Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

危うくとも、時を刻むだけ

2019-10-20 23:05:10 | つぶやき

 台風19号の影響甚だしい1週間だったが、ちまたでは浸水被害に遭われた方々の映像が日々報道されている。きっと日を追うほどに、被災地とそうでない地域、もっと言えば被災者と未被災の人たちの意識は乖離していくのだろう。当然のことなのだろうが、同じことを何度も繰り返しながらも、結果的に過去の記憶は遠のいていく。忘れさせないための仕業とすれば、これほどの仕打ちはないかもしれない。とはいえ、彼の地の出来事だと思うのも当然で、全てが下を向く必要もない。だからいっぽうで当たり前の日々がおくられるのも仕方ないこと。

 台風19号通過後の状況が時とともに変転している最中、例年開催される仕事の関係の会議に先週は出向いた。1泊する会議だったわけだが、「行ける人は行く」という確認の中で、サポート役のわたしたちも会場に向かった。当初は事務局に任せて、今後のことに備えてわたしたちは「中止というもんだろ」とわたしは口にしていたが、上の指示は「行け」となっての参加だった。災害とは無関係な参加者の中から自重する声があがるかと思ったら、わたしの周囲ではまったくそのような発想はなかった。それだけわが社の災害との関わり方を、お客さんたちに説明してこなかったツケなのだろう、そう感想を持った。ということは、今後さらに災害のお陰で大変なことになっても、「この人たちにわたしたちの状況を理解してもらえるだろうか」と、危惧が募った。

 記憶の中で最大の昭和58年災の後、しばらく大きな災害が発生するたびに「あの災害を乗り越えたのだから」、という上からの指示で、当たり前のように状況をクリアーしてきた。わたしが早くに見切った組合も、その度にどこか金目当てで心の蟠りを伏せてきた。それは、その後それほどの災害に出会わなかったからでもある。先日も記した通り、もはや記憶に留めていない人たちばかりになってしまった、それほど時を経てしまった今となっては、もう「あの災害を乗り越えたのだから」、という言葉はなくとも、「当たり前だから」という意識で自然とモノゴトは動くようになってしまっている。冷静になれば、まったく先が予想できないほど自らの立ち位置は危ういのに、それを語ろうともしない。ごく日常のごとく、それは進んでいく。度重なる事情説明が、この後どれほど時を刻もうとも、それが説明義務だとか、立場をわきまえた発言だとか、上は言うのだろうか。そして能天気な人たちが、わたしたちの時を奪っていくのだろうか、


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