Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

神様はいたか

2009-04-04 09:47:44 | ひとから学ぶ
 WBCにすっかり目を奪われていて、今春のセンバツは印象の薄いものになってしまっただろう。事実国民がやれイチローが打てないとか韓国に負けたと一喜一憂していたとき、わたしも同様にセンバツの記事を読みもしなかった。オリンピックが始まるとプロ野球が沈んでしまうように、集中的な催しはとくに日本人の活躍で目を奪われてしまう。致し方ないことであるが、そんな中でも変わらず繰り広げられていた球児の舞台は、今春から改装されて真新しさを見せていたのだろう。しかしそれすら多くの人々の記憶には薄い。それでもWBC終了後はしだいにセンバツへ目が向いていったことは、わたしがそうであったように誰しもの流れだったのだろう。

 決勝戦で破れた花巻東の菊池君はこんなことを口にしている。「野球の神様が優勝はまだ早い、日本一の投手になって甲子園にまた戻ってこいと言っているんだと思う」と。決勝まできたからには「絶対勝つんだ」とのびのびやろうなんて思わないといった花巻東の気持ちは、はかなくも散ってしまったが、神様がまだ許してくれなかったのだという自らの戒めに導く辺りが、わたしたち日本人の心ありようではないだろうか。スポーツの世界ではときおりこうした言葉で敗戦を表現する選手がいる。もちろんそれはスポーツの世界だけではなく、不合格になっても自らの努力がたらなかったと言い聞かせながら、神様を掲げることはある。鼓舞させるためにも自らの努力が叶わなかった判決は神に委ねるのである。とはいえ全国の多くの高校球児の憧れの舞台での決勝戦のことである。けして菊池君は神様が許さなかったという理由で頂点に立てなかったわけではない。神様も予想できないようなほんの少しのところで判決が下ったようなものである。野球に限らずスポーツにはそういう場面というものがあるだろうが、チームという人の集団が、一瞬の動きの中で連携していく瞬間、そしてそれはほんの少しの狂いですら結果を変えてしまう。もちろん投手の失投だったとしても、必ずしもその失投から巧打を放てるわけではない。投げた、来た、打った、飛んできた、捕球する、そして次へ次へと動きは一瞬に模様替えしていく。これほど一瞬をつなぎこんでいくスポーツはほかには無いのではないだろうか。いっぽうで確かに投手交代やサイン交換という部分に時間を要し、興味の無い人たちには「こんなにだらだらしたスポーツは無い」と評されるかもしれないが、実は止まっている時間での駆け引きも、一瞬のために設けられたものであるはずだ。確かにプロ野球を見ていると長い時間がかかってスピーディーという印象を持てないゲームもある。しかし、神様でも予想つかないほどに流れが変化していく最中に、わたしたちはのめりこんで見ると、そのすべてが楽しく見えてくるはずだ。

 今回のセンバツではどちらが勝っても初めての県勢優勝というなかで思ったのは、唯一長野県勢が優勝を味わった昭和29年のセンバツを思い出す。もちろんわたしはまだこの世に生を受けていなかったから「思い出す」というのは適正ではないかもしれないが、語り草でいくらかのイメージを持っている。小さな大投手と言われた光沢毅(飯田長姫)が、マウンド上で見事な投球術を披露した。最少得点差の試合をしながら勝ち上がり、あっと言う間に頂点にたったという印象を、当時の誰もが持ったことだろう。好投手が揃ったと言われた今大会の決勝戦は、そうした意味で神様の仕業というのではなく、一瞬の出来事であったと思わせるものだった。だからこそ菊池君の言葉は、新鮮に聞こえたのだ。

コメント    この記事についてブログを書く
« 伝承の商品化 | トップ | 桜咲く »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事