでに日本の正月のイメージがかつてとは違った形で写っていて、それが日本であるという印象を持っているようである。日本においても分家をして自立すれば、正月は別々に迎えるものという考えがあるはずである。それがもしそうでなくなっているとしたら、この国の親子が自立できない原因がそこにあるに違いない。

 そんなドイツルポの違和感を記事から察知してからというもの、この記事に疑問を持ちながら捉えてゆくと、確かにかつての日本人の暮らしや意識とは違う見解が連続する。それはあくまでも現在の日本人の生活に照準を合わせているから「共感」という部分ではいたしかたないが、こうした共感を求めざるをえないところに、日本の病がまた見えてくる。たとえば結婚して独立し、「クリスマスも別々に祝いなさい」と諭されたドイツ人の夫婦への質問「ご両親と一緒に住むことは考えていないの。二世帯住宅にすると、日本では親が出資してくれたりすけど」というものがある。この質問じたいにいくつかの疑問点が浮上する。①二世帯住宅というものはすでに日本ではそれほど受け入れられないものになりつつある。その要因は、二世帯というかたちばかりの同居は、すでに日本人のかつての同居と同等なものになりつつあり、さらなる決別を願う親子関係が多い。わたしの周辺をのぞいてみても、一時的に二世帯住宅と言うものが流行ったときがあったが、最近は少ない。二世帯住宅を造っても、その片世帯の家が空家という家をいくつもみている。②実は二世帯住宅というものは現代の親子間の住宅事情を現しているように思うが、かつての農村では「隠居」というものがあって、家を息子に譲れば、家の中の隠居部屋に引っ込むとか、あるいは同じ敷地に隠居屋を造って暮らすということがされていた。もっといえば、同じ敷地ではなく、近くに隠居別居する家もあった。ようは「隠居」という形で親子間の位置が明確に設定されていたといえる。したがって同居=同じ空間で暮らす、自立していないというようなイメージを持っていると誤った認識を生んでしまう。③二世帯住宅なら出資をしてくれるという捉え方である。そういう事実はあるだろうが、それは二世帯に限られたものではないし、別家をする際に田畑を分けたという財産分与とのからみも出てくる。財産というものがあれば、自ずとそこに出資するという親の役割のようなものが存在してくる。したがって言葉足らずなのかもしれないが、この場合は、親の家を継ぐはずなのに別に家を建てようとするから、二世帯住宅なら出資するよという意味なのだろうが、この文面ではそこまで理解して読む人はなかなかいないのではないだろう。

 凶悪犯罪を犯しても「親の顔が見たい」と世間の批判を受けることはない、夫婦別姓が制度化されて1度や2度の離婚は当たり前、守らなければならない墓がない、先祖の霊の供養をするという発想かないから配偶者や子どもが亡くなったら訪れる人もない、など明らかに日本にはない光景と意識がそこにあるが、日本も少なからずこうしたドイツの方向に向かいつつあることは確かである。しかし、真似ようとする意識をこうしたルポは呼び起こしはしないだろうか。そして、前述したように、かつて日本にあった親子の自立という図式を消し去っておいて、ドイツの姿だけを追っても、日本人に適合するとも思えないわけで、時代の変化のなかで、日本人は冷静にそれを見抜ける力は失ってきているようにもうかがえる。それだからこそ、こうした記事が氾濫するわげである。

 ドイツでは「自由の裏には強い孤独がある」というように、死すまでは夫婦で補うのだろうが、逆にいえば独り身ではどこまでも孤独ということになる。独り身の多くなった日本人には、かたちを真似たところで、国を形成していくだけの土壌はないといえる。にもかかわらず、こうした記事を背景に、「自立」「個人」というものを間違えて捉えてしまってはいけない。因習ともいえる日本の家の悪い面もあっただろうが、けして悪いことばかりではなかったことも認識しなくてはならない。「風呂の湯をいつ替える」にコメントいただいた jun-chichiさんは自らの地域について、「隣町からみても「未だにそんな結とか預金講(頼母講)とか盛んなのは珍しい」と呆れられるほどの地域というのも確か。(もっとも自立心が低い人が多いかも。なあなあの雰囲気がイヤで町を離れる人も多いように思います)正直町中が仲間という雰囲気、甘えが無遠慮な詮索や発言につながっているという気もします。」という。それをかつての時代の悪い面と捉えてしまってはならない。きっとかつてはもっと自立したうえで相互補助がされていたはずで、それを現代に適正に伝えてこなかった、あるいは社会の変化に合わせて住民が理解してこなかったためにちぐはぐな社会が形成されてしまったのではないだろうか。それは、形だけ個人を主張しようとしている現代の典型であって、自立のはき違えともいえるかもしれない。

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2 コメント

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混乱の中にあります (jun-chichi)
2008-02-09 15:31:12
>相互補助

今はどうもその「相互補助」といういわゆる社会保障の代わりのようなものがなくなって、ちょっとグダグダの仲良しクラブになっている面が強いです。
そういう会にいくつも入っている人も有れば、全く関わらない人もあり。町村合併でより後者が増える、あるいは町から出て行く人が増えるという感じです。
ほんの15年前までは衰えつつも「互助会」が機能していたのですが…。
ある老婆はよく嘆くのですが、「元気なときは預金講(頼母講)や結の仲間が家に良く来てくれたのに、病気になったらサッパリ来なくなった。いいときだけの友達やった」と。かつての講や結であればそういうことはなかったのでしょう。

>ドイツ

隣国のデンマークに留学していた子の話を聞いたことがあります。その子の話ではデンマークもドイツと似たような社会なので配偶者を失った(か、もともと独身)老人にとってはクリスマスほど辛いものはないとか。
一方で若年失業者が非常に多いのでなかなか親元を出て行けない人も多いそうです。しかしいつまでも親元というのもイヤなのでルームシェアして暮らす若者も多いそうで。
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さっそくのコメント感謝 (trx_45)
2008-02-09 19:35:57
 さっそくコメントいただきましてありがとうございます。わたしのまわりをみたとき、農家とサラリーマンは完全に別世界、それぞれは相互に機能しないという印象があります。おそらくサラリーマンがいけないのでじょうが、かといって余裕がなければ、個人主義にならざるを得ない。すると、年寄がいる家に人は寄り付かなくなる。ことばではそんなかかわりのない環境はよくないと言うものの、それらを行政に「なんとかしろ」みたいな雰囲気もある。根本的に両者(二者択一で分けてもいけないでしょうが)が会話を持たないとどうにもならない。
 生家へ行くたびに、わたしの住む地域以上にどろどろとしているような感じで、どうして農村の社会はこんなことになってしまったのか、と思うばかり。
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